あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1950年
    【#47】財田川事件
    財田川事件(さいたがわじけん)は、1950年(昭和25年)2月28日に起きた強盗殺人(刺殺)事件とそれに伴った冤罪事件である。なお、地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で「財田川よ、心あれば真実を教えて欲しい」と表現したことである。

    冤罪被害者 谷口繁義さん
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    概要


    1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現三豊市)で、闇米ブローカーの杉山重雄さん(当時63歳)が全身30箇所を刃物でめった刺しにされて殺害され、現金1万3000円を奪われた。
    同年4月1日、隣町の三豊郡神田村(こうだむら)で2人組による強盗事件が発生した。その事件の犯人として谷口繁義(当時19歳)ともう1人が逮捕された。この2人は『財田の鬼』と近隣で嫌がられていた不良組だった。警察はこの2人を殺人の容疑で取り調べた。
    もう1人はアリバイが証明され釈放となったが、谷口はアリバイ成立に疑惑が残ったため、約2ヶ月に渡って厳しい拷問による取調べの結果、自白の強要により、8月23日、起訴された。


    裁判


    1950年11月6日
    高松地方裁判所丸亀支部で第一回の公判が行われた。裁判で谷口はアリバイと拷問による自白だと強く主張し、冤罪であると訴えた。これに対し検察側は、取調べ中にまったく出ていなかった、谷口が犯行時に着用したとする国防色ズボンに微量ではあるが杉山さんと同じO型の血痕が付着しているという物的証拠があり有罪であると主張した。
    この血痕鑑定は、当時日本の法医学の権威であると賞賛されていた古畑種基東京大学教授による鑑定であったが、後に実際の検査は古畑教授の門下生の大学院生が行っていたことが判明した。後にこの物的証拠は弁護側からAの衣類押収の際に捏造されたものと主張したが、後述のように多くの証拠品が破棄されているため、真実は不明だが捏造が事実であったとの疑いがある。

    1952年2月20日
    この物的証拠と捜査段階での自白が信用できるとして、高松地方裁判所丸亀支部は死刑判決。谷口は控訴。

    1956年6月8日
    高松高等裁判所で控訴を棄却。

    1957年1月22日
    最高裁判所も上告を棄却し、谷口の死刑判決が確定。

    後に問題とされたのは、素行不良との風評から地元において犯人との噂話があったことを根拠に、農協強盗事件で起訴された谷口を起訴後に勾留したうえ、さらに別件逮捕するなど長期勾留を継続したことと、そして代用監獄による警察施設での食事を含む24時間の過酷な管理下におき、精神的肉体的限界のもとで自白を迫ったことなど捜査機関の行き過ぎた取調べである。また検察側もこのような不適切な違法捜査を是認したばかりか、上塗りすら行ったという。また裁判所も当時の法医学の権威であった古畑教授の鑑定を安易に信用した過失があった。なお古畑教授の鑑定で有罪となり後に真犯人が判明し冤罪が確定した弘前大学教授夫人殺人事件も再審で『シャツの血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造である』と判断していたことから、現在の血痕鑑定では血痕そのものだけでなく、どのようにして血痕が付着したかについても鑑定が行われるようになっている。

    再審請求


    死刑が確定した後、谷口は大阪拘置所に移送された。これは四国の行刑施設に死刑設備(絞首台)がなかったための措置である。
    1969年、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して恩赦検討開始。大阪拘置所では、谷口のほかに放火殺人で死刑確定となったYHの合計2人が検討されたが、結局、恩赦を受けたのはYHのみだった。
    その後法務省刑事局は、谷口の死刑執行に向けて法務大臣に提出する死刑執行起案書を作成するために必要となる、裁判に提出しなかった記録を送付するように高松地方検察庁丸亀支部に対して命令した。しかし、高松地検は記録を紛失(破棄した疑惑もある)したため、法務大臣への稟議書が出せず死刑執行手続きが法的に不可能になった。そのため、Aの処刑は無期限延期の状態となった。

    一方、谷口は1964年(昭和39年)に「3年前の新聞記事によれば古い血液で男女を識別する技術が開発されたとあるが、自分は無実であるからズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と記した手紙を高松地裁に差し出した。その手紙は最高裁判決から12年後の1969年(昭和44年)、高松地裁丸亀支部長であった矢野伊吉裁判長によって5年ぶりに発見された。
    矢野は疑わしく思える部分から再審の手続きを済ませ、再審に乗り出したが、開始直前に反対運動が起こり、「手紙ごときで再審はおかしい、引っ込め」などの暴言をうけた。矢野は裁判長を辞め、弁護士として再出発し、谷口の弁護人となって新たに再審請求した。

    不可解な点


    矢野によれば事件には以下のような不可解な点があったという。事件の捜査を行ったのは元特別高等警察出身の警察官達であったが、同じメンバーが担当した「榎井村事件」も1994年に再審無罪になっている。
    長期勾留と拷問による自白強要(このような自白強要は現在の刑事訴訟法では排除法則によって真実であっても証拠にならない)

    ・自白調書が捜査機関によって不正作成されている
    ・犯行を告白した手記が偽造されている(谷口は尋常小学校卒で漢字が殆ど書けず作文能力が稚拙だったのに、ある程度まとまった文章でかかれている。そのうえ作為的な文法ミスがある)
    ・物的証拠を捏造している
    ・高松地検丸亀支部による公判不提出捜査記録の破棄(そのため死刑手続自体が不可能になった)
    ・弟と一緒に就寝していたというアリバイが成立する(親族による証言のため採用されなかった)

    無罪


    1976年10月12日
    最高裁は谷口の自白に矛盾があるとする「3つの疑問と5つの留意点」を指摘して高松地裁に差し戻し。

    1979年6月7日
    高松地裁は再審開始を決定。

    1981年3月14日
    検察側の即時抗告を棄却したため再審開始。
    再審の公判では谷口は改めて拷問による自白を訴え、矢野は谷口の自白と現場検証の矛盾を突いた。また、地裁で出廷していた東大の教授が科学の進歩によりこれまで解明できなかった血痕に関して、谷口の衣類に別の血痕が混じっており、警察・検察がばら撒いたことを示唆した。また捜査機関による自白調書の信用性に対する疑問も主張した。

    1984年3月12日
    高松地裁は、被告人の自白には真実ではないとの疑いがある上、唯一の物的証拠であるズボンも事件当日に着用していた証拠はないとして、本事件と被告人とを結び付けえる証拠は存在しないとして、無罪を言い渡された。

    しかし矢野は谷口の無罪判決を聞くことなく1983年(昭和58年)3月に他界(享年71)していた。なおAは獄中生活34年目にして無罪放免された。その後、谷口は2005年(平成17年)7月26日に病死(享年74)した。
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    DATE: 2010/05/27(木)   CATEGORY: 1950年
    【#20】梅田事件
    梅田事件(うめだじけん)は、1950年(昭和25年)および1951年(昭和26年)に発生した2件の強盗殺人事件と、それに付随して生じた冤罪事件である。なお事件名は2人の実行犯(実際にはもうひとり未検挙の共犯がいる可能性が指摘されている)によって無実の罪を着せられた男性の名に由来する。


    概要


    第一の事件
    1950年10月 北海道の北見営林署職員の大山正雄さん(当時20歳)が19万円の公金を持って失踪。
    第二の事件
    1951年6月 留辺蘂営林局会計課職員の小林三郎さん(当時28歳)が480万円の公金を持って失踪。
    いずれの事件も最初は、犯人らによる巧妙な偽造工作のため、職員が公金を横領し逃亡したと見られていた。しかし第二の被害者の射殺遺体を1952年9月になって偶然野犬が掘り出したことで事件が露見した。

    冤罪


    犯人として逮捕された清水(当時53歳)はすぐに犯行を自供し、首謀者が元営林署職員の羽賀竹男(当時28歳)であることも判明した。羽賀は第一の事件のことも自白したために全て事件は解決したかにみえた。しかし羽賀は自己の罪を軽くしようとしたためか、軍隊時代に顔見知りだった梅田義光(当時28歳)が第一の事件の殺害の実行犯であると虚偽の「自白」をした。
    そのため、北見市警(当時は自治体警察)は10月2日に梅田を逮捕し、凄まじい拷問を加え自白させた。その後梅田は自供を一転し検察官に無実を訴えたが、共犯者の自白を完全に鵜呑みしていた検事は否認調書を作成しないまま、殺人罪で起訴した。またその後の裁判も羽賀が梅田を陥れる恨みなどの事情が見当たらないなどとして、羽賀の自白を全面的に信用する姿勢を終始とり続けた。
    その後の裁判では羽賀に死刑、清水と冤罪の梅田に「拷問がなされないまでも相当程度の強制」として暴力による自白の強要の事実を認めつつも無期懲役を宣告し確定(当時の判例では違法収集証拠排除法則が確立していなかったとみられる)した。なお羽賀であるが1960年6月20日に処刑され、清水も仮出所した。その後梅田は1962年に再審請求をしたが、最高裁までいったが棄却された。梅田は1971年5月に18年7ヶ月の服役の後に網走刑務所を仮出所した。彼は北見市に帰郷したのちも再審請求活動を続けた。1982年12月10日に釧路地裁は再審を決定した。1986年8月27日に釧路地裁は梅田に無罪判決を出し、逮捕34年にして冤罪であったことが確定した。

    事件の疑問点


    再審裁判で梅田が無罪になったのは、下記のような点が明らかになったことである。
    犯行において羽賀と梅田を結びつける物的証拠が一切存在しない。
    羽賀の自供では梅田はバットで被害者を撲殺したとあるが、犯行時梅田が着用していたとされた海軍作業着からは血痕が検出されなかった。
    起訴前に検事宛に提出した無罪を訴える手紙の存在。
    自白と犯行態様の決定的な矛盾の証明。
    羽賀から「梅田は事件に関与していない」と、獄中で聞かされたという囚人の証言
    以上のことから、捜査機関がHの虚偽の証言を間違いないと鵜呑みした事が冤罪を引き起こした、ということが確定した。これは、死刑が確実な被告人が、まさか恨みもない他人を巻き込む事を想定していなかった為である。なお、後述のように実際の事件の構図は検察側が把握していたものとは大きく異なっていた可能性もある。
    羽賀の証言では第一の事件にくわえ第二の事件も3人による犯行としていた。この第二の事件では3人目の「共犯者」としてHの元上司が「主犯」として名指しされ、北見市警による拷問を受けたが、証拠がまったくなかったこともあり起訴されていない。この上司は拷問で「自白」していたが、検事取調べの段階で自白を撤回し、検事も無罪供述を受け入れたため冤罪で処刑もしくは収監される危険から逃れたといえる。なお実際に2つの事件とも第三の犯人が存在していた可能性がある。この説では犯人は羽賀の親族であるといわれており、評論家の青地晨が、後にその人物をレポートした「魔の時間」を出した。そのため、羽賀は梅田を巻き込むことでその人物を守ろうとした可能性がある。
    また羽賀は秘密裏に、再審を模索していた羽賀と接見した梅田の弁護士に対し「50万円を支払うなら、梅田の御希望通りの私の言質を差し上げます」と、暗に「真実の告白」に対する対価を要求する手紙を出していたという。それによれば、現金と見返りに告白文を送るというものであった。弁護士はわざと応じた振りをして真実を聞き出せないかとして、最高検察庁に打診したが、とんでもないとの回答を受けた。その直後に羽賀の死刑が執行された。
    真相は羽賀の死刑執行と、共犯清水の死によって永久に葬り去られた。職員2人から強奪した多額の現金の使途も、3人目の「共犯者」の存在も、現在となってはもはや解明は不可能となっている。
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