あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1954年
    【#100】仁保事件
    仁保事件(にほじけん)とは、1954年10月26日に山口県吉敷郡大内村仁保(現在・山口市仁保下郷)で起きた一家6名が殺害された殺人事件と、それによって生じた冤罪のこと。

    概要


    事件発生 [編集]
    事件は、1954年10月26日の午前0時頃に発生した。
    事件現場は、国鉄(現JR)山口線仁保駅の北東に2キロほど行った山あいの中腹に位置する農家の一つで、一家の主で農業を営む男性(当時49歳)と、その妻(42歳)、母親(77歳)、三男(15歳)、四男(13歳)、五男(11歳)の6名が襖で隔てられた3つの部屋で蒲団に入って就寝していたところを犯人に襲撃された。
    この一家は地元では裕福な農家の一人で近隣に8反もの農地と山林を所有しており、女性関係も派手だったという。
    6名は頭部や顔面を鈍器で殴打されたり、頸部と胸部を鋭利な刃物で刺されたりされ、蒲団の上で血染めになって死亡していた。後に、捜査当局は頭部を鍬で割り、頚動脈を切り心臓を刺すという執拗な殺害方法であると断定した。
    事件が発覚したのは、同日早朝の午前7時頃。いつもと違ってこの農家の雨戸が開いていない点を不審に思った隣家の主婦が不審に思い家の中を覗き見たところ6名の遺体を発見、警察へ通報した。
    難航する捜査から容疑者の逮捕まで [編集]
    当時、事件に関して県警は以下のような鑑識結果を得ており、毎日新聞が11月14日に報じている。
    事件は単独犯である。
    凶器で被害者の頭部を強く殴打していることから、犯人は返り血を浴びていない。
    母親が寝ていた部屋から発見された1.5メートルほどの縄は、外部から持ち込まれたモノである。
    事件は午前0時頃に起こった。
    足跡から察するにかなりの大男である。
    毒物を用いての犯行ではない。
    現場で発見された土は、犯人が付近の水田から持ち込んだものである。
    犯人は現場から物を盗んだ形跡はない。
    事件発覚当初、山口県警察は怨恨説と物盗り説の両方を想定して捜査を進めた。
    その上で、事件現場の近隣の前科者約160名を容疑者としてリストアップし、一人一人虱潰しに捜査を行なった。このリストには後に本事件の犯人として後に冤罪犯とされた男性も含まれていたが、当初は事件の発生した1年半前から郷里を出奔していたことからリストから外されていた。
    しかし、そうした捜査陣の努力とは裏腹に捜査は予想以上に難航した。
    県警は怨恨説から事件宅の隣家の主人を逮捕。しかし、証拠不十分のため23日の勾留期限で釈放した。
    業を煮やした県警はリストを徹底的に洗い直し、新たな容疑者として事件当時37歳の男性が浮上してきた。しかし、説得力のある証拠が出てきた訳ではなく、リストからの消去法で選ばれただけであった。
    県警は山口県を出奔する前に関与したとされる窃盗未遂事件で全国に指名手配した。この事件は男性の友人と二人で商店に侵入したものの結局は何も盗まなかったというものであった。窃盗未遂事件での全国指名手配は当時としても極めて異例である。
    これにより、男性は1955年10月19日に大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅にて住居侵入の容疑者として逮捕された。翌日、10月20日に大阪から山口警察署へと移送された。
    取調べから起訴まで [編集]
    大阪から山口県警へ移送された男性は1955年10月31日に仁保事件とは別の窃盗事件で起訴され(容疑は住居侵入及び窃盗未遂)、12月10日にはもう一つの別件であるマンホールの蓋の窃盗の罪状で起訴された。この時男性は贔屓にしていた弁護士による弁護を求めたが、警察が取り合わなかったことから本件での起訴まで弁護士がつくことがなかった。そのため、男性は孤立無援の状態で警察の取調べを受けることとなった。
    そして、11月2日に山口県警での仁保事件に関する取調べがスタートした。
    しかし、前述のように確固たる証拠のない状態での取調べであったことから、男性はアリバイを申し立てて犯行への関与を否定。調書によれば初めて否認したのは11月9日(ただし、調書がとられたのは翌日の11月10日)となっている。
    その後、11月22日の調書に犯行の自供が記録されているが、自供そのものは録音テープ(後述)によれば11月11日になされている。つまり、初めての自供から調書に記録が残るまで11日も経過しており、その間男性の供述は常に迷走していた。自供が最終的な形となったのは検察官による取調べが行なわれる1956年3月22日のことである。
    翌年、1956年2月1日に山口拘置所に移管。同年の3月23日に男性を連れての現場検証。1956年3月30日にようやく起訴の運びとなった。
    録音テープの存在
    この事件では日本の警察では珍しく取調べの様子が録音テープに記録が残っている。後述するようにこのテープはのちのち重要になるのでここで詳しく触れておく。
    これは、仁保事件の3年前に同じ山口県で起こった八海事件(後に冤罪事件となる)で被告の自供が法廷での争点となった点を踏まえたものであった。
    このテープは全部で33巻にも及ぶ。しかし、これは取り調べの全容を網羅したものではなく、あくまでその一部を記録したものに過ぎない。結果としてテープは法廷で検察側によって被告の自供を補強する役割しか果たさなかった。
    テープには警察での取調べの様子が克明に記録されているが、そこには警察による被告に対する執拗な取調べの様子が窺える。

    裁判の経過


    1956年 -
    3月30日 - 男性を山口地方裁判所に起訴。
    5月2日 - 山口地裁での第1回の公判。公判では取調べとはうってかわって犯行を全面的に否定。
    1962年 -
    6月15日 - 山口地裁で死刑判決が下る。地裁は警察の取調べでの拷問の事実は否定したものの被告の自供には無理があるとした。しかし、検察に対する自供の任意性は認めた。被告は広島高等裁判所に控訴。
    1968年 -
    2月14日 - 広島高裁は控訴を棄却し、第一審の死刑判決を支持。又、検察のみならず警察の取調べでの自供も任意性があると判断した。
    1970年 -
    7月31日 - 最高裁判所は第二審の判決を重大な事実誤認があるとして、判決を破棄し広島高裁へ差し戻し。自供の任意性への判断は保留したが、自供の変遷に対して少なからず信用できない点があるとした。なお、弁護側は最高裁では(1)事件現場には最低でも3人分の足跡があった(2)創傷を分析すると鍬、出刃包丁以外の凶器がある、という2点から男性の無罪を主張した。
    9月22日 - 被告の保釈が決定。
    1972年 -
    12月14日 - 広島高裁が殺人での無罪の判決を下す(別件のマンホール窃盗で懲役6ヶ月)。
    12月27日 - 検察が上告を断念。事件発生から18年、被告の逮捕から17年を経て、男性の殺人の無罪が確定。

    補足


    事件現場は現在では草木に覆われており、凄惨な事件の痕跡を残すものは何もないという。
    仁保事件に題を得た「自白」というドキュメンタリードラマを朝日放送が1972年11月11日に放送を予定していたが、中立を欠いており、肖像権の侵害に当たるとして、前日に放送が急遽中止になった。又、同じく朝日放送が12月24日に冤罪の嫌疑を受けた男性に密着取材をした「二四時間」を放送予定だったが、これも中止となった。
    この事件には刑事訴訟法の専門家で冤罪問題に詳しい、若き日の東京都立大学(当時)の研究室に所属していた小田中聰樹(現在は東北大学法学部の名誉教授)も救援運動に協力した。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1954年
    【#55】島田事件
    島田事件(しまだじけん)とは1954年3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人殺人死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが再審で無罪になった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つ。

    概要


    1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬莱橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。
    静岡県警の司法鑑定医師(後の静岡県警科学捜査研究所長)の鈴木完夫は司法解剖の結果、犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害したと鑑定した。
    被害者の女児を誘拐した犯人の目撃情報はいずれも、スーツを着てネクタイを締めて髪を7・3分けにした、会社員または公務員に見える若い男だった。警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴者、精神病歴者、知的障害者の捜査対象者として捜査したが被疑者を発見することも、被疑者を特定できる情報も発見できなかった。
    1954年5月24日、当時の岐阜県鵜沼町(現在の岐阜県各務原市)で静岡県警が捜査対象者としていた精神病歴者、知的障害者であり、所在不明で事情聴取されていなかった男性(当時25歳)が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束され、島田警察署に護送された。
    警察は男性を窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの供述を強要した結果、男性に被害者の女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞めて殺害したとの虚偽の供述をさせて供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

    男性の個人的状況


    男性は軽度の知能障害と精神病歴があり、二度の自殺未遂歴と二度の窃盗の前歴があり、一回目の窃盗の時は少年院に入院し、二回目の窃盗の時は刑務所で服役し1953年7月に出所した。男性は就職しても職場に溶け込めず、他者と適切な会話や意思疎通や人間関係を形成できず、仕事に適応できずに短期で離職する傾向があり、自宅に定住せずに放浪する傾向があった。

    裁判の経過・結果


    裁判では男性は捜査段階で「警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である」と主張した。裁判は下記のとおりの経過・結果になった。
    地裁公判中に裁判官は東京大学教授の古畑種基に被害者の殺害方法について再鑑定を依頼し、古畑は被害者が強姦され胸部を打撃され首を絞められて殺害されたと、男性の供述調書に適合する鑑定結果を報告した。弁護人は東京都立松沢病院医師の鈴木喬と林に男性の精神鑑定を依頼し、鈴木と林の両医師は男性は軽度の知能障害があるが、心身喪失でも心神耗弱でもなく刑事責任能力はあるとの鑑定結果を報告した。
    裁判所は軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある男性が、捜査段階で犯行を供述していることに対して、公判で無実や犯行当時のアリバイを供述することは信用性が無いと判断した。
    1958年5月23日、静岡地裁は男性に死刑判決をした。
    1960年2月17日、東京高裁は控訴を棄却した。
    1960年12月5日、最高裁は上告を棄却し、男性の死刑判決が確定した。
    1986年5月30日、静岡地裁は男性と弁護人の第4次再審請求を棄却したが、抗告審の東京高裁は再審開始を決定し、審理を静岡地裁に差し戻した。
    1989年7月31日、再審の静岡地裁は無罪判決をした。
    1989年8月10日、検察官は控訴を断念し、逮捕から34年8ヶ月後、死刑判決確定から29年8ヶ月後に男性の無罪が確定した。
    再審では弁護人は被害者の殺害方法について東京医科歯科大学教授の太田伸一郎と上田政雄の両人に再鑑定を依頼し、両教授は古畑教授の鑑定結果に問題があり、捜査段階の鈴木医師の鑑定結果を支持する鑑定結果を報告した。
    無実の人が誤認で逮捕・起訴され、死刑判決が確定後に再審で無罪判決を受けた事例は免田事件、財田川事件、松山事件に続いて4件目であった。
    確定翌日の読売新聞1989年8月11日号ではこの無罪判決の記事が男性の公園で座る姿の写真入りでトップ記事に記載され、見出しは「35年振り自由の身」と打たれた。

    その他


    この事件では、男性の犯罪の証拠とされたものは上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。
    男性に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっている。複数人の目撃証言が一致する、被害女児を誘拐して犯人と推測される男の人相・体格と、男性の人相・体格は著しく異なっているが警察は無視した。
    男性は結果として再審による無罪判決は得たが、34年8ヶ月間の身柄拘束され29年8ヶ月は死刑囚として暮らす生活を送った。
    無実の男性を犯人視して以降はそれ以外の捜査を行わなかったので、殺害事件の真犯人を探し出すことはできなかった。
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