あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1954年
    【#100】仁保事件
    仁保事件(にほじけん)とは、1954年10月26日に山口県吉敷郡大内村仁保(現在・山口市仁保下郷)で起きた一家6名が殺害された殺人事件と、それによって生じた冤罪のこと。

    概要


    事件発生 [編集]
    事件は、1954年10月26日の午前0時頃に発生した。
    事件現場は、国鉄(現JR)山口線仁保駅の北東に2キロほど行った山あいの中腹に位置する農家の一つで、一家の主で農業を営む男性(当時49歳)と、その妻(42歳)、母親(77歳)、三男(15歳)、四男(13歳)、五男(11歳)の6名が襖で隔てられた3つの部屋で蒲団に入って就寝していたところを犯人に襲撃された。
    この一家は地元では裕福な農家の一人で近隣に8反もの農地と山林を所有しており、女性関係も派手だったという。
    6名は頭部や顔面を鈍器で殴打されたり、頸部と胸部を鋭利な刃物で刺されたりされ、蒲団の上で血染めになって死亡していた。後に、捜査当局は頭部を鍬で割り、頚動脈を切り心臓を刺すという執拗な殺害方法であると断定した。
    事件が発覚したのは、同日早朝の午前7時頃。いつもと違ってこの農家の雨戸が開いていない点を不審に思った隣家の主婦が不審に思い家の中を覗き見たところ6名の遺体を発見、警察へ通報した。
    難航する捜査から容疑者の逮捕まで [編集]
    当時、事件に関して県警は以下のような鑑識結果を得ており、毎日新聞が11月14日に報じている。
    事件は単独犯である。
    凶器で被害者の頭部を強く殴打していることから、犯人は返り血を浴びていない。
    母親が寝ていた部屋から発見された1.5メートルほどの縄は、外部から持ち込まれたモノである。
    事件は午前0時頃に起こった。
    足跡から察するにかなりの大男である。
    毒物を用いての犯行ではない。
    現場で発見された土は、犯人が付近の水田から持ち込んだものである。
    犯人は現場から物を盗んだ形跡はない。
    事件発覚当初、山口県警察は怨恨説と物盗り説の両方を想定して捜査を進めた。
    その上で、事件現場の近隣の前科者約160名を容疑者としてリストアップし、一人一人虱潰しに捜査を行なった。このリストには後に本事件の犯人として後に冤罪犯とされた男性も含まれていたが、当初は事件の発生した1年半前から郷里を出奔していたことからリストから外されていた。
    しかし、そうした捜査陣の努力とは裏腹に捜査は予想以上に難航した。
    県警は怨恨説から事件宅の隣家の主人を逮捕。しかし、証拠不十分のため23日の勾留期限で釈放した。
    業を煮やした県警はリストを徹底的に洗い直し、新たな容疑者として事件当時37歳の男性が浮上してきた。しかし、説得力のある証拠が出てきた訳ではなく、リストからの消去法で選ばれただけであった。
    県警は山口県を出奔する前に関与したとされる窃盗未遂事件で全国に指名手配した。この事件は男性の友人と二人で商店に侵入したものの結局は何も盗まなかったというものであった。窃盗未遂事件での全国指名手配は当時としても極めて異例である。
    これにより、男性は1955年10月19日に大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅にて住居侵入の容疑者として逮捕された。翌日、10月20日に大阪から山口警察署へと移送された。
    取調べから起訴まで [編集]
    大阪から山口県警へ移送された男性は1955年10月31日に仁保事件とは別の窃盗事件で起訴され(容疑は住居侵入及び窃盗未遂)、12月10日にはもう一つの別件であるマンホールの蓋の窃盗の罪状で起訴された。この時男性は贔屓にしていた弁護士による弁護を求めたが、警察が取り合わなかったことから本件での起訴まで弁護士がつくことがなかった。そのため、男性は孤立無援の状態で警察の取調べを受けることとなった。
    そして、11月2日に山口県警での仁保事件に関する取調べがスタートした。
    しかし、前述のように確固たる証拠のない状態での取調べであったことから、男性はアリバイを申し立てて犯行への関与を否定。調書によれば初めて否認したのは11月9日(ただし、調書がとられたのは翌日の11月10日)となっている。
    その後、11月22日の調書に犯行の自供が記録されているが、自供そのものは録音テープ(後述)によれば11月11日になされている。つまり、初めての自供から調書に記録が残るまで11日も経過しており、その間男性の供述は常に迷走していた。自供が最終的な形となったのは検察官による取調べが行なわれる1956年3月22日のことである。
    翌年、1956年2月1日に山口拘置所に移管。同年の3月23日に男性を連れての現場検証。1956年3月30日にようやく起訴の運びとなった。
    録音テープの存在
    この事件では日本の警察では珍しく取調べの様子が録音テープに記録が残っている。後述するようにこのテープはのちのち重要になるのでここで詳しく触れておく。
    これは、仁保事件の3年前に同じ山口県で起こった八海事件(後に冤罪事件となる)で被告の自供が法廷での争点となった点を踏まえたものであった。
    このテープは全部で33巻にも及ぶ。しかし、これは取り調べの全容を網羅したものではなく、あくまでその一部を記録したものに過ぎない。結果としてテープは法廷で検察側によって被告の自供を補強する役割しか果たさなかった。
    テープには警察での取調べの様子が克明に記録されているが、そこには警察による被告に対する執拗な取調べの様子が窺える。

    裁判の経過


    1956年 -
    3月30日 - 男性を山口地方裁判所に起訴。
    5月2日 - 山口地裁での第1回の公判。公判では取調べとはうってかわって犯行を全面的に否定。
    1962年 -
    6月15日 - 山口地裁で死刑判決が下る。地裁は警察の取調べでの拷問の事実は否定したものの被告の自供には無理があるとした。しかし、検察に対する自供の任意性は認めた。被告は広島高等裁判所に控訴。
    1968年 -
    2月14日 - 広島高裁は控訴を棄却し、第一審の死刑判決を支持。又、検察のみならず警察の取調べでの自供も任意性があると判断した。
    1970年 -
    7月31日 - 最高裁判所は第二審の判決を重大な事実誤認があるとして、判決を破棄し広島高裁へ差し戻し。自供の任意性への判断は保留したが、自供の変遷に対して少なからず信用できない点があるとした。なお、弁護側は最高裁では(1)事件現場には最低でも3人分の足跡があった(2)創傷を分析すると鍬、出刃包丁以外の凶器がある、という2点から男性の無罪を主張した。
    9月22日 - 被告の保釈が決定。
    1972年 -
    12月14日 - 広島高裁が殺人での無罪の判決を下す(別件のマンホール窃盗で懲役6ヶ月)。
    12月27日 - 検察が上告を断念。事件発生から18年、被告の逮捕から17年を経て、男性の殺人の無罪が確定。

    補足


    事件現場は現在では草木に覆われており、凄惨な事件の痕跡を残すものは何もないという。
    仁保事件に題を得た「自白」というドキュメンタリードラマを朝日放送が1972年11月11日に放送を予定していたが、中立を欠いており、肖像権の侵害に当たるとして、前日に放送が急遽中止になった。又、同じく朝日放送が12月24日に冤罪の嫌疑を受けた男性に密着取材をした「二四時間」を放送予定だったが、これも中止となった。
    この事件には刑事訴訟法の専門家で冤罪問題に詳しい、若き日の東京都立大学(当時)の研究室に所属していた小田中聰樹(現在は東北大学法学部の名誉教授)も救援運動に協力した。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1970年
    【#91】豊橋事件
    豊橋事件(とよはしじけん)とは1970年(昭和45年)に愛知県豊橋市で発生した、強姦放火殺人事件とそれに伴う冤罪事件。

    概要


    1970年(昭和45年)5月15日、豊橋市で起こった火災現場で、親子3名の他殺体が発見された。母親は何者かに強姦された上で殺害され、子供2人は放火されたために焼死していたという、残酷極まりない犯行であった。

    被疑者


    3ヵ月後の8月28日、被疑者として21歳(当時)の男性が逮捕され、9月には強姦致死・殺人放火・窃盗で起訴された。11月に行われた初公判では容疑を認めたが、翌年3月に行われた2回目公判からは否認に転じた。最初の時点では、「極刑が予想される恐怖から、態度を変えた」と思われていた。

    裁判


    被告人の男性の無罪の訴えに対し、私選弁護人3人も無罪の論陣を張った。
    1973年12月に行われた公判では、捜査時の刑事(当時は定年退職していた)を弁護側の証人として招聘することに成功した。元刑事は、「被告人が真犯人であるとの疑念は消えない」と証言したが、「捜査が物証に基づかないものであった」と批判した。
    検察側は、「被告人の無罪を証明する、明白な証拠」を持っていた(後述)が、公判では隠匿し、死刑を求刑していた。しかし、被告側が「捜査本部が冤罪を作り上げた過程」を証明したため、1974年6月12日に無罪判決が宣告され、そのまま確定した。
    以上のように、「犯人として逮捕された人物」が、新聞記者や現職の警官の活躍により冤罪事件であったことが裁判で認められ、一審で無罪判決が確定した。真犯人が逮捕されないまま1985年に公訴時効を迎え、未解決事件となっている。
    物証の隠蔽 [編集]
    無罪確定から5年後、物証が明るみに出た。「犯人のものと思われる、B型の精液が付いたサルマタ」が、現場から発見されていたのである。
    当初、捜査機関は「家族の夫のもの」と弁解していた。しかし、被害者の夫は非分泌型の血液型のため、被害者の夫の精液であれば血液型が判明するはずがなかった。被疑者の血液型はA型であったため、無罪の証明となった。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1968年
    【#60】首都圏女性連続殺人事件
    首都圏女性連続殺人事件(しゅとけんじょせいれんぞくさつじんじけん)とは1968年から1974年にかけて首都圏で発生した連続女性暴行殺人事件。

    概要


    1968年から1974年にかけて千葉県埼玉県東京都で連続女性暴行殺人事件が発生。内容は1人暮らしの女性が深夜、強姦されたうえで殺害されるという事件が11件起こっていた。被害者の大半は20代で、現場に残されていた加害者とされる血液型がO型の事件が多かったこと、殺害方法は暴行焼殺9件、暴行穴埋め2件と、同一犯によるものという見方が強かった。
    その内、いくつかの事件現場で目撃情報があったこと、14回もある逮捕歴に放火や暴行の前科があったこと、血液型O型だった小野悦男が松戸市の1殺人事件で、逮捕・起訴された。他の事件でも小野悦男と結びつける状況証拠があったことで、マスコミが首都圏女性連続殺人事件の犯人視扱いにする報道を展開した。ただ、加害者の血液型はO型ではない事件もあり、狙われた女性も年代にもばらつきがあるため、首都圏女性連続殺人事件の11件全てを「同一犯によるもの」とまとめるのは疑問が残っていた。実際に葛飾区の1事件で小野悦男とは別の人間が真犯人と判明して解決している。
    裁判では捜査機関が自白強要したことが問題視され、小野悦男は無罪となった。

    一連の事件


    1968年7月13日、足立区の空き地で26歳のOLが暴行の上、焼殺された。事件の数日後、小野悦男が犯人だと密告電話が入るも、物証がないため逮捕断念。
    1973年1月26日、北区のアパートで就寝中の22歳のOLが絞殺され放火。事件発生2日前に事件現場近くを深夜、バールを持って歩いていた小野悦男が検挙された。
    同年2月13日、杉並区のアパートで放火事件。67歳の女性と22歳の男性焼死。
    1974年6月25日、松戸市在住の30歳の主婦が失踪。8月10日に同市内の造成地で絞殺体で発見。
    同年7月3日、千葉県松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された(#松戸OL殺人事件)。
    同年7月10日、松戸市内のアパートで21歳の教師が暴行の上、焼殺された。現場近くで小野悦男が目撃された。その後、小野悦男が殺人罪で立件された。
    同年7月14日、葛飾区で48歳の料理店経営女性と58歳の店員女性が暴行された上、焼殺。後年、別の犯人が逮捕されて解決した唯一の事件。
    同年7月24日、草加市内のアパートで22歳の薬局店店員女性が暴行されて放火。東武伊勢崎線草加駅の始発電車に小野悦男に似た男性を駅員が目撃。しかも7月1日に小野悦男は現場の向かいのアパートに暴行目的で女性の部屋に侵入するも、騒がれて逃走していた。
    同年8月6日、足立区内にある42歳の会社員男性宅に侵入して、24歳のOLが暴行された上、焼殺。小野悦男によく似た男が現場から逃走する姿が目撃されている。また小野悦男は1年前に会社員宅に侵入していたことが判明。
    同年8月9日、志木市内のアパートで21歳のOLが暴行の上、焼殺された。犯人の血液型がA型またはAB型であり、小野悦男と同じO型でないことが判明。


    松戸OL殺人事件


    1974年7月3日、千葉県松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された。
    首都圏連続女性暴行殺人事件が発生していたが、どれも犯人を確定する物証が乏しく、多くの事件で目撃情報などが寄せられていた足立区の小野悦男(当時38歳)のほかに、数百人の人間がリストアップされていた。
    同年7月10日に事件現場の付近で発生した女性暴行未遂事件現場から発見された足跡の一致、信金OLの遺体から検出された犯人の血液型がO型だったことから、小野悦男を犯人と特定、9月12日に窃盗の別件逮捕に踏み切り、殺人容疑で再逮捕する。殺人容疑逮捕時、マスコミが連続女性暴行殺人事件の犯人であると誤報。その後、検察が殺人事件としては松戸事件の1件しか起訴されなくても、連続女性殺人事件の犯人であるかのような報道を続けた。これが後の冤罪支援運動の火種となる。
    逮捕後、物証能力に乏しいと判断した地検はいったん小野悦男を釈放するも、警察は小野悦男の自白によって被害者の所有物が発見できたことや、犯人と小野悦男の類似性(血液型や毛髪など)を強調して再逮捕。1975年3月12日、小野悦男を信金OL殺人で起訴。この起訴と時を同じくして、小野悦男の冤罪支援運動のため文化人、宗教関係者、弁護士らが「小野悦男さん救援会」を結成。小野悦男の弁護人を担当した野崎研二は代用監獄など自白の信用性そのものを突き崩す弁護戦略を行った。
    1986年9月4日、千葉地裁松戸支部で無期懲役判決。
    1991年4月23日、東京高裁で松戸市の殺人事件において、自白に信用性が乏しいと無罪判決を言い渡し、松戸市殺人事件の無罪が確定した。別件の窃盗罪と婦女暴行で懲役6年判決が出ていたが、未決勾留日数が参入されたため刑務所に服役することはなかった。16年ぶりの釈放であった。未決拘置期間6068日のうち別件で有罪となった6年を差し引いた3871日を対象として総額約3650万円が小野に支給された。

    その後


    1991年に無罪が確定した小野悦男は代用監獄や自白偏重捜査を批判する冤罪のヒーローとして冤罪被害の集会などで講演をしていたが、1992年に窃盗を働いたため2年間服役した。出所後の1996年に足立区首なし女性焼殺事件で41歳女性を殺した殺人犯として逮捕された。松戸事件とは違い決定的な証拠を警察から突きつけられたため、小野悦男は犯行を認め、1999年に裁判で無期懲役が確定した。

    連続女性殺人事件の真相


    首都圏女性連続事件に関しては、後に1件だけ犯人が逮捕されて解決するも、他10事件は全て公訴時効を迎えて未解決事件となった。
    小野悦男が1996年の足立区の殺人事件の犯人と判明して以降、殺人罪で立件された松戸事件を初め、他の首都圏女性連続殺人事件も小野悦男が関与した事件もあったのではないかという疑念が再度浮上した。立件された松戸事件の犯人については、小野の自供によって被害者の遺留品が発見されたため犯人しか知りえない秘密の暴露に該当するため小野悦男が犯人であるとするか、警察があらかじめ発見した遺留品を小野に拷問で自白をした後で発見された証拠であり警察の捏造した証拠を持って小野悦男が犯人ではないとするかで、意見が分かれている。なお足立区の殺人事件が発覚後、松戸事件の小野の弁護人だった野崎は「弁護人としては当時口が裂けても言えなかったが、(松戸事件の)一審の途中から小野を疑い始めていた」と告白している。
    小野悦男自身は足立区の殺人事件の犯人と判明して以降も、松戸事件を含めた首都圏女性連続殺人事件に関与していないと無実を主張している。
    なお、松戸事件は仮に時効がなかったとしても、一事不再理という刑事原則により、小野悦男に対して刑事事件で再審理は行うことができない。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1954年
    【#55】島田事件
    島田事件(しまだじけん)とは1954年3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人殺人死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが再審で無罪になった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つ。

    概要


    1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬莱橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。
    静岡県警の司法鑑定医師(後の静岡県警科学捜査研究所長)の鈴木完夫は司法解剖の結果、犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害したと鑑定した。
    被害者の女児を誘拐した犯人の目撃情報はいずれも、スーツを着てネクタイを締めて髪を7・3分けにした、会社員または公務員に見える若い男だった。警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴者、精神病歴者、知的障害者の捜査対象者として捜査したが被疑者を発見することも、被疑者を特定できる情報も発見できなかった。
    1954年5月24日、当時の岐阜県鵜沼町(現在の岐阜県各務原市)で静岡県警が捜査対象者としていた精神病歴者、知的障害者であり、所在不明で事情聴取されていなかった男性(当時25歳)が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束され、島田警察署に護送された。
    警察は男性を窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの供述を強要した結果、男性に被害者の女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞めて殺害したとの虚偽の供述をさせて供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

    男性の個人的状況


    男性は軽度の知能障害と精神病歴があり、二度の自殺未遂歴と二度の窃盗の前歴があり、一回目の窃盗の時は少年院に入院し、二回目の窃盗の時は刑務所で服役し1953年7月に出所した。男性は就職しても職場に溶け込めず、他者と適切な会話や意思疎通や人間関係を形成できず、仕事に適応できずに短期で離職する傾向があり、自宅に定住せずに放浪する傾向があった。

    裁判の経過・結果


    裁判では男性は捜査段階で「警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である」と主張した。裁判は下記のとおりの経過・結果になった。
    地裁公判中に裁判官は東京大学教授の古畑種基に被害者の殺害方法について再鑑定を依頼し、古畑は被害者が強姦され胸部を打撃され首を絞められて殺害されたと、男性の供述調書に適合する鑑定結果を報告した。弁護人は東京都立松沢病院医師の鈴木喬と林に男性の精神鑑定を依頼し、鈴木と林の両医師は男性は軽度の知能障害があるが、心身喪失でも心神耗弱でもなく刑事責任能力はあるとの鑑定結果を報告した。
    裁判所は軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある男性が、捜査段階で犯行を供述していることに対して、公判で無実や犯行当時のアリバイを供述することは信用性が無いと判断した。
    1958年5月23日、静岡地裁は男性に死刑判決をした。
    1960年2月17日、東京高裁は控訴を棄却した。
    1960年12月5日、最高裁は上告を棄却し、男性の死刑判決が確定した。
    1986年5月30日、静岡地裁は男性と弁護人の第4次再審請求を棄却したが、抗告審の東京高裁は再審開始を決定し、審理を静岡地裁に差し戻した。
    1989年7月31日、再審の静岡地裁は無罪判決をした。
    1989年8月10日、検察官は控訴を断念し、逮捕から34年8ヶ月後、死刑判決確定から29年8ヶ月後に男性の無罪が確定した。
    再審では弁護人は被害者の殺害方法について東京医科歯科大学教授の太田伸一郎と上田政雄の両人に再鑑定を依頼し、両教授は古畑教授の鑑定結果に問題があり、捜査段階の鈴木医師の鑑定結果を支持する鑑定結果を報告した。
    無実の人が誤認で逮捕・起訴され、死刑判決が確定後に再審で無罪判決を受けた事例は免田事件、財田川事件、松山事件に続いて4件目であった。
    確定翌日の読売新聞1989年8月11日号ではこの無罪判決の記事が男性の公園で座る姿の写真入りでトップ記事に記載され、見出しは「35年振り自由の身」と打たれた。

    その他


    この事件では、男性の犯罪の証拠とされたものは上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。
    男性に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっている。複数人の目撃証言が一致する、被害女児を誘拐して犯人と推測される男の人相・体格と、男性の人相・体格は著しく異なっているが警察は無視した。
    男性は結果として再審による無罪判決は得たが、34年8ヶ月間の身柄拘束され29年8ヶ月は死刑囚として暮らす生活を送った。
    無実の男性を犯人視して以降はそれ以外の捜査を行わなかったので、殺害事件の真犯人を探し出すことはできなかった。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1950年
    【#47】財田川事件
    財田川事件(さいたがわじけん)は、1950年(昭和25年)2月28日に起きた強盗殺人(刺殺)事件とそれに伴った冤罪事件である。なお、地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で「財田川よ、心あれば真実を教えて欲しい」と表現したことである。

    冤罪被害者 谷口繁義さん
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    概要


    1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現三豊市)で、闇米ブローカーの杉山重雄さん(当時63歳)が全身30箇所を刃物でめった刺しにされて殺害され、現金1万3000円を奪われた。
    同年4月1日、隣町の三豊郡神田村(こうだむら)で2人組による強盗事件が発生した。その事件の犯人として谷口繁義(当時19歳)ともう1人が逮捕された。この2人は『財田の鬼』と近隣で嫌がられていた不良組だった。警察はこの2人を殺人の容疑で取り調べた。
    もう1人はアリバイが証明され釈放となったが、谷口はアリバイ成立に疑惑が残ったため、約2ヶ月に渡って厳しい拷問による取調べの結果、自白の強要により、8月23日、起訴された。


    裁判


    1950年11月6日
    高松地方裁判所丸亀支部で第一回の公判が行われた。裁判で谷口はアリバイと拷問による自白だと強く主張し、冤罪であると訴えた。これに対し検察側は、取調べ中にまったく出ていなかった、谷口が犯行時に着用したとする国防色ズボンに微量ではあるが杉山さんと同じO型の血痕が付着しているという物的証拠があり有罪であると主張した。
    この血痕鑑定は、当時日本の法医学の権威であると賞賛されていた古畑種基東京大学教授による鑑定であったが、後に実際の検査は古畑教授の門下生の大学院生が行っていたことが判明した。後にこの物的証拠は弁護側からAの衣類押収の際に捏造されたものと主張したが、後述のように多くの証拠品が破棄されているため、真実は不明だが捏造が事実であったとの疑いがある。

    1952年2月20日
    この物的証拠と捜査段階での自白が信用できるとして、高松地方裁判所丸亀支部は死刑判決。谷口は控訴。

    1956年6月8日
    高松高等裁判所で控訴を棄却。

    1957年1月22日
    最高裁判所も上告を棄却し、谷口の死刑判決が確定。

    後に問題とされたのは、素行不良との風評から地元において犯人との噂話があったことを根拠に、農協強盗事件で起訴された谷口を起訴後に勾留したうえ、さらに別件逮捕するなど長期勾留を継続したことと、そして代用監獄による警察施設での食事を含む24時間の過酷な管理下におき、精神的肉体的限界のもとで自白を迫ったことなど捜査機関の行き過ぎた取調べである。また検察側もこのような不適切な違法捜査を是認したばかりか、上塗りすら行ったという。また裁判所も当時の法医学の権威であった古畑教授の鑑定を安易に信用した過失があった。なお古畑教授の鑑定で有罪となり後に真犯人が判明し冤罪が確定した弘前大学教授夫人殺人事件も再審で『シャツの血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造である』と判断していたことから、現在の血痕鑑定では血痕そのものだけでなく、どのようにして血痕が付着したかについても鑑定が行われるようになっている。

    再審請求


    死刑が確定した後、谷口は大阪拘置所に移送された。これは四国の行刑施設に死刑設備(絞首台)がなかったための措置である。
    1969年、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して恩赦検討開始。大阪拘置所では、谷口のほかに放火殺人で死刑確定となったYHの合計2人が検討されたが、結局、恩赦を受けたのはYHのみだった。
    その後法務省刑事局は、谷口の死刑執行に向けて法務大臣に提出する死刑執行起案書を作成するために必要となる、裁判に提出しなかった記録を送付するように高松地方検察庁丸亀支部に対して命令した。しかし、高松地検は記録を紛失(破棄した疑惑もある)したため、法務大臣への稟議書が出せず死刑執行手続きが法的に不可能になった。そのため、Aの処刑は無期限延期の状態となった。

    一方、谷口は1964年(昭和39年)に「3年前の新聞記事によれば古い血液で男女を識別する技術が開発されたとあるが、自分は無実であるからズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と記した手紙を高松地裁に差し出した。その手紙は最高裁判決から12年後の1969年(昭和44年)、高松地裁丸亀支部長であった矢野伊吉裁判長によって5年ぶりに発見された。
    矢野は疑わしく思える部分から再審の手続きを済ませ、再審に乗り出したが、開始直前に反対運動が起こり、「手紙ごときで再審はおかしい、引っ込め」などの暴言をうけた。矢野は裁判長を辞め、弁護士として再出発し、谷口の弁護人となって新たに再審請求した。

    不可解な点


    矢野によれば事件には以下のような不可解な点があったという。事件の捜査を行ったのは元特別高等警察出身の警察官達であったが、同じメンバーが担当した「榎井村事件」も1994年に再審無罪になっている。
    長期勾留と拷問による自白強要(このような自白強要は現在の刑事訴訟法では排除法則によって真実であっても証拠にならない)

    ・自白調書が捜査機関によって不正作成されている
    ・犯行を告白した手記が偽造されている(谷口は尋常小学校卒で漢字が殆ど書けず作文能力が稚拙だったのに、ある程度まとまった文章でかかれている。そのうえ作為的な文法ミスがある)
    ・物的証拠を捏造している
    ・高松地検丸亀支部による公判不提出捜査記録の破棄(そのため死刑手続自体が不可能になった)
    ・弟と一緒に就寝していたというアリバイが成立する(親族による証言のため採用されなかった)

    無罪


    1976年10月12日
    最高裁は谷口の自白に矛盾があるとする「3つの疑問と5つの留意点」を指摘して高松地裁に差し戻し。

    1979年6月7日
    高松地裁は再審開始を決定。

    1981年3月14日
    検察側の即時抗告を棄却したため再審開始。
    再審の公判では谷口は改めて拷問による自白を訴え、矢野は谷口の自白と現場検証の矛盾を突いた。また、地裁で出廷していた東大の教授が科学の進歩によりこれまで解明できなかった血痕に関して、谷口の衣類に別の血痕が混じっており、警察・検察がばら撒いたことを示唆した。また捜査機関による自白調書の信用性に対する疑問も主張した。

    1984年3月12日
    高松地裁は、被告人の自白には真実ではないとの疑いがある上、唯一の物的証拠であるズボンも事件当日に着用していた証拠はないとして、本事件と被告人とを結び付けえる証拠は存在しないとして、無罪を言い渡された。

    しかし矢野は谷口の無罪判決を聞くことなく1983年(昭和58年)3月に他界(享年71)していた。なおAは獄中生活34年目にして無罪放免された。その後、谷口は2005年(平成17年)7月26日に病死(享年74)した。
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