あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1947年
    【#115】ブラック・ダリア事件
    ブラック・ダリア事件(-じけん)とは、1947年1月15日にアメリカで発生した殺人事件。
    ジェイムズ・エルロイが1987年に発表した小説『ブラック・ダリア』、同作を映画化した『ブラック・ダリア』のモチーフとなった。

    概要


    1947年1月15日、黒い服を好んだことから「ブラック・ダリア」の通称で知られていた女優志願の女性、エリザベス・ショートの死体がロサンゼルスで発見された。
    死体には激しい損壊が加えられており、胴の部分で2つに切断されていた。死体は洗い清められており、犯人に繋がる証拠は発見されなかった。また、事件発覚後に新聞社にブラック・ダリアの所持品が送りつけられてきたが、指紋は検出されなかった。
    事件は非常に注目を集め、約1ヶ月に渡って『ロサンゼルス・エグザミナー』のトップ記事を飾り、500人に及ぶ自称犯人やその関係者が出頭するほどだったが決め手に欠けたために迷宮入りし、現在も未解決である。

    概要


    日時 出来事 備考
    1月15日早朝 新聞配達の男性が空き地に止まるフォードを目撃。
    1月15日10時半 散歩中の女性が死体を発見、警察に「女性が倒れている」とのみ通報。 警察は酩酊者と判断して、パトロール中の警察官に連絡。無線を傍受していた新聞記者が先回りして現場に到着し、現場の写真を撮影した。
    1月15日10時半過ぎ 散歩中の少年が死体を発見。相前後して警官が到着し、本部に死体発見の報告を入れる。 死体発見の報を受けた新聞記者や野次馬が現場に集まり、現場の保存が適切に行われてなかったことから、犯人のものと見られる足跡やタイヤ跡が失われた。
    1月15日午後 死体が検死局に送られ、ヘラルド・エクスプレスおよびロサンゼルス・エグザミナーに第一報が掲載。 被害者は15-16歳の女性とされる。
    1月16日 ロサンゼルス・エグザミナー社の協力によって、被害者の指紋をFBIに電送。身元判明。
    1月18日 ロサンゼルス・エグザミナー社の記者がブラック・ダリアのトランクを発見、警察が中を開けてボーイフレンドの写真や手紙が多数見つかる。 独占記事と引き換えに警察に引き渡したことから、警察に先んじてトランクを開けていたのではないかとの疑惑が持たれた。またボーイフレンドの一人が拘束されたものの、無関係と判明。
    1月23日 ロサンゼルス・エグザミナー社の記者が、犯人と思われる人物からブラック・ダリアの所持品を送るとの電話を受ける。 25日に郵便局でロサンゼルス・エグザミナー社宛の小包を発見、ブラック・ダリアの所持品が入っていた。
    1月24日 ゴミ集積所からブラック・ダリアの靴を発見。
    1月26日 ロサンゼルス・エグザミナー社に29日に自首するという葉書が届く。 29日には警察とロサンゼルス・エグザミナー社に刑期が10年なら自首するという葉書が届く。結局、翌30日に警察へ自首を取り止めるという葉書が届く。
    1月30日 33歳の男性がブラック・ダリア殺害を自供。 その後の取り調べで無関係と判明。
    1月31日 ヘラルド・エクスプレス社に『犯人の写真』が送られる。ヘラルド・エクスプレス紙に写真を掲載。 翌日、『写真』の人物が名乗りを挙げる。近所に住む少年で、数ヶ月前に強盗に盗まれた写真の一部を使用されたものと判明。
    2月1日 ヘラルド・エクスプレス社に再度『犯人の写真』が送られる。
    2月6日 陸軍の伍長がブラック・ダリア殺害を自供したと新聞各紙が報道。 10日に、犯人をおびき出すための嘘だったことが判明。
    2月16日 別のバラバラ殺人事件の犯人がブラック・ダリア殺害を自供。 後に嘘と判明。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1946年
    【#89】富坂警察署襲撃事件
    富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)1月3日に東京都小石川区(現・文京区)で発生した暴動事件である。

    事件の発端


    1945年12月30日、警視庁富坂警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した。 当時の富坂警察署は戦災で焼失しており、小石川国民学校の校舎を間借りしている状態であったため、3人の容疑者は警視庁本部と大塚警察署の留置場にそれぞれ留置されていた。
    翌年1946年1月2日、容疑者のひとりを富坂警察署へ護送して取り調べた後、署内の留置場に留置した。

    概要


    1946年1月3日正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。 連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。
    危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれてしまった。
    交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。 在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出した。
    その後在日朝鮮人たちは、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。

    その後の顛末


    警視庁は、全力をあげて事件の捜査にあたったが、終戦直後の混乱もあって検挙には至らなかった。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1949年
    【#57】下山事件
    下山事件(しもやまじけん)とは、連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
    事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、警察は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件とよばれる。

    概要


    1949年6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示。三越に到着したものの開店前だったため、一旦、東京駅前に戻って千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。
    普段、下山は午前9時前には国鉄本庁に出勤し、毎朝秘書が玄関に出迎えていた。失踪当日は、国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。翌7月6日午前0時30分過ぎに国鉄常磐線・北千住駅~綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見された。
    失踪後の足取り [編集]
    失踪後、下山総裁らしき人物は、まず三越店内で、次に営団地下鉄(現・東京地下鉄)銀座線の浅草行き列車内で目撃された。三越店内では、数名の男たちを伴っていたとの目撃証言もある。
    午後1時40分過ぎに、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広旅館」に滞在。午後6時頃から8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた[1]。

    ・生体轢断か死後轢断か
    下山総裁は、東武伊勢崎線ガード下の国鉄常磐線下り方面(水戸方面)線路上で、付近を零時20分頃に通過した下り貨物列車第869列車(D51 651号牽引)により轢断されたことが判明[2]。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「生活反応」が認められない事から、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師)。
    また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体及び轢断現場では血液が殆ど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部等の特定部位にのみ、内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられた事が予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。
    一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、既に現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応が僅かなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。
    更に慶應義塾大学の中舘久平教授が生体轢断を主張(ただし中館教授は下山総裁の遺体を実見していない)。自殺の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺の根拠となる「死後轢断」とするかで見解は対立。1949年(昭和24年)8月30日には古畑教授、中舘教授、小宮喬介(元名古屋医科大学教授)の三人の法医学者が衆議院法務委員会に参考人招致され、国会、法医学界を巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた[3]。
    朝日新聞記者・矢田喜美雄 [編集]
    朝日新聞記者矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁のワイシャツや下着、靴下に大量に油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった(当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある)ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に極めて不自然な事実のあることが次々と浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の監禁・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。
    加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近に僅かな血痕を認めたとの情報を入手。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施[4]。轢断地点から上り方面(上野方面)の枕木上に、僅かな血痕を発見した。
    その後、警視庁鑑識課を加えた上で改めてルミノール検証が行なわれ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れたが、さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された[5]。
    迷宮入り [編集]
    他殺とも自殺とも結論を出せないまま、1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年(昭和25年)には、捜査員が突然転任されるなどして大幅に規模を縮小、事実上捜査は打ち切られた。
    1949年(昭和24年)12月15日に、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に「文藝春秋」と「改造」誌上に掲載された。自殺と結論付ける内容となっているが、矢田喜美雄や松本清張などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。
    1964年7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。

    事件の時代背景と推理


    1949年(昭和24年)、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換した。まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
    同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた。
    他殺説 [編集]
    松本清張は『日本の黒い霧』を発表。アメリカ軍のCIC(Counter Intelligence Corps―防諜部隊)が事件に関わったと推理した。また下山事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では進駐軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版されている。
    朝日新聞記者の矢田喜美雄は、1973年(昭和48年)に、長年の取材の成果を『謀殺下山事件』にまとめ、取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする男に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。
    1999年『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載。その後、取材を共同で進めていた諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版。いずれも元陸軍軍属が設立した組織と亜細亜産業関係者による他殺と結論付けている。また下山の友人、知人等は「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである。」として他殺説を支持する者が多かった。
    他殺説の主張 [編集]
    下山はことあるごとに「鉄道の仕事に就けて幸せだ」と言っており、大好きな鉄道で命を断つ訳が無い。
    実直な下山が、遺書も残さずに死ぬ訳が無い(国鉄の同僚の島秀雄・加賀山らの説、安部譲二(父が知己)の説)。
    轢断面やその近辺の出血といった痕跡が無いのは、轢かれる前にすでに死んでいた事を意味する(東大・古畑説)。
    下山が事件前に立ち寄ったとされる旅館の主人は元特高警察官であり、証言は疑わしい。
    大量解雇を予定通り実行させようと下山に強要したGHQが、下山を拷問の末誤って殺してしまい、それを逆手に取って犯行を労組の仕業に仕立て上げたという説。轢いた列車の前の便は米軍専用列車であり、現場をまたぐ東武線も米軍が自由に使える状況にあった。
    自殺説 [編集]
    事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張。同紙記者平正一は取材記録を纏めた『生体れき断』1964年を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。
    1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は松川事件の被告として逮捕・起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)あるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。
    自殺説の主張 [編集]
    総裁になる以前の、運輸次官の段階から下山は辞めたいとこぼしていた。
    事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、しかしそれらの先々で用件を言うでも無く「嘆願や脅迫が自宅に来る」とこぼして涙ぐんだりするのみだった。他にも前日から当日朝(GHQより迫られた、解雇発表の期限)までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある(几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、弁当を食べずに持ち歩いて交通会館の無人の部屋で一人食べるなど)。
    鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血が無い事もある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器がメチャメチャに粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい(北大・錫谷説)。
    結果的には、警察やマスコミによる自殺説の発表はGHQにより差し止められ、労組による他殺と言う風説が流布されて、後の総選挙での共産党の躍進が阻止され、日本の共産化が阻止されたのだから、事案そのものは自殺であったとしても、謀略があった事に変わりはない。
    ルミノール検査は現場からロープ小屋までしか行われていない。当時の列車のトイレは垂れ流しなので、線路ならどこでも女性の経血で血痕が出来るという説もある。またロープ小屋は細長い建物で大部分は壁が無く、犯行には不適である。

    その他


    下山国鉄総裁追憶碑
    事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武伊勢崎線ガード下、国鉄常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や営団地下鉄千代田線敷設に伴う工事により場所を移動。現在は轢断地点より約150m東、西綾瀬1丁目付近のJR常磐線ガード下の道路西側脇にある。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、東京拘置所(旧小菅刑務所)方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切(通称五反野踏切)に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武伊勢崎線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。
    D51 651
    下山総裁を轢いたD51 651機関車は、1943年10月26日に死者110名、負傷者107名を出した常磐線土浦駅列車衝突事故を起こした車両でもある。
    東京都足立区立博物館所蔵下山事件関連資料
    警視庁の合同捜査会議の内部資料と考えられるガリ版刷り文書類。柴田哲孝著『完全版 下山事件-最後の証言-』にも紹介されている。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1948年
    【#51】幸浦事件
    幸浦事件(さちうらじけん)とは、1948年に起きた強盗殺人事件。容疑者が裁判で一転、無実を主張して、警察の拷問や誘導尋問が指摘され、無罪となった。

    概要


    1948年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現・袋井市)のアメ製造業を営む主人を含む一家4人(夫34歳、妻28歳、長男5歳、次男1歳)が失踪。妻のメガネが自宅にあったことから事件性があると判断するも、何も手がかりも消息も掴めず、年を越してしまう。

    1949年2月12日、近藤勝太郎(当時23歳)と小島敏雄(当時19歳)が別件逮捕され、二人を一家4人殺害の犯人として、取り調べを続けたところ、近藤が二日後の14日に一家殺害を自供、また同日に共犯の近藤糸平(当時45歳)と吉野信尾(当時38歳)も逮捕。後日、容疑者らの自供により、一家4人の絞殺遺体が埋められていたことを発見。

    裁判


    1950年、
    裁判で4人とも無実を主張するも、静岡地裁は吉野(懲役1年)を除く3人に死刑判決。

    1951年
    東京高裁は4人の控訴を棄却。

    1957年
    最高裁で重大な事実誤認の疑いがあるとして、東京高裁に差し戻し。
    1959年
    4人全員に無罪判決(この後まもなく吉野が病死)。

    1963年
    検察の上告が棄却。4人の無罪確定。

    拷問による自白


    警察の取り調べで、4人に焼火箸で手や耳に押し付けるなど拷問をしたり、白紙の紙に刑事が自供を書いて彼らに無理やり承諾させて、さも4人から自供を聴取していたかのように装っていたりするなど、デッチ上げを行っていた。
    4人を無罪に導いた最たるものは、秘密の暴露であるはずの遺体遺棄場所に発掘前に印がついていたことが判明し、あらかじめ警察は場所を知っていた疑いが濃厚となったからである。
    このデッチ上げを率先して行ったのが、静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補であることが後年、指摘されている。後の二俣事件や小島事件といった冤罪事件にも彼が関与している。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1950年
    【#47】財田川事件
    財田川事件(さいたがわじけん)は、1950年(昭和25年)2月28日に起きた強盗殺人(刺殺)事件とそれに伴った冤罪事件である。なお、地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で「財田川よ、心あれば真実を教えて欲しい」と表現したことである。

    冤罪被害者 谷口繁義さん
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    概要


    1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現三豊市)で、闇米ブローカーの杉山重雄さん(当時63歳)が全身30箇所を刃物でめった刺しにされて殺害され、現金1万3000円を奪われた。
    同年4月1日、隣町の三豊郡神田村(こうだむら)で2人組による強盗事件が発生した。その事件の犯人として谷口繁義(当時19歳)ともう1人が逮捕された。この2人は『財田の鬼』と近隣で嫌がられていた不良組だった。警察はこの2人を殺人の容疑で取り調べた。
    もう1人はアリバイが証明され釈放となったが、谷口はアリバイ成立に疑惑が残ったため、約2ヶ月に渡って厳しい拷問による取調べの結果、自白の強要により、8月23日、起訴された。


    裁判


    1950年11月6日
    高松地方裁判所丸亀支部で第一回の公判が行われた。裁判で谷口はアリバイと拷問による自白だと強く主張し、冤罪であると訴えた。これに対し検察側は、取調べ中にまったく出ていなかった、谷口が犯行時に着用したとする国防色ズボンに微量ではあるが杉山さんと同じO型の血痕が付着しているという物的証拠があり有罪であると主張した。
    この血痕鑑定は、当時日本の法医学の権威であると賞賛されていた古畑種基東京大学教授による鑑定であったが、後に実際の検査は古畑教授の門下生の大学院生が行っていたことが判明した。後にこの物的証拠は弁護側からAの衣類押収の際に捏造されたものと主張したが、後述のように多くの証拠品が破棄されているため、真実は不明だが捏造が事実であったとの疑いがある。

    1952年2月20日
    この物的証拠と捜査段階での自白が信用できるとして、高松地方裁判所丸亀支部は死刑判決。谷口は控訴。

    1956年6月8日
    高松高等裁判所で控訴を棄却。

    1957年1月22日
    最高裁判所も上告を棄却し、谷口の死刑判決が確定。

    後に問題とされたのは、素行不良との風評から地元において犯人との噂話があったことを根拠に、農協強盗事件で起訴された谷口を起訴後に勾留したうえ、さらに別件逮捕するなど長期勾留を継続したことと、そして代用監獄による警察施設での食事を含む24時間の過酷な管理下におき、精神的肉体的限界のもとで自白を迫ったことなど捜査機関の行き過ぎた取調べである。また検察側もこのような不適切な違法捜査を是認したばかりか、上塗りすら行ったという。また裁判所も当時の法医学の権威であった古畑教授の鑑定を安易に信用した過失があった。なお古畑教授の鑑定で有罪となり後に真犯人が判明し冤罪が確定した弘前大学教授夫人殺人事件も再審で『シャツの血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造である』と判断していたことから、現在の血痕鑑定では血痕そのものだけでなく、どのようにして血痕が付着したかについても鑑定が行われるようになっている。

    再審請求


    死刑が確定した後、谷口は大阪拘置所に移送された。これは四国の行刑施設に死刑設備(絞首台)がなかったための措置である。
    1969年、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して恩赦検討開始。大阪拘置所では、谷口のほかに放火殺人で死刑確定となったYHの合計2人が検討されたが、結局、恩赦を受けたのはYHのみだった。
    その後法務省刑事局は、谷口の死刑執行に向けて法務大臣に提出する死刑執行起案書を作成するために必要となる、裁判に提出しなかった記録を送付するように高松地方検察庁丸亀支部に対して命令した。しかし、高松地検は記録を紛失(破棄した疑惑もある)したため、法務大臣への稟議書が出せず死刑執行手続きが法的に不可能になった。そのため、Aの処刑は無期限延期の状態となった。

    一方、谷口は1964年(昭和39年)に「3年前の新聞記事によれば古い血液で男女を識別する技術が開発されたとあるが、自分は無実であるからズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と記した手紙を高松地裁に差し出した。その手紙は最高裁判決から12年後の1969年(昭和44年)、高松地裁丸亀支部長であった矢野伊吉裁判長によって5年ぶりに発見された。
    矢野は疑わしく思える部分から再審の手続きを済ませ、再審に乗り出したが、開始直前に反対運動が起こり、「手紙ごときで再審はおかしい、引っ込め」などの暴言をうけた。矢野は裁判長を辞め、弁護士として再出発し、谷口の弁護人となって新たに再審請求した。

    不可解な点


    矢野によれば事件には以下のような不可解な点があったという。事件の捜査を行ったのは元特別高等警察出身の警察官達であったが、同じメンバーが担当した「榎井村事件」も1994年に再審無罪になっている。
    長期勾留と拷問による自白強要(このような自白強要は現在の刑事訴訟法では排除法則によって真実であっても証拠にならない)

    ・自白調書が捜査機関によって不正作成されている
    ・犯行を告白した手記が偽造されている(谷口は尋常小学校卒で漢字が殆ど書けず作文能力が稚拙だったのに、ある程度まとまった文章でかかれている。そのうえ作為的な文法ミスがある)
    ・物的証拠を捏造している
    ・高松地検丸亀支部による公判不提出捜査記録の破棄(そのため死刑手続自体が不可能になった)
    ・弟と一緒に就寝していたというアリバイが成立する(親族による証言のため採用されなかった)

    無罪


    1976年10月12日
    最高裁は谷口の自白に矛盾があるとする「3つの疑問と5つの留意点」を指摘して高松地裁に差し戻し。

    1979年6月7日
    高松地裁は再審開始を決定。

    1981年3月14日
    検察側の即時抗告を棄却したため再審開始。
    再審の公判では谷口は改めて拷問による自白を訴え、矢野は谷口の自白と現場検証の矛盾を突いた。また、地裁で出廷していた東大の教授が科学の進歩によりこれまで解明できなかった血痕に関して、谷口の衣類に別の血痕が混じっており、警察・検察がばら撒いたことを示唆した。また捜査機関による自白調書の信用性に対する疑問も主張した。

    1984年3月12日
    高松地裁は、被告人の自白には真実ではないとの疑いがある上、唯一の物的証拠であるズボンも事件当日に着用していた証拠はないとして、本事件と被告人とを結び付けえる証拠は存在しないとして、無罪を言い渡された。

    しかし矢野は谷口の無罪判決を聞くことなく1983年(昭和58年)3月に他界(享年71)していた。なおAは獄中生活34年目にして無罪放免された。その後、谷口は2005年(平成17年)7月26日に病死(享年74)した。
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