あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1970年
    【#91】豊橋事件
    豊橋事件(とよはしじけん)とは1970年(昭和45年)に愛知県豊橋市で発生した、強姦放火殺人事件とそれに伴う冤罪事件。

    概要


    1970年(昭和45年)5月15日、豊橋市で起こった火災現場で、親子3名の他殺体が発見された。母親は何者かに強姦された上で殺害され、子供2人は放火されたために焼死していたという、残酷極まりない犯行であった。

    被疑者


    3ヵ月後の8月28日、被疑者として21歳(当時)の男性が逮捕され、9月には強姦致死・殺人放火・窃盗で起訴された。11月に行われた初公判では容疑を認めたが、翌年3月に行われた2回目公判からは否認に転じた。最初の時点では、「極刑が予想される恐怖から、態度を変えた」と思われていた。

    裁判


    被告人の男性の無罪の訴えに対し、私選弁護人3人も無罪の論陣を張った。
    1973年12月に行われた公判では、捜査時の刑事(当時は定年退職していた)を弁護側の証人として招聘することに成功した。元刑事は、「被告人が真犯人であるとの疑念は消えない」と証言したが、「捜査が物証に基づかないものであった」と批判した。
    検察側は、「被告人の無罪を証明する、明白な証拠」を持っていた(後述)が、公判では隠匿し、死刑を求刑していた。しかし、被告側が「捜査本部が冤罪を作り上げた過程」を証明したため、1974年6月12日に無罪判決が宣告され、そのまま確定した。
    以上のように、「犯人として逮捕された人物」が、新聞記者や現職の警官の活躍により冤罪事件であったことが裁判で認められ、一審で無罪判決が確定した。真犯人が逮捕されないまま1985年に公訴時効を迎え、未解決事件となっている。
    物証の隠蔽 [編集]
    無罪確定から5年後、物証が明るみに出た。「犯人のものと思われる、B型の精液が付いたサルマタ」が、現場から発見されていたのである。
    当初、捜査機関は「家族の夫のもの」と弁解していた。しかし、被害者の夫は非分泌型の血液型のため、被害者の夫の精液であれば血液型が判明するはずがなかった。被疑者の血液型はA型であったため、無罪の証明となった。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1969年
    【#80】土田・日石・ピース缶爆弾事件
    土田・日石・ピース缶爆弾事件(つちだ・にっせき・ピースかんばくだんじけん)とは、1969年(昭和44年)から1971年(昭和46年)にかけて、東京都内で連続した爆破殺傷事件である。ピース(タバコ)の缶が爆弾に使用されていた。
    18名が誤認逮捕、起訴されたが、全員が無罪になった事件でもある(1人のみ別件微罪で有罪)。なお、4件中3件が未解決事件(公訴時効は成立)。

    概要


    現場は、いずれも東京都内。
    ・警視庁機動隊庁舎ピース缶爆弾未遂事件
    1969年10月24日、新宿区若松町の警視庁第8機動隊庁舎。
    ピースの缶(50本入り)に偽装した爆弾が投げ込まれる。
    不発であり、犠牲者なし。
    当時は、金属製の円筒状のパッケージ入りのタバコが販売されていた。

    ・アメリカ文化センターピース缶爆弾事件
    1969年11月1日、港区永田町のアメリカ文化センター。
    ピース缶使用の爆弾(時限爆発装置を装着)を梱包した段ボール箱が配達された。
    アメリカ文化センターの職員1人が負傷。

    ・日石本館地下郵便局爆破事件
    1971年10月18日、港区西新橋の日本石油(後の新日本石油)本社ビル地階の郵便局。
    郵便小包に偽装した爆弾が爆発。
    郵便局員1人が重傷を負った。
    宛先は、警察庁長官(当時は後藤田正晴)と、新東京国際空港公団総裁。

    ・土田邸ピース缶爆弾事件
    1971年12月18日、豊島区雑司ヶ谷の土田國保(警視庁警務部長、当時)宅。
    郵便小包に偽装した爆弾が爆発。
    土田の妻が死亡、子供1人が重傷。

    捜査の概要


    当時の社会状況
    新左翼事件が注目されていた。
    ピース缶爆弾は新左翼特有の犯行だった。
    そのため、捜査は新左翼を中心に進められた。
    被疑者18名 [編集]
    警視庁が被疑者として逮捕した人物は、以下の通り。
    1972年9月10日
    増淵利行(当時27歳。赤軍派活動家)。
    これのみ別件逮捕。
    1973年1月6日
    B(当時23歳)
    1月8日
    C(当時22歳)
    1月22日
    増淵利行、D(当時24歳)、E(当時24歳)の3名。
    2月9日
    F(当時23歳)
    2月20日
    G(当時23歳)
    2月20日
    H(当時24歳)、I(当時26歳)の2名。
    3月13日
    J(当時25歳)、K(当時27歳)の2名。
    3月19日
    L(当時25歳)、M(当時25歳)の2名。
    3月29日
    N(当時24歳)、O(当時25歳)の2名。
    3月29日
    P(当時27歳)
    4月9日
    Q(当時25歳)
    4月13日
    R(当時25歳)
    内訳
    18名の被疑者の内、増淵以外は政治活動をしていなかった。
    しかし、増淵とは、個人的な交友関係があった。
    取調べ [編集]
    警察は増淵ら主催していた研究会の理論を動機の背景として、18名に対し、
    尋問室の密室の中で拷問を行い、
    先入観と思い込みに基づいて、
    犯行の供述を強要した。
    その結果、
    18人全員から、事件を行ったこと
    他の17人との共犯関係
    を認めた供述調書を作成。報道機関に公表した。

    裁判の経過・結果


    各事件と被告人 [編集]
    各事件ごとに起訴された被告人は、下記のとおりである。
    爆弾製造
    増淵利行、B、C、D、E、F、G、H、I、J、K。
    警視庁機動隊庁舎ピース缶爆弾未遂事件
    増淵、B、D、E、F、G。
    アメリカ文化センターピース缶爆弾事件
    増淵、B、C、D。
    日石ビルピース缶爆弾事件
    増淵、E、H、I、L、Q、R。
    土田邸ピース缶爆弾事件
    増淵、E、H、I、L、M、N、O、P、Q。

    無実を主張 [編集]
    被告人18名は、
    取調べで拷問され、虚偽の供述をさせられた。
    この事件に関し、いかなる関与もしていない。
    と主張した(ただし、初公判の時点で無実を主張した者と、公判の途中から無実を主張した者がいる)。
    分離公判から統一公判へ [編集]
    開始時は、被告人全員が分離公判だったが、途中から統一公判となった。
    1974年12月に、増淵利行、E、H、I、N、O、Q、Pの審理を併合。
    1975年9月に、Lの審理も併合。
    地方裁判所の審理終了までに、286回の公判を行った。
    経過 [編集]
    R [編集]
    1976年1月29日、東京地裁
    「検察官の主張は真実ではない」、「被告人と弁護人の主張は真実である」と認識し、Rに無罪判決。
    検察官は無罪判決を不服とし、控訴。
    1978年8月11日、東京高裁
    検察官の控訴を棄却し、地裁判決を支持。
    検察官は上告を断念し、Rの無罪が確定。
    L、Q [編集]
    1977年4月25日、東京地裁
    L、Qの2名を保釈。
    M [編集]
    1983年3月24日、東京地裁
    Mに無罪判決。
    検察官は控訴を断念し、Mの無罪が確定。
    増淵利行、E、H、I、L、N、O、P、Q [編集]
    1979年4月、東京地裁
    若宮正則(赤軍派の活動家)は、「警視庁機動隊庁舎ピース缶爆弾未遂事件の実行犯である」と証言。
    1982年5月25日、東京地裁
    牧田吉明(民族主義活動家)は、「警視庁機動隊庁舎ピース缶爆弾未遂事件に使用された爆弾を作成し、配布した犯人である」と証言。
    「実行犯は、若宮正則など、赤軍派の構成員」と証言。
    1982年5月28日、東京地裁
    増淵利行を釈放。
    1982年12月7日
    検察官は、統一公判の被告人9人に対し、増淵に死刑、EとIに無期懲役、Hに懲役15年、LとQに懲役12年、NとOとPに懲役4年の求刑。
    1983年5月19日、東京地裁
    統一公判の増淵、E、H、I、L、N、O、P、Q被告人全員に無罪判決。
    検察官は不服とし、控訴。
    1985年12月13日、東京高裁
    統一公判の被告人9人に対する検察官の控訴を棄却し、地裁判決を支持。
    検察官は上告を断念。増淵、E、H、I、L、N、O、P、Qの無罪が確定。
    損害賠償を提訴 [編集]
    1986年3月25日
    増淵利行、E、H、I、Lは、「無実の被疑事件で身柄を拘束された」ことに対し、国と東京都に対して
    1億7200万円の国家賠償。
    訴訟費用の損害賠償。
    全国販売網を持つ各新聞紙上での、謝罪広告の掲載。
    以上を求める民事訴訟を提訴した。
    2001年12月25日、東京地裁
    提訴人の主張を、全て却下。
    東京高裁は、Eに対する100万円の損害賠償だけを命じ、他の提訴人の要求を却下。
    不明な事項 [編集]
    B、C、D、F、G、J、Kの、東京地裁の無罪判決日。
    上記に対する、検察官の控訴の有無。
    B、C、D、E、F、G、H、I、J、K、M、N、O、P、Rの保釈時期(増淵、L、Q以外)。

    真犯人、時効


    警視庁機動隊庁舎ピース缶爆弾未遂事件
    爆弾製造を牧田吉明が行い、実行犯が若宮正則であることが判明。
    上記以外の事件
    被疑者不明で公訴時効が成立。真犯人は不明。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1961年
    【#76】チ-37号事件
    チ-37号事件(ち-さんじゅうななごうじけん)とは、1961年秋田県秋田市にて発生した偽札事件である。公訴時効が成立し、未解決事件となっている。

    概要


    1961年(昭和36年)12月7日、秋田県秋田市にある日本銀行秋田支店で、廃棄処分にされる紙幣の中から偽千円札が発見された。これを契機に1963年(昭和38年)まで、22都道府県から合計343枚発見された。警察は「チ-37号事件」と命名した(「チ」は千円札を意味する警察における符合で、「37」は37番目の千円札の偽札事件であることを意味する)。
    警視庁捜査第三課が捜査するもチ-37号は巧妙化していった。初めは通し番号が「WR789012T」と連続した数字で、数字の配列が右下がりになっていたことが新聞で報道されると、翌1962年春に発見されたものは数字が「DF904371C」となった上、数字の配列がまっすぐになるなど、より精度が高いものになっていった。新聞記事で偽札の欠点を指摘するとすぐ修正したことで偽札の精巧な製造技術と迅速な対応が冷静沈着な犯人像を想像させた。
    1963年(昭和38年)3月5日、静岡県清水市(現・静岡市清水区)と静岡市で、偽札を使用した黒いハンチングに眼鏡をかけた男が目撃された。この男のモンタージュ写真が作成されたが、検挙には至らなかった。同年11月4日に偽札が発見されたのを最後に、偽札が出てくることはなかった。
    1973年11月に公訴時効が成立して、迷宮入りとなった。
    チ-37号は「日本の偽札史上、最高の芸術品」と言われている。

    対応


    1962年9月6日、警視庁は、偽千円札を届け出た者に対して1枚につき3000円の謝礼、犯人に繋がる重要な情報を提供した者には1万円から100万円の謝礼を出すことを決定した。銀行協会も犯人への有力情報に100万円の懸賞金を出すことを発表した。
    事件や警視庁の対応は当時の小学生にも知れ渡り、「Aさんが300円の品物を千円札で買ったところ、2700円のお釣りが返ってきた。それはなぜか」という内容のクイズが流行した。これは漫画「三丁目の夕日」でも描かれている。
    1963年11月1日、政府は貨幣の信頼維持のため、デザインを聖徳太子から伊藤博文に変更した新千円札(C券)を発行した。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1965年
    【#74】蛸島事件
    蛸島事件(たこじまじけん)とは、1965年(昭和40年)に石川県珠洲市蛸島町で発生した殺人事件である。

    概要


    1965年7月5日、能登半島の小さな港町である蛸島地区で、当時10歳の少年が行方不明となり、翌日他殺体で発見された。警察は初動捜査において容疑者を絞り込めなかったため、地区住民のうち小学校高学年以上のアリバイを調べた。地区外からの侵入者による犯行の可能性の検証・捜査を怠った「見込み捜査」であったとされる。
    8月11日、地区の青年が別件逮捕され、実際には殺人容疑で徹底的に取調べが行われたが、アリバイがあったため8月22日に釈放された。続いて8月30日に当時16歳の少年を住居侵入と窃盗で逮捕し、前述の殺人についても犯行を「自白」させた。
    しかしながら、少年の逮捕容疑は半年前のものであり、しかも留守にしていた無施錠の親類の家(現在でも農村部には見られる風習で、玄関に鍵をかけず親しい者同士で自由に出入りするのが普通であった)に入ったというもので、窃盗も警察が親類に無理矢理被害届を出させたという、いわゆる別件逮捕であった。
    このような、無理な捜査によって出された「自白」のみが殺人事件の唯一の証拠であったため、検察は起訴したものの、金沢地方裁判所七尾支部は1969年6月3日に無罪判決を出した。検察側が控訴を断念したため、同少年の無罪が確定、冤罪との評価が定着した。
    最終的に、事件は時効が成立することになるが、この事件で問題になったのは、捜査機関が見込み捜査を行い、真相究明ができなかったばかりか、冤罪をでっちあげて2人も拘束したことである。
    しかも、直接の殺人容疑でなく、全く事件に関係のない容疑で別件逮捕し、自白を強要する手法を行うなど無理な裏づけ捜査をしたために、真犯人を逮捕できなかったばかりか、捜査機関が冤罪を作り出すという結果となった。

    事件の問題点


    捜査機関が、事件における様々な可能性の追求を怠り、事件の早期解決を焦るあまり見込み捜査をしたために、再捜査後、時効成立により真相解明ができなくなる、と言う最悪の結果となった。
    また、別件逮捕は被疑者を早期に勾留するために、しばしば日本の捜査機関が行う捜査手段であるが、この手法については不当逮捕を禁じた日本国憲法第34条および刑事訴訟法第204条以下に違反するものであるとの指摘もある。
    ただし、別件容疑自体も起訴に充分な場合(たとえば、被疑者を拘束するために、殺人容疑が本命でも死体遺棄容疑で最初に逮捕する)には容認できるものとされている。しかし、この事件では起訴すらも難しい容疑であるうえに、全く本件に関係のないものであった。
    前述の金沢地裁七尾支部の判決文では、警察・検察側の別件逮捕・勾留を厳しく戒める文言が盛り込まれた。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1968年
    【#72】ゾディアック事件
    ゾディアック事件(ゾディアックじけん、英:Zodiac Killer)は、アメリカ合衆国の連続殺人事件。

    概要


    1968年から1974年のサンフランシスコで警察が確認できた被害者5名を殺害。現在も犯人不明のまま、事件は解決されていない。
    1990年代には、ニューヨークでこの事件を模倣した連続殺人が発生した。以後ゾディアックは連続殺人の代名詞にもなる。

    一連の事件


    1968年12月20日、サンフランシスコで2人の10代の若者、1人は重傷の男マイケル・マジョー、そしてもう1人は死亡した女性ダーレン・フェリンが発見される。
    1969年7月5日、男がヴァレホ警察に電話をして2件の殺人を報せ、それ以前の殺人も自分のものだと言った。警察は電話をかけてきた男の指示した場所で新たなカップルの犠牲者を発見したが、男性は死んではおらず、その襲撃から生き残った。
    翌月に掛けてゾディアック(黄道十二宮の意)と名乗る人物がサンフランシスコ湾域警察、新聞社「タイムズ・ヘラルド」とサンフランシスコの2社、著名人へ多量の手紙を送った。あるものは部分的に暗号化されていた。
    1969年9月、ナパ警察は電話を受け、新たなカップルの犠牲者を発見。男性は生き残る。
    1969年10月、ゾディアックはタクシーの運転手を撃ち殺し、男のシャツの切れ端を地元の新聞社に送った。彼は警察署への電話を続け、弁護士とも接触を持とうとした。
    1974年 サンフランシスコ警察へすでに37人を殺害したこと、新聞でもっと大きく取り扱わないと「何かすさまじいこと」をやるとあった2通の最後のゾディアックの手紙が受け取られた。しかしそれ以前に殺人事件は終息していた。
    2009年、「真犯人は私の父」とデボラ・ペレスが名乗り出た。
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