あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1959年
    【#111】BOACスチュワーデス殺人事件
    BOACスチュワーデス殺人事件(ビーオーエーシースチュワーデスさつじんじけん)とは1959年3月10日、東京都杉並区の善福寺川(大宮八幡宮近くの宮下橋)でBOAC航空(現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人女性客室乗務員(当時27歳)が扼殺死体で発見された事件である。

    概要


    被害者の交友関係からベルギー人の神父が捜査線上に浮かんだが、弁護人とバチカン大使館一等書記官の立会いのもとでの5回に渡る事情聴取では進展がなく、6月11日、神父は病気療養のため、正規の出国手続を経てベルギーに帰国した[1]。事件はその後迷宮入りとなり、1974年3月10日公訴時効を迎えた。

    著名作家の見解


    三浦朱門は「もし当の神父が事件に無関係なら、なぜ積極的に警察に援助しないのだろう」と述べた[2]。 田中澄江は5月27日に神父を見舞い、被害者の立場にたった現在の心境をのべてもらった。「流暢な日本語である。…事実を曲げた猥雑なペンの暴力にもめげず、澄んできれいな目の色であった。」「警察が、調べる義務があると言えば、幾度でも出頭して、殺人者と見ようとする疑問に答えなければならない。」と著わした[3]。遠藤周作は「(マスコミは)あたかも彼が真犯人であるかのごとく、その写真を掲載したりその名を発表した。一種の人権蹂躙。」「突然の帰国は一般の日本人の根のない疑惑をさらにふかめる原因となった」と述べた[4]。
    松本清張はこの事件に関し『スチュワーデス殺し論』[1](ノンフィクション)を婦人公論に著し[5]、事件をモデルに小説『黒い福音』を執筆した。また捜査を担当した平塚八兵衛が退職した1975年、彼の捜査した事件の解説記事が毎日新聞と産経新聞に連載された[6][7]。後年にも井出孫六が取り上げた[8]。
    東京都監察医務院長で作家の上野正彦はその著書で「腕で首を絞めるのは外国人にみられる特徴」だと自身の監察医の経験から述べている(日本人の殺人では素手で相手の首を絞めて窒息しさせる場合、ほとんど指でつかんで締めている)。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1993年
    【#110】阪和銀行副頭取射殺事件
    阪和銀行副頭取射殺事件(はんわぎんこうふくとうどりしゃさつじけん)とは1993年に起こった殺人事件。2008年8月、公訴時効を迎えた未解決事件

    概要


    1993年8月5日午前7時50分頃、阪和銀行副頭取(当時62歳)が和歌山市の自宅から出勤するため、ハイヤーに乗り込んだところを男に拳銃で撃たれ死亡した。
    犯人の男は年齢40才程度、身長165センチから170センチ、服装はうす緑色の作業服上下を着て、サングラスと白いヘルメットを被っていた。
    4年後の1997年、阪和銀行が複数の暴力団・右翼団体などの反社会団体に対して不正融資を行ったとして、和歌山県警に特別背任容疑で阪和銀行幹部が逮捕される。不正融資事件の捜査の結果、警察は阪和銀行が「特殊案件貸し出しリスト」を作成していたことを見つけ、暴力団・右翼団体などの反社会団体に総額14億5000万円の不正融資をしていたことが発覚した。この不正融資事件には殺害された副頭取も嫌疑にかけられていたが、死亡していたため書類送検止まりで起訴されなかった。
    警察は不正融資事件と副頭取射殺事件が結ばれているとして捜査を進める。また、犯人は銃の扱いに慣れていること、阪和銀行の不正融資が射殺事件に関連しているとして、暴力団や右翼団体などの闇社会の犯行を視野に捜査を進めるが、物証が少なかったために犯人特定ができなかった。
    2008年8月5日、公訴時効が成立。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1993年
    【#105】八戸市女子中学生刺殺事件
    八戸市女子中学生刺殺事件(はちのへしじょしちゅうがくせいしさつじけん)とは、1993年10月に、青森県八戸市に住む中学2年(14歳。当時)の女子生徒が、自宅で刺殺体となって発見された事件。
    2008年10月に殺人罪の公訴時効(15年)を迎えた(未解決事件)。

    概要


    1993年10月27日、八戸市城下4丁目で、中学2年生の女子生徒(14)が自宅で刺殺され、病院で働く母親(46)が帰宅して発見した。玄関のガラス戸が割れ、外側に向かって破片が飛び散っていた。室内に物色された形跡はなかったが、玄関、居間、風呂場の脱衣所の3か所の窓が施錠されていなかった。
    犯行は、住宅密集地の、細い路地を入った被害者の自宅で、短時間のうちに行われた。そのため、当初は「すぐに犯人は逮捕される」と思われていた。青森県警は12万人の捜査員を投入し、重要参考人を含む約600人から事情を聴いたが、結局手掛かりは得られず、2008年10月27日午前0時、殺人罪の公訴時効(15年)を迎えた。
    当日の経過 [編集]
    7時25分
    被害者が、登校のため家を出る。
    7時30分
    次男、登校のため家を出る。
    母親も家を出る。施錠し、乗用車で出勤。
    14時25分
    授業が終了し、清掃時間となる。
    15時30分~17時30分
    部活(陸上競技)で河原を走る。
    17時40分~45分
    三人で下校する。
    「今日は早く帰らなきゃ」という理由で、よく立ち寄る食料品店には寄らず。
    17時53分
    JR本八戸駅前で友達と別れ、一人で自宅へ向かう。
    17時58分
    被害者宅の明かりが点いていないのを、通行人が確認。
    18時00分頃
    被害者が帰宅。
    18時15分~20分
    近所の16人が、被害者宅の玄関のガラスが割れる音を聞く。
    1人は外に出て確認したが、誰もいなかった。
    「助けて」の声も聞いた者もいた。
    18時23分頃
    母親が帰宅。玄関に鍵は掛かっていなかった。
    被害者が6畳間で倒れているのを発見。
    18時25分
    近所の人が助けを求められ、110番通報。
    18時27分
    119番受理。
    18時38分以降
    救急隊員が死亡確認。
    被害者と室内の様子 [編集]
    発見時は仰向けの状態で、口には粘着テープが張られ、両手は後ろ手に粘着テープで縛られていた。
    上半身は、学校指定のジャージーにパーカーを羽織っていたが、下半身は裸で座布団が掛けられていた。しかし、乱暴された跡はなかった。
    トレーナーのズボンと下着は、頭の右横の方に落ちていた。
    自宅で使われていた包丁が右足の横に落ちていたが、血も指紋もついていなかった(凶器としては使われていない)。
    左首、右ふくらはぎ、左ひざなど数カ所に傷があった。致命傷は心臓を貫通する刺し傷であり、死因は失血死だった。
    玄関のガラス戸が割れ、外側に向かって破片が飛び散っていた。被害者の左ひざには傷があった(「逃げようとしてガラス戸を割った時にできた」と思われている)。
    廊下から玄関には、痕跡が残っていた。「玄関まで逃げ、ひざでガラス戸を割ったあと犯人に捕まり、部屋まで引きずり戻された」と思われている。
    殺害場所(寝室)以外で血痕があったのは、玄関付近の廊下1か所だけである。「玄関から引きずり戻す時に、心臓を刺した」と思われている。
    室内に物色された形跡はなかったが、玄関、居間、風呂場の脱衣所の3か所の窓が施錠されていなかった。
    極めて短時間での殺害 [編集]
    被害者は、事件当日は18時頃に帰宅。母親は、18時23分頃に帰宅している。従って、犯行は20分ほどの間に行われている。
    被害者のひざの傷が、「玄関のガラスを割った時に付いたもの」だとすると、18時15分~18時20分頃にガラスが割れる音を近隣の人たちが聞いていることから、母親が帰宅するまでの3分間から8分間に殺された可能性がある。
    ガラスが割れる音と共に「助けて」の声もあった、と報道されていることから、口に粘着テープを張られたのはその後と考えられている。

    遺留品、目撃証言など


    犯人の遺留品 [編集]
    いずれも、遺体が見つかった部屋(寝室)の隣の部屋のコタツの上にあった。
    タバコの吸殻2本
    タバコのナンバーから、日本たばこ産業盛岡工場で製造されたパックのマイルドセブンライトとみられる。
    被害者の家族で、タバコを吸う者はいない。
    缶コーヒーの缶
    灰皿代わりに使われていた。吸殻と同じく、犯人の遺留品と見られている。
    指紋は検出されなかった。
    布製粘着テープ
    被害者の口に貼られていたものと同じ。日東電工社製の布製の粘着テープと見られている。
    750ナンバーの段ボール色で、幅のサイズは5cm。
    現場付近では、JR本八戸駅前のスーパーだけで売られていた。紙製より値段が高い。「一日に一本売れるかどうか」、という商品で、買う人は少ないという。
    不審者、不審な車 [編集]
    不審者
    「犯行直後に現場付近から走り去った、中年の男性」が住民に目撃されている。
    不審な車
    事件直後の18時30分頃、被害者宅の斜め後ろ(現場の西側に当たる)にある駐車場から、走り去った軽自動車が目撃されている。
    車種は三菱製「ミニカトッポ」(90-93年型)で、色は黄色。
    車の後部のガラスの内側にはビニール製の赤い唇の飾りがあり、後部側面の白い網のアクセサリーがあった。
    この車は、同年8月ごろから無断駐車されていた。
    この車を運転していたのは、薄手の白いシャツを着た男で、ネクタイはしていなかった。
    事件後この車は見られなくなり、所有者は分かっていない。
    同型車で、「県内と岩手県北で登録された物」と、「県内を走っていた他県ナンバーの同型車」は約1900台。青森県警は、そのうち約680台(黄色の車両)を捜査した。

    家族構成など


    被害者は長女で、両親と2人の兄がおり、5人家族。
    父親(47)は、単身赴任のような感じであり、地方の仕事で家を空けることが多かった。事件当日も不在。
    長男(21)も仕事で他県に出ていた。
    当時同居していたのは、母親と高校生の次男(16)と被害者の3人だったが、事件発生時は母親と次男は家にいなかった。
    家の鍵は、母親と次男、被害者の3人がそれぞれ持っていた。
    家は平屋建て。裏には広い駐車場があった。
    青森県警は、1995年度までDNA型鑑定は導入していなかった。これは、47都道府県の警察で、最も遅い部類である。

    報道された捜査内容


    「毎週水曜のバレエ」と、待ち合わせの可能性 [編集]
    被害者は毎週水曜日にバレエを習っていた。事件があった10月27日も、母親に車で送ってもらうはずだった。
    レッスンは19時からで、いつもは18時50分頃に家を出ていたという。母親は、普段は19時30分頃に仕事から帰るが、水曜日は一緒にバレエに行くため、18時30分前後に帰宅していた。
    このため、被害者も18時30分までに帰宅すればいいことになるが、「今日は18時までに帰宅し、18時20分頃までは家にいなければならない」と友人に話していたことが分かっている。友人が理由を聞いても、バレエのレッスンのことも言わず、理由を濁していたという。
    「被害者が1人だけになる時間帯」に、「家族と会う確率も高く、居合わせても疑われない人物」と会う約束をしていた可能性に、警察も着目していた。
    被害者は、この日に届いていた「発表会用の衣装」を見ることはできなかった。
    包丁を持ち出したのは、どちらか? [編集]
    被害者の右足元近くには、台所にあるはずの小型の出刃包丁が落ちていた。血痕が全く付着しておらず、凶器としては使われていない。
    犯人は、凶器をあらかじめ準備していたと見られている。「だれが、どのタイミングで、何の目的でこの包丁を台所から持ち出した」のか、警察も着目していた。
    被害者は、帰宅した後、部屋にかばんを置き、六畳居間の室内灯をつけ、コタツのスイッチも入れたと見られている。
    「帰ってすぐ犯人に襲われた」とすると、被害者が包丁を台所から持ち出すことはほとんど無理と考えられる。台所にもみ合った跡などもないので、「犯人を振り切って台所に行き、包丁を取り出した」とも考えられない。逃げるのならば、玄関がすぐ近くにあるので、外へ逃げることも可能だったと思われる。
    また、「犯人が台所から包丁を持ち出しておいて、刺す時だけあらかじめ準備していた凶器に取り替えた」とも考えにくい。
    台所に血痕がない点から、「負傷する前に、被害者が威嚇・防衛などの目的で持ち出した」可能性もあると、警察は見ている。
    つまり、「警戒感を抱かない顔見知り」か、「そのほかの訪問者」を玄関で迎えた後に身の危険を感じ、持ち出したが奪われ、放置された、という可能性もある。これは、「被害者と犯人が、顔見知りかどうか」を判断する、重要なポイントになっている。
    顔見知りの犯行? [編集]
    遺体には、ひざ、ふくらはぎ、首に切り傷があったほか、致命傷は心臓を貫通する刺し傷だった。
    「犯行後に逃走すれば、事件との関連がわからなくなる人物」や、「顔を目撃されても、自分の立場が危うくならない人物」が、「明確な殺意を示す部位である、心臓を狙う可能性は低い」ことから、「被害者の証言で、自分の犯行が明らかになってしまうことを恐れたために、徹底的に攻撃を加えた可能性もある」と、警察は見ている。
    このことから、「被害者と犯人とは顔見知りである可能性」も視野に入れ、捜査をしていた。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1994年
    【#101】 日本テレビ郵便爆弾事件
    日本テレビ郵便爆弾事件(にほんテレビゆうびんばくだんじけん)は、1994年12月に日本テレビ放送網に郵送されたパイプ爆弾が爆発し、2名が重軽傷を負った事件。

    概要


    1994年12月21日水曜日午後5時45分頃、東京都千代田区二番町の日本テレビ放送網西本館(現・日テレ麹町ビル西館)6階にある編成局特別制作部製作センターで、子役の安達祐実(13歳)宛に送られてきた封筒が爆発。封筒を手で破って開封した、安達の所属事務所であるサンミュージックブレーンの31歳の男性社員が左手親指に重傷、日本テレビ関連会社映放(現・日本テレビ人材センター)の30歳の女性社員が軽傷を負った。近くに居合わせた、安達のマネージャー(35歳男性)も一時音が聞こえなくなる被害を受けた。なお、当時安達本人は隣接する北本館のスタジオで年末年始番組の収録を行っており、怪我はなかった。
    日本テレビ宛の郵便物はいったん館内の集配所で区分けされた後に各部署に配布されることになっており、爆発が起きたのは、映放社員がたまたま居合わせた安達の所属事務所の社員に「重いので気を付けるよう」注意の言葉を掛けて手渡した直後のことだった。
    麹町警察署及び警視庁捜査一課は傷害及び爆発物取締罰則違反の容疑で捜査を進めていたが、容疑者の検挙には至ることなく2009年12月21日時効が成立した。なお、爆発物取締罰則の最高刑は死刑であり、当時の刑事訴訟法での公訴時効は15年となる。

    送付された郵便物


    縦25cm・横9cmの市販の白色封筒で、宛先は「東京都千代田区二番町14 日本テレビ放送網アナウンス部 安達祐実様」、差出人は「都内港区新橋1-9-6 旭通信社」となっていた。500円の切手が貼られ、12月19日付の芝郵便局の消印があることから、12月18日夜から19日の夕方に掛けて芝局区内のポストに投函されたと見られている。
    封筒から、はんだ付けの跡がある単3乾電池3本、直径1.7cm×長さ14cmの鉄パイプ、ニクロム線、赤白のリード線、厚さ数mm・一辺1cmの正方形板状の磁石などが発見され、火薬の量は20g前後と見られている。
    なお、差出人として記された大手広告代理店の旭通信社(現・アサツー ディ・ケイ)は、広告業務において日本テレビとの取引はあるが、本件とは無関係と見られている。

    同様の事件


    前年の1993年夏に、ニッポン放送に爆発物が送りつけられる事件が2件発生している。宛名はいずれも深夜番組オールナイトニッポンのパーソナリティで、7月29日には裕木奈江、8月3日には加藤いづみとなっており、封筒の中から単3乾電池や爆竹が発見されている。
    翌年の1995年5月16日、東京都庁舎で青島幸男都知事宛に送られた小包が爆発、開封した男性職員が重傷を負った(東京都庁小包爆弾事件)。本をくりぬいて爆発物が仕込まれてあり、起爆の仕組みは日本テレビのものとほぼ似ていた。この事件はオウム真理教によるものであった。
    これらの事件を契機に郵政省(当時)は、不審な郵便物にはX線検査を行うようになった。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1954年
    【#100】仁保事件
    仁保事件(にほじけん)とは、1954年10月26日に山口県吉敷郡大内村仁保(現在・山口市仁保下郷)で起きた一家6名が殺害された殺人事件と、それによって生じた冤罪のこと。

    概要


    事件発生 [編集]
    事件は、1954年10月26日の午前0時頃に発生した。
    事件現場は、国鉄(現JR)山口線仁保駅の北東に2キロほど行った山あいの中腹に位置する農家の一つで、一家の主で農業を営む男性(当時49歳)と、その妻(42歳)、母親(77歳)、三男(15歳)、四男(13歳)、五男(11歳)の6名が襖で隔てられた3つの部屋で蒲団に入って就寝していたところを犯人に襲撃された。
    この一家は地元では裕福な農家の一人で近隣に8反もの農地と山林を所有しており、女性関係も派手だったという。
    6名は頭部や顔面を鈍器で殴打されたり、頸部と胸部を鋭利な刃物で刺されたりされ、蒲団の上で血染めになって死亡していた。後に、捜査当局は頭部を鍬で割り、頚動脈を切り心臓を刺すという執拗な殺害方法であると断定した。
    事件が発覚したのは、同日早朝の午前7時頃。いつもと違ってこの農家の雨戸が開いていない点を不審に思った隣家の主婦が不審に思い家の中を覗き見たところ6名の遺体を発見、警察へ通報した。
    難航する捜査から容疑者の逮捕まで [編集]
    当時、事件に関して県警は以下のような鑑識結果を得ており、毎日新聞が11月14日に報じている。
    事件は単独犯である。
    凶器で被害者の頭部を強く殴打していることから、犯人は返り血を浴びていない。
    母親が寝ていた部屋から発見された1.5メートルほどの縄は、外部から持ち込まれたモノである。
    事件は午前0時頃に起こった。
    足跡から察するにかなりの大男である。
    毒物を用いての犯行ではない。
    現場で発見された土は、犯人が付近の水田から持ち込んだものである。
    犯人は現場から物を盗んだ形跡はない。
    事件発覚当初、山口県警察は怨恨説と物盗り説の両方を想定して捜査を進めた。
    その上で、事件現場の近隣の前科者約160名を容疑者としてリストアップし、一人一人虱潰しに捜査を行なった。このリストには後に本事件の犯人として後に冤罪犯とされた男性も含まれていたが、当初は事件の発生した1年半前から郷里を出奔していたことからリストから外されていた。
    しかし、そうした捜査陣の努力とは裏腹に捜査は予想以上に難航した。
    県警は怨恨説から事件宅の隣家の主人を逮捕。しかし、証拠不十分のため23日の勾留期限で釈放した。
    業を煮やした県警はリストを徹底的に洗い直し、新たな容疑者として事件当時37歳の男性が浮上してきた。しかし、説得力のある証拠が出てきた訳ではなく、リストからの消去法で選ばれただけであった。
    県警は山口県を出奔する前に関与したとされる窃盗未遂事件で全国に指名手配した。この事件は男性の友人と二人で商店に侵入したものの結局は何も盗まなかったというものであった。窃盗未遂事件での全国指名手配は当時としても極めて異例である。
    これにより、男性は1955年10月19日に大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅にて住居侵入の容疑者として逮捕された。翌日、10月20日に大阪から山口警察署へと移送された。
    取調べから起訴まで [編集]
    大阪から山口県警へ移送された男性は1955年10月31日に仁保事件とは別の窃盗事件で起訴され(容疑は住居侵入及び窃盗未遂)、12月10日にはもう一つの別件であるマンホールの蓋の窃盗の罪状で起訴された。この時男性は贔屓にしていた弁護士による弁護を求めたが、警察が取り合わなかったことから本件での起訴まで弁護士がつくことがなかった。そのため、男性は孤立無援の状態で警察の取調べを受けることとなった。
    そして、11月2日に山口県警での仁保事件に関する取調べがスタートした。
    しかし、前述のように確固たる証拠のない状態での取調べであったことから、男性はアリバイを申し立てて犯行への関与を否定。調書によれば初めて否認したのは11月9日(ただし、調書がとられたのは翌日の11月10日)となっている。
    その後、11月22日の調書に犯行の自供が記録されているが、自供そのものは録音テープ(後述)によれば11月11日になされている。つまり、初めての自供から調書に記録が残るまで11日も経過しており、その間男性の供述は常に迷走していた。自供が最終的な形となったのは検察官による取調べが行なわれる1956年3月22日のことである。
    翌年、1956年2月1日に山口拘置所に移管。同年の3月23日に男性を連れての現場検証。1956年3月30日にようやく起訴の運びとなった。
    録音テープの存在
    この事件では日本の警察では珍しく取調べの様子が録音テープに記録が残っている。後述するようにこのテープはのちのち重要になるのでここで詳しく触れておく。
    これは、仁保事件の3年前に同じ山口県で起こった八海事件(後に冤罪事件となる)で被告の自供が法廷での争点となった点を踏まえたものであった。
    このテープは全部で33巻にも及ぶ。しかし、これは取り調べの全容を網羅したものではなく、あくまでその一部を記録したものに過ぎない。結果としてテープは法廷で検察側によって被告の自供を補強する役割しか果たさなかった。
    テープには警察での取調べの様子が克明に記録されているが、そこには警察による被告に対する執拗な取調べの様子が窺える。

    裁判の経過


    1956年 -
    3月30日 - 男性を山口地方裁判所に起訴。
    5月2日 - 山口地裁での第1回の公判。公判では取調べとはうってかわって犯行を全面的に否定。
    1962年 -
    6月15日 - 山口地裁で死刑判決が下る。地裁は警察の取調べでの拷問の事実は否定したものの被告の自供には無理があるとした。しかし、検察に対する自供の任意性は認めた。被告は広島高等裁判所に控訴。
    1968年 -
    2月14日 - 広島高裁は控訴を棄却し、第一審の死刑判決を支持。又、検察のみならず警察の取調べでの自供も任意性があると判断した。
    1970年 -
    7月31日 - 最高裁判所は第二審の判決を重大な事実誤認があるとして、判決を破棄し広島高裁へ差し戻し。自供の任意性への判断は保留したが、自供の変遷に対して少なからず信用できない点があるとした。なお、弁護側は最高裁では(1)事件現場には最低でも3人分の足跡があった(2)創傷を分析すると鍬、出刃包丁以外の凶器がある、という2点から男性の無罪を主張した。
    9月22日 - 被告の保釈が決定。
    1972年 -
    12月14日 - 広島高裁が殺人での無罪の判決を下す(別件のマンホール窃盗で懲役6ヶ月)。
    12月27日 - 検察が上告を断念。事件発生から18年、被告の逮捕から17年を経て、男性の殺人の無罪が確定。

    補足


    事件現場は現在では草木に覆われており、凄惨な事件の痕跡を残すものは何もないという。
    仁保事件に題を得た「自白」というドキュメンタリードラマを朝日放送が1972年11月11日に放送を予定していたが、中立を欠いており、肖像権の侵害に当たるとして、前日に放送が急遽中止になった。又、同じく朝日放送が12月24日に冤罪の嫌疑を受けた男性に密着取材をした「二四時間」を放送予定だったが、これも中止となった。
    この事件には刑事訴訟法の専門家で冤罪問題に詳しい、若き日の東京都立大学(当時)の研究室に所属していた小田中聰樹(現在は東北大学法学部の名誉教授)も救援運動に協力した。
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