あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1968年
    【#72】ゾディアック事件
    ゾディアック事件(ゾディアックじけん、英:Zodiac Killer)は、アメリカ合衆国の連続殺人事件。

    概要


    1968年から1974年のサンフランシスコで警察が確認できた被害者5名を殺害。現在も犯人不明のまま、事件は解決されていない。
    1990年代には、ニューヨークでこの事件を模倣した連続殺人が発生した。以後ゾディアックは連続殺人の代名詞にもなる。

    一連の事件


    1968年12月20日、サンフランシスコで2人の10代の若者、1人は重傷の男マイケル・マジョー、そしてもう1人は死亡した女性ダーレン・フェリンが発見される。
    1969年7月5日、男がヴァレホ警察に電話をして2件の殺人を報せ、それ以前の殺人も自分のものだと言った。警察は電話をかけてきた男の指示した場所で新たなカップルの犠牲者を発見したが、男性は死んではおらず、その襲撃から生き残った。
    翌月に掛けてゾディアック(黄道十二宮の意)と名乗る人物がサンフランシスコ湾域警察、新聞社「タイムズ・ヘラルド」とサンフランシスコの2社、著名人へ多量の手紙を送った。あるものは部分的に暗号化されていた。
    1969年9月、ナパ警察は電話を受け、新たなカップルの犠牲者を発見。男性は生き残る。
    1969年10月、ゾディアックはタクシーの運転手を撃ち殺し、男のシャツの切れ端を地元の新聞社に送った。彼は警察署への電話を続け、弁護士とも接触を持とうとした。
    1974年 サンフランシスコ警察へすでに37人を殺害したこと、新聞でもっと大きく取り扱わないと「何かすさまじいこと」をやるとあった2通の最後のゾディアックの手紙が受け取られた。しかしそれ以前に殺人事件は終息していた。
    2009年、「真犯人は私の父」とデボラ・ペレスが名乗り出た。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1968年
    【#60】首都圏女性連続殺人事件
    首都圏女性連続殺人事件(しゅとけんじょせいれんぞくさつじんじけん)とは1968年から1974年にかけて首都圏で発生した連続女性暴行殺人事件。

    概要


    1968年から1974年にかけて千葉県埼玉県東京都で連続女性暴行殺人事件が発生。内容は1人暮らしの女性が深夜、強姦されたうえで殺害されるという事件が11件起こっていた。被害者の大半は20代で、現場に残されていた加害者とされる血液型がO型の事件が多かったこと、殺害方法は暴行焼殺9件、暴行穴埋め2件と、同一犯によるものという見方が強かった。
    その内、いくつかの事件現場で目撃情報があったこと、14回もある逮捕歴に放火や暴行の前科があったこと、血液型O型だった小野悦男が松戸市の1殺人事件で、逮捕・起訴された。他の事件でも小野悦男と結びつける状況証拠があったことで、マスコミが首都圏女性連続殺人事件の犯人視扱いにする報道を展開した。ただ、加害者の血液型はO型ではない事件もあり、狙われた女性も年代にもばらつきがあるため、首都圏女性連続殺人事件の11件全てを「同一犯によるもの」とまとめるのは疑問が残っていた。実際に葛飾区の1事件で小野悦男とは別の人間が真犯人と判明して解決している。
    裁判では捜査機関が自白強要したことが問題視され、小野悦男は無罪となった。

    一連の事件


    1968年7月13日、足立区の空き地で26歳のOLが暴行の上、焼殺された。事件の数日後、小野悦男が犯人だと密告電話が入るも、物証がないため逮捕断念。
    1973年1月26日、北区のアパートで就寝中の22歳のOLが絞殺され放火。事件発生2日前に事件現場近くを深夜、バールを持って歩いていた小野悦男が検挙された。
    同年2月13日、杉並区のアパートで放火事件。67歳の女性と22歳の男性焼死。
    1974年6月25日、松戸市在住の30歳の主婦が失踪。8月10日に同市内の造成地で絞殺体で発見。
    同年7月3日、千葉県松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された(#松戸OL殺人事件)。
    同年7月10日、松戸市内のアパートで21歳の教師が暴行の上、焼殺された。現場近くで小野悦男が目撃された。その後、小野悦男が殺人罪で立件された。
    同年7月14日、葛飾区で48歳の料理店経営女性と58歳の店員女性が暴行された上、焼殺。後年、別の犯人が逮捕されて解決した唯一の事件。
    同年7月24日、草加市内のアパートで22歳の薬局店店員女性が暴行されて放火。東武伊勢崎線草加駅の始発電車に小野悦男に似た男性を駅員が目撃。しかも7月1日に小野悦男は現場の向かいのアパートに暴行目的で女性の部屋に侵入するも、騒がれて逃走していた。
    同年8月6日、足立区内にある42歳の会社員男性宅に侵入して、24歳のOLが暴行された上、焼殺。小野悦男によく似た男が現場から逃走する姿が目撃されている。また小野悦男は1年前に会社員宅に侵入していたことが判明。
    同年8月9日、志木市内のアパートで21歳のOLが暴行の上、焼殺された。犯人の血液型がA型またはAB型であり、小野悦男と同じO型でないことが判明。


    松戸OL殺人事件


    1974年7月3日、千葉県松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された。
    首都圏連続女性暴行殺人事件が発生していたが、どれも犯人を確定する物証が乏しく、多くの事件で目撃情報などが寄せられていた足立区の小野悦男(当時38歳)のほかに、数百人の人間がリストアップされていた。
    同年7月10日に事件現場の付近で発生した女性暴行未遂事件現場から発見された足跡の一致、信金OLの遺体から検出された犯人の血液型がO型だったことから、小野悦男を犯人と特定、9月12日に窃盗の別件逮捕に踏み切り、殺人容疑で再逮捕する。殺人容疑逮捕時、マスコミが連続女性暴行殺人事件の犯人であると誤報。その後、検察が殺人事件としては松戸事件の1件しか起訴されなくても、連続女性殺人事件の犯人であるかのような報道を続けた。これが後の冤罪支援運動の火種となる。
    逮捕後、物証能力に乏しいと判断した地検はいったん小野悦男を釈放するも、警察は小野悦男の自白によって被害者の所有物が発見できたことや、犯人と小野悦男の類似性(血液型や毛髪など)を強調して再逮捕。1975年3月12日、小野悦男を信金OL殺人で起訴。この起訴と時を同じくして、小野悦男の冤罪支援運動のため文化人、宗教関係者、弁護士らが「小野悦男さん救援会」を結成。小野悦男の弁護人を担当した野崎研二は代用監獄など自白の信用性そのものを突き崩す弁護戦略を行った。
    1986年9月4日、千葉地裁松戸支部で無期懲役判決。
    1991年4月23日、東京高裁で松戸市の殺人事件において、自白に信用性が乏しいと無罪判決を言い渡し、松戸市殺人事件の無罪が確定した。別件の窃盗罪と婦女暴行で懲役6年判決が出ていたが、未決勾留日数が参入されたため刑務所に服役することはなかった。16年ぶりの釈放であった。未決拘置期間6068日のうち別件で有罪となった6年を差し引いた3871日を対象として総額約3650万円が小野に支給された。

    その後


    1991年に無罪が確定した小野悦男は代用監獄や自白偏重捜査を批判する冤罪のヒーローとして冤罪被害の集会などで講演をしていたが、1992年に窃盗を働いたため2年間服役した。出所後の1996年に足立区首なし女性焼殺事件で41歳女性を殺した殺人犯として逮捕された。松戸事件とは違い決定的な証拠を警察から突きつけられたため、小野悦男は犯行を認め、1999年に裁判で無期懲役が確定した。

    連続女性殺人事件の真相


    首都圏女性連続事件に関しては、後に1件だけ犯人が逮捕されて解決するも、他10事件は全て公訴時効を迎えて未解決事件となった。
    小野悦男が1996年の足立区の殺人事件の犯人と判明して以降、殺人罪で立件された松戸事件を初め、他の首都圏女性連続殺人事件も小野悦男が関与した事件もあったのではないかという疑念が再度浮上した。立件された松戸事件の犯人については、小野の自供によって被害者の遺留品が発見されたため犯人しか知りえない秘密の暴露に該当するため小野悦男が犯人であるとするか、警察があらかじめ発見した遺留品を小野に拷問で自白をした後で発見された証拠であり警察の捏造した証拠を持って小野悦男が犯人ではないとするかで、意見が分かれている。なお足立区の殺人事件が発覚後、松戸事件の小野の弁護人だった野崎は「弁護人としては当時口が裂けても言えなかったが、(松戸事件の)一審の途中から小野を疑い始めていた」と告白している。
    小野悦男自身は足立区の殺人事件の犯人と判明して以降も、松戸事件を含めた首都圏女性連続殺人事件に関与していないと無実を主張している。
    なお、松戸事件は仮に時効がなかったとしても、一事不再理という刑事原則により、小野悦男に対して刑事事件で再審理は行うことができない。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1968年
    【#52】三億円事件
    三億円事件(さんおくえんじけん)は、東京都府中市で1968年12月10日に発生した、窃盗事件である。三億円強奪事件ともいわれる。

    同事件のポスター
    52_poster


    概要


    1968年12月6日、日本信託銀行(後の三菱UFJ信託銀行)国分寺支店長宛に脅迫状が届く。翌7日午後5時までに指定の場所に300万円を女性行員に持ってこさせないと、支店長宅を爆破するというものであった。当日、警官約50名が指定の場所に張り込んだが、犯人は現れなかった。
    4日後、12月10日午前9時30分頃、日本信託銀行国分寺支店(現存せず)から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場へ、工場従業員のボーナス約3億円(正確には2億9430万7500円)分が入ったジュラルミンのトランク3個を輸送中の現金輸送車(セドリック)が、府中刑務所裏の府中市栄町、学園通りと通称される通りに差し掛かった。
    そこへ警官に変装して擬装白バイに乗った犯人が、バイクを隠していたと思われるカバーを引っ掛けた状態のまま輸送車を追いかけ、輸送車の前を塞ぐようにして停車した。現金輸送車の運転手が窓を開け「どうしたのか」と聞くと、「貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言って行員を輸送車から降ろさせた。
    4日前に支店長宛ての脅迫状が送り付けられてこともあり、その雰囲気に行員たちは呑まれてしまっていた。犯人は、輸送車の車体に潜り込み爆弾を捜すふりをして、隠し持っていた発煙筒に点火。「爆発するぞ! 早く逃げろ!」と避難させた直後に輸送車を運転し、白バイをその場に残したまま逃走した。この時銀行員は、警察官(犯人)が爆弾を遠ざけるために輸送車を運転したと勘違いし、「勇敢な人だ」と思ったという。しかし、バイクに詳しい銀行員が残された白バイが偽物と判断できたことから偽警察官による現金強奪事件が早くも判明した。
    9時50分に伊豆・小笠原を除く東京都全域に緊急配備が敷かれた。奇しくも、この日は毎年恒例の歳末特別警戒の初日であった。警察は要所要所で検問を実施したが、当初は車の乗換えを想定していなかった事もあり、当日中に犯人を捕まえることができなかった。
    被害金額約3億円(2億9430万7500円)は現金強奪事件としては当時の最高金額であった[2]。その後の現金強奪事件では金額こそ三億円事件よりも強奪金額が多い事件があるが[3]、1968年当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約20~30億円にあたり、貨幣価値においては現金強奪事件としては最高クラスである。捜査には7年間で9億円が投じられた。
    三億円強奪事件ともいわれているが、事件のあった日本において、本件犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。
    1975年12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)。1988年12月10日、民事時効成立(時効期間20年)。日本犯罪史に名前を残す未解決事件となった。

    多摩農協脅迫事件


    三億円事件が起こる前、1968年4月25日から1968年8月22日まで多摩農協へ現金要求や放火予告や爆弾予告をする脅迫が脅迫状・脅迫電話・壁新聞投げ込みで計9回発生した。
    この事件は脅迫日が東芝の給料日だったこと、脅迫状の筆跡が12月6日に送られた日本信託銀行への脅迫状の筆跡と同一とされたことから多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件と三億円強奪事件の三事件が同一犯によるものとされた。
    6月25日に多摩農協を脅迫する文章の中では「よこすかせんはひきょうもん」という文言が入った脅迫状を送っている。「よこすかせん」とは脅迫状を送る9日前の6月16日に横須賀線大船駅で発生した横須賀線電車爆破事件について触れたと言われている(脅迫状作成当時は横須賀線電車爆破事件の犯人は不明だったが、三億円事件発生1ヶ月前の11月9日に犯人が逮捕され、三億円事件の公訴時効直前の1975年12月5日に死刑執行された)。

    遺留品


    犯人が残した遺留品が120点もあったため、犯人検挙について当初は楽観ムードであった。ところが、遺留品は盗難品や一般に大量に出回っているものであったため犯人を特定する証拠とはならず、大量生産時代の弊害に突き当たってしまった。犯人の主な遺留品は以下の通り。

    ■第一現場
    府中市栄町、府中刑務所裏。三億円強奪事件が起きた路上。遺留品には偽白バイが残った。

    ・ヤマハスポーツ350R1
    偽白バイ。盗難日は1968年11月19日から20日。白バイの機種はホンダなので、ヤマハの白バイは存在しない。元の色は青。試運転で本番までに428キロ走られている。ハンドルやサドルには間違って塗装した部分をベンジンで拭いたと思われる痕跡が残されていた。
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    ・ハンチング帽
    第1現場で偽白バイが事件現場まで引きずっていったボディカバーの中から発見されたことから、犯人のものと考えられている。汗を検出すれば、少なくとも実行犯の血液型を特定できたが、楽観ムードによるものからか、鑑定に出す前に刑事同士で交互に被ることで鑑定不能にするミスを犯していた。ハンチング帽は54個が出庫され、36個は所在が判明。残り18個は立川市の帽子小売店が市内の安値市で販売していたが、誰に売ったかまでは特定できなかった。

    ・メガホン
    偽白バイの広報用スピーカーに見せかけるために偽白バイにに取付けられていたメガホン。製造番号から5台が出回っていることが分かり、4台まで所在を確かめた。残る1台は東村山市の工事現場で盗難に遭っており、この最後の1台が犯行に使用された物と思われる。

    ・クッキー缶
    偽白バイの書類箱に見せかけるためのクッキー缶。書類箱はカーショップでも発売されているのに、かなり異なるクッキー缶を使用した上にガムテープで取り付けるという改造方法だったことから、お粗末な白バイ改造とされた。そのため、犯人は白バイにかなり詳しい人物ではなく、素人でも改造できるレベルであることの根拠の一つとされた。クッキー缶のメーカーは明治商事だったが、3万個が流通していたために購入者を追及することを断念した。またクッキー缶を利用したことから、犯人の甘党説が浮上した。

    ・発煙筒
    脅迫をする際にダイナマイトに見せかけた発煙筒。発煙筒は日本カーリットが製造した「ハイフレイヤー5」で、ガソリンスタンド等を中心に4190本売られていた。

    ・磁石
    発煙筒を現金輸送車にくっつけるためのマグネットキャッチと呼ばれる磁石を2枚に分解したもの。発煙筒には銅線で巻きつけられていたが、鉄線と比較して磁力が弱かったため、本番では磁力が働かずに発煙筒は現金輸送車にくっつかずに地上に落下してしまった。大平製作所が製造し、4万3240個が流通していた。

    ・新聞紙
    メガホンは、白ペンキで2度塗装されていた。捜査に行き詰まっていたある日、上の塗装がはがれた部分に4mmほどの新聞紙の紙片が付着しているのを発見。地道に新聞紙を調べたところ、1968年12月6日の産経新聞朝刊婦人欄の「食品情報」という見出しの「品」の字の右下部分の一部であることが判明した。紙片の分析の結果、紙は愛媛県伊予三島市の大王製紙の工場で作られた物と判明。なお一部情報で「インクの具合、印刷状況から輪転機を特定し、その新聞が配達されたのが三多摩地区であることまで絞り込めた」という報道がなされたが間違いである。
    配部数は13,485部、販売所数は12ヶ所。住民の転出入が激しかったことや、新聞を購読する家が頻繁に変わっていたことから捜査は難航し、2年掛かりでやっと販売所を特定できたが、時すでに遅く配達先の住所録は処分された後であり、この方面での捜査は徒労に終わった。

    ■第二現場
    国分寺市西元町、武蔵国分寺跡のクヌギ林。現金輸送車のセドリックが乗り捨てられていた場所。遺留品にはセドリックが残った。事件直前に第二現場で濃紺のカローラが目撃されていたことから、犯人はここで、濃紺のカローラに乗り換えたと思われた。逃走車の乗換えを想定していなかったことが、初動捜査で犯人を捕まえられなかった遠因となった。
    ■第三現場
    府中市栄町、明星学苑高校近くの空地。犯行前に偽白バイをカバーに覆って停めていた場所。

    ・レインコート
    濃紺のレインコート。蛙脱ぎ(脱いだまま裏返った状態)で残されていた。
    事件翌日に公開されたが、一般層からの反応がほとんどなかった。レインコートを製造した会社は1958年時点で倒産しており、レインコートは10年以上前に製造されたものであった。
    この遺留品は様々な情報が錯綜し、すぐに粗末に扱われた。重要な遺留品を認定されたのは事件から3年後のことで、レインコートにはソデ裏にアイロンがかけられた跡があり、また内エリに「クリーニング」のタグの跡を示す白い糸があった。しかし、捜査が遅れたためにこれ以上の発見はなかった。

    ・第1カローラ
    緑色のカローラ(多摩5め3863)。盗難日は11月30日から12月1日。半ドアでワイパーは動いたまま、窓は開けっ放しであった。
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    ■第四現場
    小金井市本町、団地駐車場。第二現場で乗り換えたカローラが、乗り捨てられていた場所。事件から4ヶ月後に判明。遺留品にはカローラと空のジュラルミンケースが残った。現金抜き取り場所がこの現場である可能性が高いが、団地駐車場という人目につきやすい場所であるため現金抜き取り場所は別の現場であるという異説もある。他にも似たような盗難車があった。

    ・第2カローラ
    現金を奪った犯人が、現金輸送車から乗り換えた濃紺のカローラ。ナンバー(多摩5ろ3519)から「多摩五郎」のコードネームがつけられた。事件直前に第二現場で目撃されており、事件直後にこの情報を知った警察はこの車の行方を追っていた。車は盗難されたシートカバーで覆われていたため発覚しにくかった。事件から4ヵ月後、小金井市の団地駐車場で発見された。残された車の中には、空のジュラルミンケースが入っていたことから、犯行に使われたことが特定された。なお、「第2カローラ」は自衛隊の航空写真より事件翌日から団地駐車場に存在したことが判明している。

    ・ケースの泥
    ジュラルミンケースに付着していた泥を精密検査した結果、警視庁科学検査所の鑑定では現場から4km離れた国分寺市恋ヶ窪の雑木林の土壌と、農林省林業試験場の鑑定では第二現場の土壌が近似していると分析した。この為恋ケ窪付近にアジトがあると見て、徹底的に捜索したが成果は出なかった。

    ・ホンダドリーム
    1968年11月9日に盗まれたバイク。白バイの車種であるため、犯人は当初このバイクを偽白バイに改造しようとしたと思われる。盗難後の走行距離が60キロと短いが、このバイクは持ち主によると盗難前からノッキングしやすい不具合があった。犯人は試運転でその不具合に気づいたため、白バイを別のバイクで改造したと推理された。

    ・3台の盗難車
    第2カローラ以外にも盗まれて小金井市の団地に放置された盗難車が3台(プリンススカイライン2000GT・ブルーバード・プリンススカイライン1500)存在した。車は盗難されたシートカバーで覆われていたため発覚しにくかった。1971年(昭和46年)、工学者の額田巌は、警察の依頼で遺留品の鑑定を行い、2台のカバーシーツの紐結びを比較した。その結び方が異なるため、ブルーバードを盗んだのも三億円事件の犯人だとすれば、この事件は複数犯であると結論している。

    ・ギャンブル関連品
    盗難車プリンススカイライン2000GTの中に競馬専門誌2部とスポーツ紙、府中の東京競馬場近くの喫茶店のマッチ、平和島競艇のチラシ。車の持ち主の身に覚えの無い物から、盗難犯の所持していたものとされた。そのため、犯人としてギャンブル愛好家説が浮上した。

    ・女性物のイヤリング
    プリンススカイライン1500の中から女性物のイヤリング。車の持ち主の身に覚えの無い物から、盗難犯の所持していたものとされた。犯人グループに女性の存在が浮上した。

    ・脅迫状
    銀行に送りつけられていた脅迫状の切手に唾液があり、唾液からB型の血液型が検出されている。また、脅迫状は雑誌の切り貼りで文字を作っていたが、その雑誌が発炎筒の巻紙に使われた雑誌と完全一致したことから、脅迫状を送った犯人と現金強奪犯が同じであることが明らかになった。
    多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件の両事件で送られてきた脅迫状の文面の特徴として以下の特徴があった。
    「ウンテンシャ」「イマ一度の機会」など特定の業種が使う言葉を使用。
    語句と語句の間を分ける「分かち書き」の使用。
    強調点に「●―●―●」という記号の使用。
    「オレタチ」「我々」などの複数犯を思わせる記述。
    「コン柱オキバ」など電話関係者の業界用語の使用。
    多摩農協職員の車のナンバーを特定している記述。

    ・2つの雑誌
    脅迫状と発煙筒には「電波科学」と「近代映画」という2つの雑誌が使われていた。捜査機関は2つの雑誌の読者の性向を絞って犯人を捜査。しかし、「電波科学」はテレビ配線図などを機械改造を望むマニアックな理系読者、「近代映画」は芸能情報を望むミーハーな文系読者、2つの雑誌の読者の性向は両極端であり、これらの雑誌を置いている書店に聞き込みをしても、2つの雑誌を併読している読者は皆無であった。その後の捜査で「電波科学」の読者にとって一番重要だった「配線図」のページが犯行に使用されていたことから、本来の読者であれば違うページを使用したと推理し、捜査撹乱のために全く不作為に2冊の雑誌を購入して犯行に使用しただけと結論を出して捜査を打ち切った。

    犯人の逃走経路
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    実行犯に関する目撃証言


    事件の少し前に偽白バイに関する目撃証言が集まっている。11月下旬朝8時頃に府中市の市道を運転された青いバイク、12月1日深夜に京王線高幡不動の駅近くで一方通行の逆向きに停車された青いバイクが目撃され、二つとも4桁のナンバーが盗難白バイと同じであった。また12月9日午後8時40分には府中市の交差点で不自然なスピードで走行をする本物よりシートが高い白バイとのすれ違いに関する目撃証言がある。
    現金強奪前の第三現場ではシートを被せられた白バイの目撃証言が寄せられた。現金強奪10分前の9時20分には何かを狙うように待機する白バイの姿が自宅にいた主婦に目撃されている。また現金強奪30分間前の9時頃に日本信託銀行国分寺支店から50メートル離れた空き地で銀行の出入りを伺う不審なレインコートの男を目撃した人物が4人いる。4人の目撃者によるといずれも身長165センチから170センチで30代くらいの男である。
    直接の現金強奪の犯行現場となった第一現場では4人の銀行員の他に府中刑務所の職員、近くにいた航空自衛隊員。しかし、これらの目撃者の証言は曖昧だったり勘違いだったりすることもあった。
    また、第二現場付近では泥水を車に跳ねられた通行人の主婦がすぐに車のナンバーを控えたところ、盗難された現金輸送車のセドリックだったことが判明している。
    国分寺市の造園業者の親子が運転中に乱暴な濃紺カローラとすんでのところで接触事故になりかけ、猛スピードで国分寺街道方面に消えていった。造園業親子は若い無帽で長髪の男で助手席は無人で黒っぽい服を着ていたのを目撃。ジュラルミンケースは見ておらず、車のナンバーを見ていないが、挙動不審な運転や濃紺という目撃証言から、犯人が乗ったカローラ「多摩五郎」であることが確実視されている。
    杉並区内の検問所で“銀色のトランクを積んだ灰色ライトバン”を捕捉したが突破された。これが最後に目撃された犯人の姿といわれる。

    捜査


    ・モンタージュ写真による捜査
    12月21日にモンタージュ写真が公表された。しかし、事件直後に容疑者として浮上した人物(後述の立川グループの少年S)の顔を見た銀行員4人が犯人に似ていることを根拠として、事件発生1年前に事故死した人物(写真撮影時は19歳)の写真を遺族に無断で用いたものであり、通常のモンタージュ写真のように顔のパーツを部分的につなげた物ではなかった。本来“このような顔”であるべきモンタージュ写真を“犯人の本当の顔”と思い込んだ人が多く、そのために犯人を取り逃がしたのではないかという説もある。
    結局、捜査本部は1971年に「犯人はモンタージュ写真に似ていなくてよい」と方針を転換、モンタージュ写真も1974年に正式に破棄されている。しかしその後も各種書籍物でこのモンタージュ写真が使用されており、犯人像に対する誤解を生む要因となっている。
    容疑者リストに載ったのは実に11万人、捜査した警官延べ17万人という空前の捜査だったが結局、犯人を検挙できずに事件は時効を迎えた。

    有名なモンタージュ写真
    52_montaju


    ・ローラー作戦
    事件現場となった三多摩地区には当時学生が多く住んでいたことから、一帯にアパートローラー(全室への無差別聞き込み)を掛けた。 警察において被疑者とされた者の数は十数万人に及んだ。事件現場前にある都立府中高校に在籍した高田純次や布施明の名前もあった。もっとも、二人とも事件とは無関係であることが後に判明した。

    ・その他の捜査
    通常の事件と同様に遺留品などから検出された指紋の照合も行われていた。しかし、上記の通り遺留品はどれも大量生産されていたものだった影響から照合する指紋の量が多すぎたことや、それを照合する捜査員がわずか3人と少数だったため大した効果は得られなかった。
    また、指紋捜査員には残された白バイに付着している指紋が犯人のものでないかという考えがあった。白バイに扮装させるためバイクには白いペンキが塗られており、ここについている指紋が犯人のものである可能性が高かった。なぜならばここに指紋が付くということはバイクを改造してから触ったことを示しており、その可能性があるのは犯人以外に製作者、犯人グループもしくは極親しい人、事件の被害者くらいだからだ。白バイに改造されたバイクを盗むことは考えづらく事件に使用するために作った可能性が非常に高い。そのバイクを事件まで仲間以外に接触させることも考えづらい。その結果、事件後に触った人以外の指紋は犯人もしくは犯人と親しい人物であると考えられる。
    これらのことから指紋調査員は白バイに付着した指紋だけに絞って調査を進めてはどうかと提案した。それは、上記の通り指紋捜査は非常に難航しており、膨大な量の指紋を前にして苦労を重ねていたからである。しかし刑事側、特に平塚八兵衛から「その指紋が犯人のものであると断定できるのか?」と強く責められ、調査員も自信を持って主張することができず、結局は膨大な指紋を照合することとなった。
    現在では重要視される指紋照合も当時はあまり期待されていなかった。加えて当時は刑事と捜査員との力関係に大変な差があり白バイの指紋に注力することはできず、これまでの犯人や怪しい人物の指紋と照合するという刑事の推理主導で作業が進められていった。時代背景を考えれば仕方のないことだが数々の経験を積み重ねた結果、逆に後年起こる有楽町三億円事件では指紋が犯人逮捕の決め手となった。
    警察は事件当時に盗まれた3億円のうち番号がわかっていた500円札2000枚分(100万円分)のナンバーを公表した。この番号の札は1枚も出回ることはなかったが、犯人が強奪した現金を使えなくすることによって犯人の利益を一部無くすことができたとする一方、犯人が紙幣使用を控えたとされて犯人の検挙を一層困難にした。

    本事件による被害とその影響


    盗まれた3億円は、日本の保険会社が支払った保険金により補填された。その保険会社もまた再保険(日本以外の保険会社による)によって損害の補填をうけていたために、日本企業の損失はなかった。そのため、事件の翌日には社員にボーナスが支給された。このように史上例を見ない金額の事件だったにもかかわらず、実質的に国内で損をした者は1人もいないとされている(ただし、マスコミの報道によって大きな被害を受けた人物(後述の運転手K)は存在する)。このことと、犯人が暴力に訴えず計略だけで強奪に成功していること及び被害金額2億9430万7500円の語呂から、“憎しみのない強盗”のあだ名もある。
    この事件以来、多額の現金輸送の危険性が考慮されるようになり、給料等の支給について(銀行など)口座振込としたり、専門の訓練を積んだ警備員による現金輸送が増加する要因となった。

    ただ、捜査については下記の通りである。
    捜査日数 2,556日
    捜査対象(取り調べ) 117,951人
    捜査延人員 171,805人
    捜査中過労の為殉職警官 2名
    容疑をかけられ、自殺した青年
    捜査費用 9億9千万円
    情報提供 28,042件

    犯人像の推測


    この事件の犯人については、目撃者や脅迫状の文面や遺留品から様々な犯人像が浮上した。単独犯なのか複数犯なのかも不明。

    ・立川グループの少年
    立川グループとは、当時立川市で車両窃盗を繰り返した、非行少年グループである(立川市は府中市に近い)。

    少年S
    立川グループのリーダー格。事件当時は19歳。
    容疑理由(状況証拠)は以下の通り。
    「車の三角窓を割り、ドアの鍵を開けてエンジンとスターターを直結する」という車の窃盗手口が同じ。
    地元出身で土地勘があり、車やバイクの運転技術が巧み。
    1968年3月に立川市のスーパーで「発炎筒をダイナマイトと見せかけた強盗事件」を起こした仲間と親しい。
    父親は白バイ隊員で、白バイに関する知識が豊富。
    親族以外のアリバイが不明確。
    事件前に東芝や日立の現金輸送車を襲う話をしていた。
    だが、以下のような反証が上げられており、単独犯の場合は犯人ではないことを示した。
    血液型はA型で、脅迫状の切手のB型と異なっていた。
    脅迫状の筆跡が異なっていた。
    多摩農協脅迫事件のある脅迫状の投函日であった8月25日には、少年鑑別所にいた。
    Sは事件5日後の1968年12月15日に自宅で父親が購入していた青酸カリで自殺。Sの自殺については、自殺するような人間ではないとの少年Sの仲間の証言や青酸カリが包まれた新聞紙には父親の指紋しかついていなかったことから疑問視する意見がある。
    翌日、捜査本部は実行犯を間近で目撃した4人の銀行員たちをS宅に招き、Sの顔を面通しをさせた。4人全員がSが実行犯に「似ている」または「よく似ている」と答えたことを根拠の一つに、1968年の12月21日にSに酷似したモンタージュ写真が公開された。
    その後の捜査で、警察はSを「シロ」と断定した。

    少年Z
    立川グループのメンバー。事件当時は18歳。
    容疑理由は、事件後に乗用車を購入したり、会社経営をしたりと、金回りがよくなっていた事。そして、少年Sの1~3と同じ理由である。
    だが、血液型はAB型であり、脅迫状の切手のB型とは異なっている。また筆跡も異なっていた。
    警察は、公訴時効寸前の1975年に、元少年Zを最後の容疑者候補とする。1975年11月に別件の恐喝罪で逮捕するが、三億円事件の公訴時効前に釈放された。

    ・ゲイボーイ
    以下K。立川グループではないが、少年Sと交際があったゲイボーイ。事件当時は30歳前後。
    Sの親族を除き、Sの事件当日に関する証言をした唯一の人物。Kの証言はSは事件日2~3日前から事件前日に自宅の新宿のマンションで一緒に夜を過ごし、明るくなった朝8時頃に自宅を出るのを見送ったと証言した。ただし、朝8時というのは時計を見ていたわけでなく冬における外の明るさで判断としており、雨が降っていたが傘やレインコートを貸した記憶がなかったなど、曖昧な点があった。
    また、Kの証言では初めてSと会ったのは事件の20日前なのに夏(少なくとも4ヶ月程度前)に一緒に旅行に行った時に撮影された少年Sの写真を飾っていたことなど不可解な点があった。さらに事件1年後に、外国に移住して、ゲイバーを開店したり、再び日本に戻った時には日本では自宅マンションや2軒目のマンションを購入したり、事件7年後には実家に豪邸を建てたりなど、金回りがよくなっていた。
    もしKがSと共犯であれば、Sが鑑別所にいる間の脅迫書を出すこと、事件関連の30代の男に関する目撃証言や電話の声の証言、第4現場の盗難車に残されていた女性物のイヤリングにもつながる。
    警察は捜査を進めるも、Kを「シロ」と断定した。Kは急に金回りがよくなった点について「外国のパトロンがついた」と述べている。

    ・府中市の運転手
    以下F。府中市に住む運転手。事件当時は25歳。住まいや過去の運転手の仕事から各現場の地理に精通していること、血液型が脅迫状の切手と同じB型、タイプライターを使う能力を持っていること、友人に送った手紙が犯行声明文と文章心理が似ていること、モンタージュ写真の男と酷似していることなどから12,301人目の容疑者候補として浮上。しかし、脅迫状の筆跡が異なっており、金回りに変化がないことから、警察は慎重に捜査をすることとした。
    発生から1年後の1969年12月12日に、捜査員を取材していた毎日新聞の記者が筆跡が異なるなどの否定材料を入れた上で警察が容疑者としていると掲載し、モンタージュ写真にFの顔を合成するなどして犯人視する報道を展開。それを新聞配達前に知った警察は逃亡の恐れがあるとして、身柄拘束を視野に入れた上で運転手Fに任意同行を求め、十数時間の取調べの後に別件逮捕した[8]。新聞各社も「容疑者聴取へ」などと実名入りで書き立てたが、事件当日に就職試験を受けていたアリバイが証明され翌日釈放された。報道による人権侵害の最たる例であり、この月の縮刷版・当日のマイクロフィルム紙面は現在各社共封印している。
    なお、Fは逮捕や一連の報道によって職を失い、その後も真犯人の見つからない「三億円事件の容疑者」としての偏見と事件に関するコメントを求めるマスコミ関係者に悩まされ職を転々とし、2008年9月に自殺した。

    ・日野市三兄弟
    日野市の電気工事会社を経営する三兄弟。事件当時は上から31歳・29歳・26歳。大きなガレージ風の物置がありバイクの偽装のための塗装がしやすいこと、次男がバイクマニアの不良グループに属していたこと、看板店の営業経験があり塗装技術があること、事件前に発炎筒がつけられた車を購入していたこと、兄弟の一人が事件前にハンチングを被っていたことが怪しいとされた。しかし、車の発炎筒やハンチングが事件のものと異なること、事件の4日後にお金を借りていたことなどが判明。その後、警察は日野市三兄弟を捜査するが、事件と結びつかなかった。

    ・不動産会社社員
    不動産会社社員。事件当時は32歳男性。事件前に金に困っていたが事件後に金回りがよくなったこと、東芝府中に勤務経験があること、姉が東芝府中に12年勤務していること、自動車の運転が巧みなこと、モンタージュ写真の男と酷似していることが怪しいとされた。しかし、事件当日に杉並区から横浜に車で行く途中で非常検問にひっかかったことからアリバイが出てきたこと、金回りの変化については不動産売買で1600万円を入手したことが明らかになったことから容疑者候補から外れていった。

    ・会社役員
    以下P。三億円事件から13年前の1955年に銀行員1人を仲間にしたり仲間の1人が私服刑事を装うなどして、千代田区にある銀行の現金輸送車を襲う計画を仲間3人と実行。この事件ではすぐに逮捕されたものの計画性や発想が三億円事件と類似するものであった。Pは出所後に刑務所の中で知り合った友人に「今度は1年がかりで大きなことをやる」と豪語、三億円事件発生後に土地や住宅や外車を購入して金回りがよくなったため、容疑者として浮上。しかし、金回りに関しては、不動産会社から合法的な資金提供を受けたことが判明した。ハワイへ移住マンション暮らしをしていたことが後にわかる。そののちハワイで病死する。

    自称三億円事件犯人


    時効成立後、三億円事件犯人を自称する人物が何人か登場している。
    なお、当時の担当刑事によると事件の際に発炎筒が通常通り点火しなかったが、犯人は通常とは異なる手法で発炎筒を点火させていることが遺留品から判明している。またジュラルミンケースには現金・ボーナス袋のほかにある「モノ」が入っていたという。発炎筒の特殊な点火手法やジュラルミンケースにある「モノ」は一般発表されておらず、関係者と犯人しか知らない。
    しかし、自称三億円事件犯人は発炎筒点火の詳細やトランクケースの「モノ」を正確に答えられないことから偽者と見破られている。自称三億円事件犯人の目的として「本を売って稼ぎたい」「世間から注目されたい」「詐欺のためのハクづけ」の3種類に分類される。
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