あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1979年
    【#92】長岡京殺人事件
    長岡京殺人事件(ながおかきょうさつじんじけん)とは1979年5月23日に京都府長岡京市で発生した殺人事件。「京都長岡ワラビ採り殺人事件」とも呼ばれる。

    概要


    1979年5月23日、長岡京市内にあるスーパーでパートをしていた主婦二人が、仕事終了後、近くの山の竹林にワラビ採りに行ったまま消息不明となり、2日後の25日、山頂付近で遺体となって発見された。
    直接の死因は主婦A(当時43歳)が絞殺、主婦B(当時32歳)が刺殺。二人のリュックには、それぞれ空の弁当箱、採ったワラビ、財布が入ったままであった。検死の結果、死亡時刻はどちらも正午過ぎから二時半までと判明。
    どちらも金を奪われた形跡はなかったが、主婦Aの衣服のポケットから
    “ オワレている たすけて下さい この男の人わるい人 ”
    と鉛筆で走り書きをした、勤務先のスーパーのレシート(日付は事件当日より2日前)が発見される。だが、どちらの荷物にも衣服のポケットにも、この鉛筆がなかった。後日の捜索で、殺害現場から少し離れたところに芯の先端だけが見つかっているが、鉛筆そのものは見つからなかった。
    主婦Aは全身30箇所以上も殴打され、肋骨が折れて、肝臓が破裂しており、主婦Bは全身50箇所以上も殴打され、包丁が体に突き刺さったままだった。そして、双方の主婦のアキレス腱が切断されていた。
    警視庁の鑑定結果によると、犯人の血液型はO型と判明している。
    犯行現場は、殺された主婦たちのように、ピクニックがてら山菜採りに地元の人が訪れているようなところだったが、犯行発生前から木や竹が生い茂り、昼間でも薄暗いところが多く、レイプ事件も発生していた。
    遺留品は主婦Bの遺体に突き刺さっていた包丁一本のみで指紋は検出されず、販売ルートも解明されずじまいだった。
    有力な手がかりのないまま、1994年5月24日に公訴時効が成立した。

    容疑者


    長岡京市内に住む少年Aが、犯行時間内に駆け足で下山するところを目撃されていて、重要参考人となるも、実は犯行当日、一日中、別の場所にいたことが判明した。彼が空手を習っていて、よく山にサイクリングにきていることを周知している人物からの目撃情報だった。
    主婦らが山に入った10分後、25歳から30歳の男性二人組が目撃されるも、身元判明できず。
    主婦たちが殺害される1週間前に、入山していた主婦に声をかけた中年男性も似顔絵を製作したが身元判明できず。

    もう一つの事件


    事件から約5年後の1984年5月16日、同市で主婦Cが首や背中をメッタ刺しにされ、布団にくるまれ、家ごと燃やされるという残忍な事件が発生した。警察がこの事件と長岡京殺人事件の関連性を調べていたことが判明して、次のような噂が出現した。

    「主婦Cはかつて最初の事件当日、主婦AやBとワラビ採りに出かけたが、先に一人で下山したので殺害から免れた。マスコミと警察は報道協定を結んで、主婦Cの安全のため彼女の存在を公表しなかった。
    後日、主婦Cは何らかのトラブルでワラビ採り殺人の真犯人に殺された」

    ところが第二の殺人事件の警察記者会見では、最初の殺人事件と主婦Cとの関係はまったく言及されず、マスコミ関係の人物から報道協定についての証言は一切得られず都市伝説のレベルである。
    この事件も同様に未解決となっている。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1971年
    【#83】D.B.クーパー事件
    D.B.クーパー事件(D. B. Cooper)は、アメリカ合衆国で発生したハイジャック事件。ハイジャック事件では珍しい、身代金を要求した事件である。
    当局から身代金を受け取った後、 犯人は飛行中のボーイング727の後部にあるドアを開けさせ、現金200,000ドルを持ってパラシュートで脱出して検挙されず、また犯人の身元も不明な未解決の事件である。後に身代金の一部がコロンビア川で発見され、実際には彼は死亡していたのではないかといわれるが肝心の死体が発見されていないなど、謎が多い。
    なお「D.B.クーパー」はFBIの手配の際、手違いで広められた犯人の名前であるが、犯人による自称「ダン・クーパー」もまた偽名であるのは確実である。

    概要


    アメリカの感謝祭前日であった1971年11月24日に、経由地のオレゴン州ポートランドからノースウエスト航空11便(ワシントンD.C.発シアトル行き)には、乗員6名と乗客36名が搭乗していたが、その一人が「ダン・クーパー」の偽名で搭乗していた犯人であった。
    午後4時35分(現地時間)に離陸後、犯人は機内サービスの際に客室乗務員の女性に代金と一緒にメモを渡した。彼女は最初はてっきり彼が自宅の電話番号を書いてよこしたと思っていたが、彼は「爆弾を持っている」と告げたため確認すると、爆弾を所持していることと身代金200,000ドルとパラシュート4つを要求する脅迫状であった。また隣に座るように要求した。
    そのため客室乗務員が操縦席に連絡したが、パイロットは疑わしいと思い彼の隣に座り本当に爆弾を持っているかを尋ねると、彼は持っているブリーフケースを開け、そこには赤い管と導火線が見えた。そのためパイロットは管制官にハイジャックされたことを告げ、それに対し当局はハイジャック犯に従うように指示した。
    午後5時45分にシアトル・タコマ国際空港に緊急着陸後、身代金とパラシュートと引き換えに犯人は乗客全員と客室乗務員2名を解放した。その後午後7時45分にシアトルを離陸したが、犯人は機長に対しネバダ州リノに向かえと要求し、高度10000フィート(約3000m)に維持したうえでランディングギア(車輪)とフラップを下げて飛行するように指示していた。
    彼は午後8時11分ごろに、ボーイング727の後部にあったリアドア(昇降用階段)を空中で開き、パラシュートで現金と共に脱出した。その様子は追跡していた空軍のF-106戦闘機2機は視界がきかなかったため確認できなかったが、犯人はポートランドの北30マイル(約50km)にあるアリエルの郊外に降りたと思われていた。その後当局は18日間捜索したが彼の行き先に関する手かがりはつかめなかった。そのため犯人の正体は闇の彼方に消えていった。

    犯人のその後


    逃亡説
    1972年には、「パラシュートによって、ハイジャックした旅客機から逃走しようとした事件(模倣犯)」が3件発生した。最終的にはいずれも検挙され、「ダン・クーパー」だけが逃げ切ったと思われていた。
    捜査当局が「ダニエル・B・クーパー」を被疑者として拘束したため、「D.B.クーパー」が被疑者であるかの誤解をマスコミに与えるミスをした。そのため、世間一般に、後者の名が誤って広まってしまった。
    死亡説
    1980年2月13日、ワシントン州バンクーバー郊外のコロンビア川のそばで、ピクニックに来ていた家族によって、身代金の一部5800ドル(20ドル紙幣の束であったという)が発見された。
    そのため、「犯人は、コロンビア川に落ちて溺れた」、もしくは「冬の夜の寒さに凍えて、死亡したのではないか?」といわれるようになった。
    彼が使用したパラシュート2つのうち、1つは「空中では展開しない、地上訓練用」であったため、「パラシュートによる脱出に失敗して死亡した」という説もあった。
    その他、犯人と思われる人物
    1991年に出版された書籍には、「1972年に同様の事件を起こした元軍人の男性[1]が犯人ではないか?」という説が書かれた。
    2000年、ある女性が、「夫が死ぬ間際に、『ダン・クーパー』であったと告白した」とする記事がU.S. News and World Report誌に掲載された。それによると、「夫の筆跡と、犯人の筆跡がよく似ていること」などを根拠にしていた。なお、彼女の夫の死亡は1995年。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1980年
    【#70】前尾道市長夫婦殺人事件
    前尾道市長夫婦殺人事件(ぜんおのみちしちょうふうふさつじんじけん)とは、広島県尾道市で発生した殺人事件である。また被疑者が特定されず公訴時効を迎えた未解決事件である。

    概要


    被害者の市長は公人であるため実名であるが、それ以外の人物については仮名とする
    佐藤勲前尾道市長は医師で尾道市議を4期勤めた後1975年4月の尾道市長選挙で初当選し、尾道市の当時の累積赤字を昭和53年度までに無くすなどの実績を挙げていた。しかし、2期目を目指していた1979年2月に市立学校の増改築をめぐり、業者に便宜を図った謝礼を受け取ったという収賄容疑で逮捕され、4月投票の市長選出馬を断念していた。
    1980年2月9日、当時刑事事件の被告人であった佐藤(当時53歳)が妻(当時45歳)とともに尾道市浦崎町[1]の自宅で殺害された。夫婦は二階の寝室で首をかき切られ惨殺されていた。当時同家は次女(当時25歳)が同居していたが、彼女は看護学校へ朝出かけた時には不審な点はなかったという。
    犯行現場となった佐藤宅であるが、電話線が切断され自宅内を物色された痕跡があり、計画的犯行の可能性が高かった。また医師で政治家という職歴から怨恨の可能性もあるほか、強盗殺人の可能性もあった。そのため被疑者は多数に及ぶことになった。捜査を担当した広島県警察福山西警察署[2]は、捜査本部に夫婦の遺影を掲げ捜査したが、被疑者を特定することが出来ず、1995年2月に刑法の公訴時効を迎え迷宮入り事件となった。
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    DATE: 2010/06/01(火)   CATEGORY: 1977年
    【#65】青酸コーラ無差別殺人事件
    青酸コーラ無差別殺人事件(せいさんコーラむさべつさつじんじけん)とは1977年1月3日を始めとして東京・大阪で起こった無差別殺人事件である。シアン化ナトリウム入りのコカ・コーラを飲んだ会社員らが死亡した。毒入りコーラ事件とも呼ばれる。

    第一の事件(東京)


    1977年1月3日午後11時半ごろ、東京都港区で東海道新幹線の列車食堂のアルバイトに就いていた男子高校生(当時16歳、京都市在住)が、アルバイト先から宿舎へ戻る途中、品川駅近くの品川スポーツランド(現在の品川プリンスホテル:1978年開業)正面にある公衆電話に置かれていた、未開封のコカ・コーラを拾い宿舎に持ち帰った。翌4日の午前1時過ぎに飲んだところ、男子高校生は異様な味を感じ、すぐに吐き出し水道水で口を漱ぐが、突然倒れてしまった。男子高校生は意識不明の重体となり、直ちに病院に運ばれ応急処置が行われたが、まもなく死亡した。死因は青酸中毒だった。

    第二の事件(東京)


    同4日の午前8時15分頃、前述の男子高校生がコーラを拾った電話ボックスから、第1京浜国道道路を約600m北に行った歩道上で、作業員(当時46歳)が倒れているのが発見され、こちらも病院に運ばれたが死亡が確認された。死因は第一の事件と同様に青酸中毒であった。また、男性が倒れていた場所の近くには、男性が開栓したとみられるコーラのびんが発見され、残っていたコーラから青酸反応が検出された。
    警察が周辺を捜索したところ、同日午後0時すぎ頃、作業員がコーラを拾った電話ボックスから約600m離れた品川区にある商店の赤電話に、青酸入りのコーラが置かれているのを発見した。それ以前にその商店の息子(当時15歳)が用事で出かける際にこのコーラを発見していたが、用事の後に飲もうと思いそのまま出掛けたため、間一髪で難を逃れている。彼がコーラに毒物が入っていた事を知ったのは、用事から帰宅した時に警察官が来訪していたからであった。
    警察は一連の事件を受け、同一犯の可能性が高いとみて、コーラが人気である若者世代や、青酸化合物を入手しやすい塗装業・加工業者をあたったが、物証に乏しく、犯人・犯行を特定できず、事件は謎を多く残したまま1992年1月4日午前0時(日本時間・UTC+9)をもって時効となった。

    第三の事件(大阪)


    東京の事件から約1ヶ月後の2月13日午前6時20分頃、大阪府藤井寺市に住む会社員の男性(当時39歳)が出勤途中にタバコを買うため立ち寄った酒屋の公衆電話に、中身の入ったコーラのびんが置かれているのを発見し、飲んだところ突然意識不明に陥り病院に運ばれた。男性が飲んだコーラのびんからは青酸反応が検出された。男性は一命を取り留めたが、退院した翌日に自宅でガス自殺した。
    遺書はなかったが、死の直前には家族などに「東京の事件を知っていたのにこのような事態になって世間に顔向けできない」と漏らしていたという。また、「誰もコーラを飲んだ場面を見ていない」「男性の出た症状には青酸中毒特有の症状がなかった」との報道もあった。

    第四の事件?


    同年の1977年2月14日、東京駅の八重洲地下街で、会社社長の男性(当時43歳)が階段のところにチョコレート40箱入りの紙袋が置かれているのを発見した。男性は、一連の青酸コーラ事件から「このチョコレートにはもしや…」と疑い、警察に届けた。
    警察では当初、遺失物扱いされたが落とし主が出てこないため、製造者に返却した。製造会社がこれを調べたところ、製造番号が破りとられていたことから不審に思い、研究所で調べたところ青酸化合物が検出された。
    製造者が再び警察に届け、無差別殺人事件として捜査したがこの件でも犯人逮捕はできなかった。またこのチョコレート箱には「オコレル ミニクイ ニホンジンニ テンチュウヲ クタス」(驕れる醜い日本人に天誅を下す、という意味のようである)などとカタカナのゴム印による脅迫文らしきものが添付されていた。
    この事件と第一、二、三の事件との関連性は不明である。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1975年
    【#50】佐賀女性7人連続殺人事件
    佐賀女性7人連続殺人事件(さかじょせいななにんれんぞくさつじんじけん)とは佐賀県で発生した7人の連続殺人事件。水曜日の絞殺魔事件とも呼ばれる。また訴追された1989年の3人女性殺人事件は北方事件(きたがたじけん)と呼ばれる。

    概要


    1975年から1989年までに佐賀県北方町・白石町・北茂安町・武雄市の半径20キロの地域で7件もの女性殺人事件が発生。事件の特徴として、7件中6件が水曜に被害者女性が失踪していること、夕方から夜にかけて失踪していること、白骨化して死因が不明な2件を除いた5件が死因が絞殺であったことがあげられた。
    内4件は捜査機関が犯人を起訴できずに公訴時効が成立。残り3件は起訴されたが、無罪が確定し、7件とも未解決事件となった。
    中原町・北茂安町は2005年3月に三根町と合併し、みやき町となっている。

    第1の事件


    1975年8月27日(水)
    北方町に住む当時中学1年生であった山崎十三子さん(当時12歳)が1人で留守番中の自宅から失踪。いつも履いている靴が残されたままとなっていた。

    1980年6月27日
    白石町須古小学校プール横トイレ便槽で遺体で発見された。遺体を隠そうと遺体の上には丸い石が100個ほど積んであった。

    第2の事件


    1980年4月12日(土)
    杵島郡大町町に住む百武律子さん(当時20歳)が1人で留守番中の自宅から失踪。抵抗した痕跡も見られず、顔見知りによる犯行とも考えられた。3月末に買った時計が現場からなくなっている。また、これまで2度自殺未遂をしており、日頃「20歳の誕生日に自殺する」と漏らしていた。
    失踪直後の4月16日、山崎さんの父親宛てに「娘ハ帰ラナイダロウ、オ前モ苦シメ」と書かれた手紙が届いた。同じ頃には「人捜しのテレビに出るな」という脅迫電話もあったという。

    1980年6月24日
    衛生会社のし尿の汲み取り作業中に、白石町須古小学校北側校舎トイレ便槽から遺体で発見された。(1件目と同じ小学校)

    第3の事件


    1981年10月7日(水)
    杵島郡白石町に住む縫製工場の従業員池上千鶴子さん(当時27歳)が近くの縫製工場での勤務を終えて、午後5時半頃にスーパーで買い物をした後に失踪。最後に目撃されたのはスーパーの駐車場で、「乗用車に乗った30代の男性と親しげに話しているところを見た」と同僚が証言した。

    1981年10月21日
    40km離れた三養其郡中原町の空き地で発見。
    電気コードによる絞殺、性的暴行された跡はなかった。

    第4の事件


    1982年2月17日(水)
    佐賀県三養基郡北茂安町、北茂安小学校5年西山久美ちゃん(当時11歳)が下校途中の午後4時過ぎに失踪。

    1982年2月18日
    午前11時半頃、北茂安中学体育館北側の町道脇のミカン畑の中で、ランドセルを背負ったままの久美ちゃんの遺体が発見された。遺体はうつぶせで、下半身は裸、首にはストッキングが巻きつけられてあった。

     久美ちゃんが何者かに殺される直前、車に乗った怪しい男が何人にも目撃されていた。・同町の国道34号線沿い「キュウピィマーケット前」バス停でバスを待っていた主婦に、白い車に乗ってきた男が「乗っていかんですか」としつこく声をかけていた。主婦は男のあまりにしつこい誘いに「警察を呼びますよ」と断ったところ、男は睨みつけながら車に戻っていった。

    ・午後2時半頃
    同じような白い車が同県神埼郡三戸田町の三戸田小学校の校舎の傍に停まっていた。ここは主婦に声をかけたバス停から約5kmのところである。時刻は低学年の児童らの下校時間で、白い車を降りた中年男は1人の児童に「そこに座んなさい」と声をかけ、「ピンクレディーの写真を見せるからこっちへ来なさい」と言いながら児童を抱きかかえて女子便所に連れこんだ。ところが児童は大声で泣き出したため、男は何もせずに姿を消した。

    ・午後3時10分頃
    白い車は再び北茂安町のあらわれた。下校中の北茂安中学校の女子生徒2人にしつこく話しかけていた。

    ・午後3時半頃
    小学2年の女児児童3人に「家まで送るから乗らんね」と声をかけている。久美ちゃんが姿を消すのはその30分後である。

    ・午後4時半頃(麻美ちゃんが殺害されたと思われる)、殺害現場付近に白い乗用車が停めてあったのを主婦が目撃。この白い車に乗った中年男こそが犯人という線がかなり濃厚だった。

    目撃情報によると、
    白い車の車種 ナンバー「福岡???6950」
    ・「カローラ」
    ・「スプリンター」
    ・「ダイハツクオーレ」
    年齢30~40歳程度、鼻筋の通った眼のきつい細面の中年男、ジャンパーに青いズボン。
    手口や、遺体発見現場の近さなどから、池上千鶴子さん殺しの犯人と同一人物ではないかと見られた。

    第5の事件


    1987年7月8日(水)
    武雄市の温泉街の老舗割烹従業員藤瀬澄子さん(当時48歳)が失踪。仕事終わりに同僚と一緒に割烹近くのスナックへ行き、1時間ほど楽しく過ごした。店を出たあと澄子さんは「知っている人がよく来る店があるから、もう一軒行こう」と誘ったが、同僚の女性は電車の時間があるからと、断ったためその場で別れ、自宅までの1kmの間で行方不明となった。

    1989年1月27日に北方町大峠の崖下で白骨化した遺体で発見された。

    第6の事件


    1988年12月7日(水)、北方町の主婦中島清美さん(当時50歳)がミニバレーボールの練習があるからと家族に言い残して外出したあと行方不明。

    1989年1月27日に北方町大峠の崖下で遺体で発見された。

    失踪から1週間後の昼ごろ、清美の自宅に謎の中年男性から電話。
    夫「もしもし、中島です」
    中年男性「奥さん、見つかったそうですね。」
    夫「えっ?」
    中年男性「よかったですね」
    夫「一体どこで見つかったんですか?」
    中年男性「焼米(やきごめ)のほうでしょう」
    (少し沈黙)
    夫「あなたはどちらさまですか」
    中年男性「あんたの知った人間だ」
    40~50歳ぐらいの男性の声で佐賀弁の中に関西弁。

    その後も、数日おきに自宅や義明(忠雄?)の勤め先に、無言電話が数十回かかっていた。「焼米」という言葉はのちに遺体が発見される大峠の近くにある地名の通称で、この呼び名を使っているのは地元の人ぐらいしかいないため、この地名の北方町出身で、関西方面で暮らした経験のある男。

    第7の事件


    1989年1月25日(水)、北方町の会社員吉野タツ代さん(当時37歳)が失踪。
    北方町で農業を営む夫と1年前(1988)から別居。同町にある実家に戻っていた。嫁ぎ先は遺体発見現場から500m。 実家では両親と小学校4年生の長男の4人で暮らし。

    18時55分
    勤務先の縫製工場「R」タイムカードを押して退社。
    ※第3の事件の被害者である池上千鶴子さんと同じ職場

    19時15分
    帰宅。

    19時20分
    タツ代宛てに電話。相手や内容は不明。

    19時40分
    「友達を山内町まで送ってくる」「友だちの車がパンクした。遅くなる」と母親に言って車(ミラ)で外出、そのまま行方不明。

    時間不明
    タツ代の車はロックされた状態で、自宅から約3キロ離れた武雄市のボウリング場の駐車場で発見。そこで、タツ代を見かけたと言うOLの目撃談によると、白のトヨタ・クレスタがやってきて、タツ代を助手席に乗せて走り去った。

    前年10月、タツ代は「だんなさんの仲間」という男から「だんなさんと別居しとるやろ。話しがあるけん、出てこんね」という電話を受けていて、タツ代は気味悪がって家に閉じこもっていたが、その後も不審な男から同じように誘い出すような電話があり、それは失踪する直前まで続いた。

    1989年1月27日
    北方町大峠の崖下で遺体で発見された。


    北方事件



    北方事件の被害者
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    1989年1月27日午後5時頃、遺体発見者の女性Aさん(55歳)は夫が運転する車で用事を済ませて自宅に帰る途中。すっかり、日も暮れた午後5時50分ごろ、暗い山道を抜けて北方町の大峠と呼ばれる地区に入ったところで、仏壇に供えるのに 丁度いいと思ったトウゴシュの花を見つけた.Aさんはそのトウゴシュの枝を拾いに車を降りた。約2mのその枝は何かで切り落とされているようだった。ついでに、道沿いに咲く花を摘んでいたAさんは、ふと崖下に目をやると、何か白いものを見つけた。なんだろうと思い、崖を降りその白いものに3mまで近づいたとき、それが女性の死体であることに気づいた。110番通報で、警察が駆けつけ捜査が始まった。すると、その白い服を着た女性の死体からわずか2mのところに上半身が腐乱状態になっている女性の死体を発見した。さらにその1メートルほどのところで白骨死体を発見。3人の遺体のそばにはシャツやセーター、下着、タオルなどが木の枝に通してぶら下がっていた。また、Aさんが見つけたトウゴシュの枝はノコギリで切られたような跡があり、それは死体遺棄現場を指し示すか のように丁度、真上に置かれていた。被害者の物と思われる遺留品が遺体発見現場の周囲2キロ圏内に点々と捨てられていた。

    1989年11月、別件で拘置されていた松江輝彦さん(当時26歳)が任意の取調べに対し犯行を認める上申書を書いたが、すぐに否認に転じた。2002年6月11日になって佐賀県警は鹿児島刑務所に服役中の松江さんを吉野さんの殺害容疑で逮捕した(藤瀬さん殺害容疑の逮捕は7月2日、中島さん殺害容疑の逮捕は7月9日)。7月7日に吉野さん殺人事件の公訴時効成立約6時間前に起訴。同年10月22日に公判が開始され、検察側は死刑を求刑したが、2005年4月10日、佐賀地裁で行なわれた公判で、物証の乏しさや上申書の証拠価値の無さ(限度を越えた取調べの上で担当者の誘導により作成されたと認定)などにより、松江さんに無罪が言い渡された。その後、検察側が控訴していたが、2007年3月19日に福岡高等裁判所にて一審の佐賀地方裁判所の判決と同様に無罪の判決。二審では検察側が新たに提出したミトコンドリアDNAの鑑定結果を提出するも、被告を有罪とする根拠とはなり得なかった。なお、判決では長期間に渡って被疑者を拘束した上での取り調べなどの佐賀県警察の杜撰な捜査が指弾された。3月29日に福岡高等検察庁(福岡高検)が最高検察庁(最高検)と協議した結果、二審の判決には上告に必要とされるであろう重大な事実誤認ないしは判例違反が見あたらない上に原判決を覆すのに必要とされる物証も乏しいことから上告を断念。4月2日の上告期限を過ぎても上告せず、被告の無罪が確定した。これによって、北方事件との関連が疑われている4つの事件も含めて時効が成立し、実質的には未解決事件となった。又、二審の判決でも指摘されたような佐賀県警や検察の杜撰な捜査や起訴の有り様も批判された。

    無罪が確定した松江輝彦さん
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    補足


    日本では検察側の求刑が死刑に対して、一審判決が無罪となった例は過去には1961年に三重県名張市で起こった名張毒ぶどう酒事件がある。これは、最高裁の統計が残る1958年からだと名張事件から41年ぶりであり、戦後5件目である(実際は1974年の豊橋事件、1983年の土田・日石・ピース缶爆弾事件で一審段階で無罪が言い渡されている)。但し、名張事件では1964年の一審の津地方裁判所では無罪になったものの上訴審で死刑判決となった。
    再審による無罪が下った事件も含めるのであれば、1989年に再審により静岡地方裁判所にて無罪となった島田事件が挙げられる。なお、北方事件は1980年代に相次いだ死刑からの再審無罪が決まった4件の冤罪事件も含めれば島田事件から16年ぶりで戦後9件目である。
    最高裁の記録が残る1978年以来、死刑求刑事件で一審及び二審と続けて無罪となった例は初めてとされる。実際は土田邸爆破事件の被告人に対しての、一、二審無罪が存在するが、この被告人は別件の窃盗罪で有罪判決(懲役1年、執行猶予2年)を言い渡されており、記録上は有期懲役判決となっているためである。
    2007年3月20日には、二審での無罪判決を受けて福岡県弁護士会が取り調べの可視化の実現を求める声明を発表した。
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