あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/05/29(土)   CATEGORY: 1981年
    【#62】新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件
    新宿歌舞伎町ラブホテル連続殺人事件(しんじゅくかぶきちょうラブホテルれんぞくさつじんじけん)は、1981年(昭和56年)3月から6月にかけて、東京都新宿区歌舞伎町2丁目のそれぞれ別のラブホテルで3人の女性が殺害された、連続殺人事件である(#事件の共通項も参照)。
    歌舞伎町ラブホテル殺人事件、新宿ラブホテル殺人事件、ラブホテル殺人事件とも言う。

    第一の事件


    1981年3月20日午前10時頃、ホテルAで発覚。
    発覚までの流れ
    男女2人でチェックイン。
    男が先に出る。
    チェックアウトの時間が迫っているのに、その様子もなく、内線電話にも応対しない。
    不審に思った従業員が部屋を覗いたところ、中年女性の絞殺死体があるのを発見。
    捜査
    部屋にあった名刺から、歌舞伎町のキャバレーに勤めていた33歳のホステスと身元が判明した。
    しかし、彼女のアパートを捜査したところ、名刺の名前は偽名であった。また、年齢も45歳であり、12歳もサバを読んでいたことが判明した。
    彼女は、夫と子供が相次いで亡くなる少し前に家出し、歌舞伎町のキャバレーに勤めるようになっていた。
    チェックインした男が、キャバレーの客だったかどうかは判明せず。

    第二の事件


    1981年4月25日午後10時頃、ホテルBで発覚。
    発覚までの流れ
    同日の午後9時頃、男女一緒にチェックイン。
    男が、利用料も払わずに先に帰る。
    不審に思った従業員が部屋に入ったところ、20歳前後の女性が、パンティストッキングで絞殺されているのを発見した。着衣は浴衣のみだった。
    捜査
    遺留品は、イヤリング、サンダル、タバコ、ライターしかなく、身元を示すようなものは一切残されていなかった(男が持ち去ったものと思われる)。
    新宿警察署で彼女の似顔絵を作成・公開し、「身近に心当たりは…」というキャッチコピーのポスターで全国の警察機関などに貼り出されたが、身元は判明せず。
    被害者の特徴
    肺がきれいだった(「地方から上京して、間もなく殺害された」と推察される)。
    腋に腋臭の手術痕があった。
    歯の状況があまり良くなかった(虫歯が多かった)。

    第三の事件


    1981年6月14日午後7時40分頃、ホテルCで発覚。
    発覚までの流れ
    同日の午後6時30分頃、男女一緒にチェックイン。
    男だけが先に帰った
    不審に思った従業員が部屋を覗くと、全裸の若い女性が首にパンティストッキングを巻き付けられた状態で横たわっていたのを発見した。
    この時点では仮死状態だった。すぐに病院に運んだが、間もなく死亡した。
    捜査、報道
    被害者の身元は、埼玉県川口市在住の17歳の女子工員であることが判明した(部屋に残されていた、「図書館で借りた本」などから判明)。
    解剖の結果、遺体の胃からはコーヒーが200cc検出された。そのため、「歌舞伎町の喫茶店で容疑者と落ち合った後、ホテルCに行ったもの」と思われる。
    この点から、彼女は売春をしていた可能性も考えられる。
    この事件が起きるまでは、「東京地域の事件」として扱われてきた。3度も同じような事件が続いたことから、東京以外の地方紙でも連続殺人事件として報じられるようになり、週刊誌などでも取り上げられるようになった。

    第四の事件(殺人未遂)


    1981年6月27日付朝日新聞(東京本社版)朝刊による。
    発生日時は6月25日午後11時頃。被害者は、30歳(当時)のホステス。ホテルDで、一緒にチェックインした男に首を締められた。抵抗したところ、男は彼女の財布から現金を奪い、利用料も払わずに逃げ去った。彼女は、ゲームセンターに一人でいたところ、この男に誘われて一緒にホテルに行き、被害に遭ったという。
    「前記の3件も、同じような形で展開されたのではないか?」ということが、このことから推察される。殺人未遂事件だったこともあってか、この事件はその後全く顧みられることはなかった。なお、ホテルDはホテルCのすぐ近くにある。

    事件の共通項


    この事件は連続殺人事件とされているが、犯人が同一人物であったかどうかは不明である。
    プライバシーへの配慮から「監視カメラがホテル内に全く設置されていなかった」ことや、従業員の記憶が曖昧だったせいもあるのか、「容疑者の似顔絵が作成・公開されていない」ことが大きい。
    しかし、事件には以下に挙げる共通項が存在する(ただし、全ての事件に当てはまるわけではない)。
    殺害された3人から覚醒剤が検出されたこと。注射痕はないことから、口(鼻)から飲用したものと思われる。容疑者が飲ませたかどうかは分からない。
    第一被害者と第三被害者は売春をしていた可能性があること。また、売春をしていなかったとしても、第四の事件のように、「歌舞伎町に一人でいたところを、言葉巧みに誘われた」ということも考えられる。
    第二の事件と第三の事件は、パンティストッキングで絞殺していること。また、第三の事件と第四の事件は、首の絞め方が酷似していること。
    容疑者の特徴がよく似ていること。第一の事件は「若い男性」、第二の事件は「サラリーマン風の男性」、第三の事件と第四の事件は「身長160cm台の30代のサラリーマン風の男性」とされている。
    相反する点
    第二の事件は「被害者の身元が判かるような物は、全て持ち帰った」のに対し、第一の事件と第三の事件は身元が判かるような物を残していること。
    「曜日や間隔に規則性がない」こと、「同じような場所で4件も事件を起こしている(大胆すぎる)」ことから、「容疑者は同一ではないのではないか?」という見方もある。

    話題性


    「同じ地域のラブホテルで、連続して女性が殺害された」ことから、当時は世間を騒がせたが、直後に大事件・大事故が相次いだ[1] こと、「容疑者や、第二被害者の身元が判明しない」など、事件に進展がなかったことや、同様の事件が同じ歌舞伎町で起き[2] 、「そういう事件が珍しくなくなった」ことなどから、すぐに忘れ去られてしまった。捜査本部も1年を経ずして縮小されている。
    1996年3月から6月に、相次いで公訴時効が成立しているが、そのことは全くといって良いほど報じられることはなかった。時々、「時代を象徴する事件」として書籍で取り上げられる程度である。
    第二被害者の似顔絵は、テレビのワイドショーの公開捜査コーナーなど[3]で扱われたことはあったが、それも事件発生後の数年間だけのことであり、その後は新たなポスターなどは作られていない。身元不明のままであるが、「たとえ身元が判明しても」事件解決にはつながらないこと」や、「肉親が放任状態にしていたこと」、「家出同然で上京したこと」、「たとえ名乗り出なくても罪にはならないこと」などから名乗り出がないものと推察される。

    事件の影響


    この事件が発生するまで、ラブホテルは前記の通り「利用者のプライバシーを重視するため、監視カメラを設置しない」でいた。その後も、歌舞伎町だけでなく、各地で類似した事件が起きたことなどから、監視カメラを設置するようになった。
    「新宿歌舞伎町ディスコナンパ殺傷事件」と併せて、全国的に「歌舞伎町は怖い町である」という印象を与えることになった。せがわきり[4]のエッセイ「新宿キッズ」に、ラジオ番組のDJが「歌舞伎町は何が起こるか分からない町だから、気を付けましょう」と言っていたのを聴いた、という記述がある。なお、せがわきりの初の児童文学作品である「夏のむこうへ」は、この歌舞伎町を舞台にしている。

    備考


    フィクション
    『北帰行殺人事件』(1981年
    西村京太郎の長編推理小説。第二の事件と酷似した事件が記されている箇所がある。
    『特捜最前線』第484話「鉢植の墓標・風俗ギャル殺人事件!」(1986年9月25日放送)
    第二の事件と似たエピソードとなっている(偽名で過去が不明の売春婦の死体、覚せい剤など)。
    報道
    『素敵にドキュメント』(テレビ朝日系、1989年11月24日放送)
    同日の終盤部分で、逸見政孝(司会者)が「東京都の行旅死亡人の遺骨を納めた施設(正式名称不明)をレポート」した。
    逸見は小さなマンホールの蓋を開け、「ここには8年前、世間を騒がせたラブホテル殺人事件の身元不明の被害者の遺骨も入っています」と紹介している。
    東京福祉会に預けられた場合は死後5年経過時に合ひされる
    しかし、「私の家族ではないか?」と名乗り出てくる可能性があり、更に公訴時効が成立していない時期
    [5]に、他の遺骨と一緒にすることはあり得ないはずである。
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    DATE: 2010/05/29(土)   CATEGORY: 1996年
    【#61】ジョンベネ殺害事件
    ジョンベネ殺害事件(-さつがいじけん)はアメリカのコロラド州、ボルダーでジョンベネ・パトリシア・ラムジー(JonBenét Patricia Ramsey、1990年8月6日 - 1996年12月26日)当時6歳の少女が誘拐され、1996年12月26日に自宅地下から遺体が発見された事件。

    概要


    被害者が美少女コンテストの常連であったことが大きく報道され、警察が家族犯行説を取ったことで家族から協力が得られず、捜査が難航した。母親のパトリシア(パッツィー)は元ミス・ウェストバージニア、娘のジョンベネを自身では叶えられなかったミス・アメリカにさせるのが夢で、美少女コンテストに積極的に参加させていた。ジョンベネは4歳の時に整形手術をしている。父親のジョン(後妻パトリシアとの間にもうけた息子はジョンの長男(ジョンベネの兄)と紹介する番組もあるが、パトリシアにとっての長男であり、ジョンには先妻との間に3人の息子をもうけている為、誤りである)は会社経営をしており、家は部屋数が15もある豪邸で大変裕福な家庭であった。

    事件


    1996年12月25日の夜、ジョンベネとその家族は友人らとクリスマスパーティーに出席、一家はパーティーが終わると自宅へ戻り、ジョンベネはすでに車の中で眠ってしまっていたため、父親が抱きかかえてベッドに連れて行った。
    翌26日の朝、ボルダー警察署にジョンベネの母親から「ジョンベネが誘拐された」との内容の電話があり、捜査本部が設置された。
    階段に犯人から手紙がきていたと、父親は捜査官などに手紙を見せたところ、手紙は手書きで合計3枚で、ジョンベネ宅にあった黄色いメモ用紙に書かれていた。手紙には「警察には連絡するな。午前8時から10時ごろ連絡する。警察に連絡したらおしまいだ。金を用意しろ」などと書かれていた。母親は警察に通報。
    また、なぜか犯人は自宅内にあった懐中電灯の電池の指紋まで拭き取っていた。家の中を捜索したが、地下室の一部屋だけが忘れられていた。
    脅迫状の10時を過ぎても犯人からは連絡はなかった。再度家中を探しなおした結果、前に探さなかった地下室の部屋でジョンベネの遺体が発見され、ただちに検死解剖がおこなわれた。ジョンベネの遺体には、口はガムテープで塞がれ、首に紐で縛った痕、頭部に打撲傷があり、手のひらにはハートマークが書いてあった。

    事件後の経過


    捜査の結果、家の塀には足を引きずった跡なども見つかり、検死解剖の結果、性的暴行を受けていたことなども判明、また、脅迫状には“金を用意しろ”と書かれていたが、捜査官は性的暴行だけが目的で誤って殺害されたとの見解を示している。
    身代金11万8000ドルという数字は、父親ジョンがその時期受けとったボーナスの額と全く同額で、ラムジー家に精通している者の犯行を強く示唆していた。
    また、事件から数ヵ月後にはジョンベネと同じダンス教室でダンスを習っていた別の少女、エミリーが何者かに誘拐されそうになっている。
    母親のパッツィーは1993年に癌の診断を受け、その後回復に向かったものの2002年に再発。2006年6月、卵巣癌のため死去した。
    その後、2006年8月16日、タイ・バンコクで元教師の米国人男性が容疑者として逮捕された。逮捕後、男性はコロラド州に移送され、DNA鑑定が行なわれたが、結果不一致であることが判明。事件は振り出しに戻った。
    2008年7月9日、新たに行われたDNA鑑定により、ジョンベネの家族の潔白が改めて証明される事になった。ジョンベネの衣類などから採取されていた男のDNAが、家族の誰のものとも一致しなかった為である。しかし、当初の報道のセンセーショナルさはあまりに強烈であり、現在でもこれを信じ、家族の犯行であると頑なに主張している者も少なくない 。
    なお日本では、容疑者逮捕の初期報道において、日本テレビやスポーツ報知などが、「DNA鑑定はすでに行なわれており、容疑者のものと一致した」という内容の誤報を流している。
    今回の事件では警察は「現場維持」を怠ったため、ジョンベネについたとされる多くの証拠が遺族の涙などで台無しになってしまった。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1968年
    【#60】首都圏女性連続殺人事件
    首都圏女性連続殺人事件(しゅとけんじょせいれんぞくさつじんじけん)とは1968年から1974年にかけて首都圏で発生した連続女性暴行殺人事件。

    概要


    1968年から1974年にかけて千葉県埼玉県東京都で連続女性暴行殺人事件が発生。内容は1人暮らしの女性が深夜、強姦されたうえで殺害されるという事件が11件起こっていた。被害者の大半は20代で、現場に残されていた加害者とされる血液型がO型の事件が多かったこと、殺害方法は暴行焼殺9件、暴行穴埋め2件と、同一犯によるものという見方が強かった。
    その内、いくつかの事件現場で目撃情報があったこと、14回もある逮捕歴に放火や暴行の前科があったこと、血液型O型だった小野悦男が松戸市の1殺人事件で、逮捕・起訴された。他の事件でも小野悦男と結びつける状況証拠があったことで、マスコミが首都圏女性連続殺人事件の犯人視扱いにする報道を展開した。ただ、加害者の血液型はO型ではない事件もあり、狙われた女性も年代にもばらつきがあるため、首都圏女性連続殺人事件の11件全てを「同一犯によるもの」とまとめるのは疑問が残っていた。実際に葛飾区の1事件で小野悦男とは別の人間が真犯人と判明して解決している。
    裁判では捜査機関が自白強要したことが問題視され、小野悦男は無罪となった。

    一連の事件


    1968年7月13日、足立区の空き地で26歳のOLが暴行の上、焼殺された。事件の数日後、小野悦男が犯人だと密告電話が入るも、物証がないため逮捕断念。
    1973年1月26日、北区のアパートで就寝中の22歳のOLが絞殺され放火。事件発生2日前に事件現場近くを深夜、バールを持って歩いていた小野悦男が検挙された。
    同年2月13日、杉並区のアパートで放火事件。67歳の女性と22歳の男性焼死。
    1974年6月25日、松戸市在住の30歳の主婦が失踪。8月10日に同市内の造成地で絞殺体で発見。
    同年7月3日、千葉県松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された(#松戸OL殺人事件)。
    同年7月10日、松戸市内のアパートで21歳の教師が暴行の上、焼殺された。現場近くで小野悦男が目撃された。その後、小野悦男が殺人罪で立件された。
    同年7月14日、葛飾区で48歳の料理店経営女性と58歳の店員女性が暴行された上、焼殺。後年、別の犯人が逮捕されて解決した唯一の事件。
    同年7月24日、草加市内のアパートで22歳の薬局店店員女性が暴行されて放火。東武伊勢崎線草加駅の始発電車に小野悦男に似た男性を駅員が目撃。しかも7月1日に小野悦男は現場の向かいのアパートに暴行目的で女性の部屋に侵入するも、騒がれて逃走していた。
    同年8月6日、足立区内にある42歳の会社員男性宅に侵入して、24歳のOLが暴行された上、焼殺。小野悦男によく似た男が現場から逃走する姿が目撃されている。また小野悦男は1年前に会社員宅に侵入していたことが判明。
    同年8月9日、志木市内のアパートで21歳のOLが暴行の上、焼殺された。犯人の血液型がA型またはAB型であり、小野悦男と同じO型でないことが判明。


    松戸OL殺人事件


    1974年7月3日、千葉県松戸市の信金OL(19歳女性)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された。
    首都圏連続女性暴行殺人事件が発生していたが、どれも犯人を確定する物証が乏しく、多くの事件で目撃情報などが寄せられていた足立区の小野悦男(当時38歳)のほかに、数百人の人間がリストアップされていた。
    同年7月10日に事件現場の付近で発生した女性暴行未遂事件現場から発見された足跡の一致、信金OLの遺体から検出された犯人の血液型がO型だったことから、小野悦男を犯人と特定、9月12日に窃盗の別件逮捕に踏み切り、殺人容疑で再逮捕する。殺人容疑逮捕時、マスコミが連続女性暴行殺人事件の犯人であると誤報。その後、検察が殺人事件としては松戸事件の1件しか起訴されなくても、連続女性殺人事件の犯人であるかのような報道を続けた。これが後の冤罪支援運動の火種となる。
    逮捕後、物証能力に乏しいと判断した地検はいったん小野悦男を釈放するも、警察は小野悦男の自白によって被害者の所有物が発見できたことや、犯人と小野悦男の類似性(血液型や毛髪など)を強調して再逮捕。1975年3月12日、小野悦男を信金OL殺人で起訴。この起訴と時を同じくして、小野悦男の冤罪支援運動のため文化人、宗教関係者、弁護士らが「小野悦男さん救援会」を結成。小野悦男の弁護人を担当した野崎研二は代用監獄など自白の信用性そのものを突き崩す弁護戦略を行った。
    1986年9月4日、千葉地裁松戸支部で無期懲役判決。
    1991年4月23日、東京高裁で松戸市の殺人事件において、自白に信用性が乏しいと無罪判決を言い渡し、松戸市殺人事件の無罪が確定した。別件の窃盗罪と婦女暴行で懲役6年判決が出ていたが、未決勾留日数が参入されたため刑務所に服役することはなかった。16年ぶりの釈放であった。未決拘置期間6068日のうち別件で有罪となった6年を差し引いた3871日を対象として総額約3650万円が小野に支給された。

    その後


    1991年に無罪が確定した小野悦男は代用監獄や自白偏重捜査を批判する冤罪のヒーローとして冤罪被害の集会などで講演をしていたが、1992年に窃盗を働いたため2年間服役した。出所後の1996年に足立区首なし女性焼殺事件で41歳女性を殺した殺人犯として逮捕された。松戸事件とは違い決定的な証拠を警察から突きつけられたため、小野悦男は犯行を認め、1999年に裁判で無期懲役が確定した。

    連続女性殺人事件の真相


    首都圏女性連続事件に関しては、後に1件だけ犯人が逮捕されて解決するも、他10事件は全て公訴時効を迎えて未解決事件となった。
    小野悦男が1996年の足立区の殺人事件の犯人と判明して以降、殺人罪で立件された松戸事件を初め、他の首都圏女性連続殺人事件も小野悦男が関与した事件もあったのではないかという疑念が再度浮上した。立件された松戸事件の犯人については、小野の自供によって被害者の遺留品が発見されたため犯人しか知りえない秘密の暴露に該当するため小野悦男が犯人であるとするか、警察があらかじめ発見した遺留品を小野に拷問で自白をした後で発見された証拠であり警察の捏造した証拠を持って小野悦男が犯人ではないとするかで、意見が分かれている。なお足立区の殺人事件が発覚後、松戸事件の小野の弁護人だった野崎は「弁護人としては当時口が裂けても言えなかったが、(松戸事件の)一審の途中から小野を疑い始めていた」と告白している。
    小野悦男自身は足立区の殺人事件の犯人と判明して以降も、松戸事件を含めた首都圏女性連続殺人事件に関与していないと無実を主張している。
    なお、松戸事件は仮に時効がなかったとしても、一事不再理という刑事原則により、小野悦男に対して刑事事件で再審理は行うことができない。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1984年
    【#59】自由民主党本部放火襲撃事件
    自由民主党本部放火襲撃事件(じゆうみんしゅとうほんぶほうかしゅうげきじけん)とは、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)の地下軍事組織である「人民革命軍」が、火炎放射車によって自由民主党の本部ビルに放火した事件である。

    概要


    1984年9月19日午後7時半ごろ、東京都千代田区永田町にある自民党本部裏の中華料理店駐車場に2台の小型トラックが停車した。このトラックは某宅急便会社の配達車に偽造しており、30歳前後の運転手の男が店員に「お届けに参りました。印鑑をお願いします」といわれ、店員が奥に印鑑を取りに行っている間に、トラックの荷台から火炎放射器が自民党本部北側3階に向けて火炎放射した。犯人らはライトバンで逃走し、その後車ごと作業服とともに焼き捨てる証拠隠滅を図っていた。
    止められていた偽造ナンバープレートのトラックの荷台には火炎放射器が隠されており、プロパンガスの入った高圧ガスの圧搾空気が可燃性の液体を噴射し、それに着火した火炎が自在に角度を変えることができるシステムになっていた。この火炎放射器によって発生した火災により、自民党本部の北側3階から7階が類焼し、党事務局や会議室など約520平方mが焼失した。
    折しも、自民党総裁選挙を控えており、2階にあった自民党党員の選挙人名簿などの書類を搬出するために党所属の国会議員まで駆け付けるなど騒然とした。被害額は10億円にも及んだ。なお自民党本部へは火炎瓶が投げ込まれたり、発火装置を玄関に置かれたことはあったが、放火されたのははじめてであった。
    この事件現場で、法務大臣の住栄作が、消火活動に当たっていた衆議院議員の浜田幸一を見て、「マッチポンプな真似しやがって」と発言し、その場で浜田に殴打された(法相殴打事件)。後日、住は浜田に不明を詫びたという。

    犯人グループ


    事件直後に一部報道機関に「救国霊団」を名乗る男から「戦後ポツダム体制に対する報復である。昭和維新断行万歳」と新右翼のような電話があったが、これは偽装工作と見られている。また事件直後には警察無線を妨害する電波が付近に出されており、警察の連絡がつきにくかった。その後、報道機関に中核派を名乗る男から犯行声明が出されているため、警察は中核派の実働部隊である「人民革命軍」が自民党本部を放火襲撃したと断定した。事件の翌日午前には法政大学と横浜国立大学の構内で中核派が犯行を認めるビラをばら撒いていたことから、この事件への中核派の関与は確実であるとされた。
    犯行声明によれば、新東京国際空港(現・成田国際空港)の第2期工事阻止のための武装闘争であるとしており、用意周到に準備された犯行であった。なお中核派はその後も成田空港関連施設に対するテロを実行した。

    裁判


    犯行グループを中核派と断定し、捜査機関は中核派の根城になっている前進社など捜索したが、実行犯を割り出すことは難航した。被疑者として中核派活動家の男性F(逮捕時40歳)を1985年4月28日に逮捕し、一人を指名手配(逮捕できず)し、1987年1月に主犯としてY(逮捕時37歳)を逮捕したが、Yについては放火事件への関与を実証するだけの証拠を得られず処分保留で釈放[1]されている。
    Fは実行犯の逃走を手助けした放火の共謀共同正犯として起訴されたが、Fは事件当日のアリバイがあると無罪を主張し裁判は紛糾した。検察の冒頭陳述によれば、Fは実行犯の逃走を手助けし、火炎放射器製造の準備をしたと主張したが、具体的な役割を特定しなかった。これはFの自白が得られなかったこともあるが、検察が有罪とする証拠は前者は現場近くで警察官が逃走車とみられるライトバンの助手席にFを見たという目撃証言、後者は8月2日にFに似た男が大量の圧力調節器を購入していたという電気店の従業員の証言が、唯一の有罪証拠であった。それに対しFは事件当日は埼玉県で開催されていた学習会に出席しておりホテルに宿泊していたとして、ホテルの領収書と宿泊者名簿を証拠としていた。
    東京地方裁判所は、1991年2月になって放火という重大犯罪にもかかわらず保証金1500万円でFの保釈を認め[2]。、3月には検察側の抗告を退けた。その理由として「検察はFがいつどこでだれと放火を共謀したか十分実証していない」というものであった[3]。。
    検察はFに懲役10年を求刑したが、1991年6月27日に一審判決は無罪を言い渡した[4]。その理由として電気店の従業員の証言は信用できるが、購入した部品が犯行に使われたという証拠がなく、警官の証言は暗闇の中でFと認識できたのか疑問とした。その一方でFのアリバイを「不自然、不都合な点も少なくないが、虚偽とはいえない」として成立するとした。
    検察は「事実誤認」として控訴したが、二審の東京高等裁判所は1994年12月2日に自白も物証もなく、目撃証言で有罪とする事実認定はできないとして棄却[5]。し、検察は上告しなかった為12月16日にFの無罪は確定した[6]。そのため、中核派の関与は確実であるが、中華料理店の従業員に話しかけた人物以下の実行犯を特定することが出来ず、1999年に公訴時効が成立した。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2000年
    【#58】寂光院放火事件
    寂光院放火事件(じゃっこういんほうかじけん)とは、2000年5月に京都府京都市左京区大原にある天台宗の尼寺寂光院の本堂が、放火されて全焼した事件である。
    2007年5月に非現住建造物等放火罪の公訴時効(7年)を迎えた未解決事件

    概要


    2000年5月9日 未明、寂光院本堂から出火し全焼。全焼した本堂には人は住んでおらず、また西側の縁側からプラスチック製容器の燃えかすと灯油が検出されたことから、京都府警は放火と断定した。
    本堂に安置されていた重要文化財の木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代初期の作とされている)も焼損した。なお、この被災した木像は劣化を防ぐために3年がかりで樹脂を塗られ、収蔵庫に保管された上で、重要文化財指定も継続されている[1]。
    京都府警捜査1課と下鴨署の特別捜査班が、周辺住民や民宿の宿泊客、寺の関係者らへの聞き込み調査を続けて不審者約160人を抽出するものの、具体的な犯人像や犯行目的を絞りきれず、未明の山中の火災だったこともあり、有力な情報を得られないまま、公訴時効を迎えるに至った。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1949年
    【#57】下山事件
    下山事件(しもやまじけん)とは、連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
    事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、警察は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件とよばれる。

    概要


    1949年6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示。三越に到着したものの開店前だったため、一旦、東京駅前に戻って千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。
    普段、下山は午前9時前には国鉄本庁に出勤し、毎朝秘書が玄関に出迎えていた。失踪当日は、国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。翌7月6日午前0時30分過ぎに国鉄常磐線・北千住駅~綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見された。
    失踪後の足取り [編集]
    失踪後、下山総裁らしき人物は、まず三越店内で、次に営団地下鉄(現・東京地下鉄)銀座線の浅草行き列車内で目撃された。三越店内では、数名の男たちを伴っていたとの目撃証言もある。
    午後1時40分過ぎに、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広旅館」に滞在。午後6時頃から8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた[1]。

    ・生体轢断か死後轢断か
    下山総裁は、東武伊勢崎線ガード下の国鉄常磐線下り方面(水戸方面)線路上で、付近を零時20分頃に通過した下り貨物列車第869列車(D51 651号牽引)により轢断されたことが判明[2]。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「生活反応」が認められない事から、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師)。
    また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体及び轢断現場では血液が殆ど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部等の特定部位にのみ、内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられた事が予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。
    一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、既に現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応が僅かなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。
    更に慶應義塾大学の中舘久平教授が生体轢断を主張(ただし中館教授は下山総裁の遺体を実見していない)。自殺の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺の根拠となる「死後轢断」とするかで見解は対立。1949年(昭和24年)8月30日には古畑教授、中舘教授、小宮喬介(元名古屋医科大学教授)の三人の法医学者が衆議院法務委員会に参考人招致され、国会、法医学界を巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた[3]。
    朝日新聞記者・矢田喜美雄 [編集]
    朝日新聞記者矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁のワイシャツや下着、靴下に大量に油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった(当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある)ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に極めて不自然な事実のあることが次々と浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の監禁・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。
    加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近に僅かな血痕を認めたとの情報を入手。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施[4]。轢断地点から上り方面(上野方面)の枕木上に、僅かな血痕を発見した。
    その後、警視庁鑑識課を加えた上で改めてルミノール検証が行なわれ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れたが、さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された[5]。
    迷宮入り [編集]
    他殺とも自殺とも結論を出せないまま、1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年(昭和25年)には、捜査員が突然転任されるなどして大幅に規模を縮小、事実上捜査は打ち切られた。
    1949年(昭和24年)12月15日に、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に「文藝春秋」と「改造」誌上に掲載された。自殺と結論付ける内容となっているが、矢田喜美雄や松本清張などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。
    1964年7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。

    事件の時代背景と推理


    1949年(昭和24年)、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換した。まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
    同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた。
    他殺説 [編集]
    松本清張は『日本の黒い霧』を発表。アメリカ軍のCIC(Counter Intelligence Corps―防諜部隊)が事件に関わったと推理した。また下山事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では進駐軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版されている。
    朝日新聞記者の矢田喜美雄は、1973年(昭和48年)に、長年の取材の成果を『謀殺下山事件』にまとめ、取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする男に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。
    1999年『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載。その後、取材を共同で進めていた諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版。いずれも元陸軍軍属が設立した組織と亜細亜産業関係者による他殺と結論付けている。また下山の友人、知人等は「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである。」として他殺説を支持する者が多かった。
    他殺説の主張 [編集]
    下山はことあるごとに「鉄道の仕事に就けて幸せだ」と言っており、大好きな鉄道で命を断つ訳が無い。
    実直な下山が、遺書も残さずに死ぬ訳が無い(国鉄の同僚の島秀雄・加賀山らの説、安部譲二(父が知己)の説)。
    轢断面やその近辺の出血といった痕跡が無いのは、轢かれる前にすでに死んでいた事を意味する(東大・古畑説)。
    下山が事件前に立ち寄ったとされる旅館の主人は元特高警察官であり、証言は疑わしい。
    大量解雇を予定通り実行させようと下山に強要したGHQが、下山を拷問の末誤って殺してしまい、それを逆手に取って犯行を労組の仕業に仕立て上げたという説。轢いた列車の前の便は米軍専用列車であり、現場をまたぐ東武線も米軍が自由に使える状況にあった。
    自殺説 [編集]
    事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張。同紙記者平正一は取材記録を纏めた『生体れき断』1964年を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。
    1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は松川事件の被告として逮捕・起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)あるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。
    自殺説の主張 [編集]
    総裁になる以前の、運輸次官の段階から下山は辞めたいとこぼしていた。
    事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、しかしそれらの先々で用件を言うでも無く「嘆願や脅迫が自宅に来る」とこぼして涙ぐんだりするのみだった。他にも前日から当日朝(GHQより迫られた、解雇発表の期限)までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある(几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、弁当を食べずに持ち歩いて交通会館の無人の部屋で一人食べるなど)。
    鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血が無い事もある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器がメチャメチャに粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい(北大・錫谷説)。
    結果的には、警察やマスコミによる自殺説の発表はGHQにより差し止められ、労組による他殺と言う風説が流布されて、後の総選挙での共産党の躍進が阻止され、日本の共産化が阻止されたのだから、事案そのものは自殺であったとしても、謀略があった事に変わりはない。
    ルミノール検査は現場からロープ小屋までしか行われていない。当時の列車のトイレは垂れ流しなので、線路ならどこでも女性の経血で血痕が出来るという説もある。またロープ小屋は細長い建物で大部分は壁が無く、犯行には不適である。

    その他


    下山国鉄総裁追憶碑
    事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武伊勢崎線ガード下、国鉄常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や営団地下鉄千代田線敷設に伴う工事により場所を移動。現在は轢断地点より約150m東、西綾瀬1丁目付近のJR常磐線ガード下の道路西側脇にある。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、東京拘置所(旧小菅刑務所)方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切(通称五反野踏切)に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武伊勢崎線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。
    D51 651
    下山総裁を轢いたD51 651機関車は、1943年10月26日に死者110名、負傷者107名を出した常磐線土浦駅列車衝突事故を起こした車両でもある。
    東京都足立区立博物館所蔵下山事件関連資料
    警視庁の合同捜査会議の内部資料と考えられるガリ版刷り文書類。柴田哲孝著『完全版 下山事件-最後の証言-』にも紹介されている。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2009年
    【#56】島根女子大生死体遺棄事件
    島根女子大生死体遺棄事件(しまねじょしだいせいしたいいきじけん)とは、2009年(平成21年)11月に発覚した死体遺棄事件である。

    概要


    ・事件発覚
    2009年11月6日、広島県と島根県の県境に近い広島県北広島町の臥龍山山頂付近で、女性の頭部が発見された。DNA鑑定の結果、10月26日から行方不明になっていた19歳の女子大生と確認された。死亡時期は約1週間前から2週間前。広島県警・島根県警は合同捜査本部を設置して残りの遺体発見、容疑者特定などの捜査を開始。11月7日に左大腿骨の一部、11月8日に両手足の無い胴体部分、11月9日に左足首、11月19日に爪が発見された。
    11月30日、女子大生が利用していた帰宅ルートから遺留品と思われる黒いスニーカーが、片方だけ発見された。警察はこれより前に捜査を行っていたため、犯人が意図的に置いたものと推測された。

    ・遺体の状況
    遺体は無惨に損壊されていた。当初は動物による損壊と思われていたが、胸や太腿の部分は犯人によって損壊された可能性が高いという。子宮も切り取られていた。顔面の損傷も遺棄した際に何かにぶつけられてできたものと思われていたが、鈍器等で殴られた可能性があるとされる。

    ・難航する捜査
    捜査本部は女子大生の帰宅ルートで通行車両などに情報提供を求めたりした。被害者の女子大生は珍しいほどの純朴な女子学生で、香川県にある地元の商業高校を卒業後は、浜田市にある島根県立大学に進学し、学業でもアルバイトでも真面目で特定の異性交遊も皆無だった。またトラブルらしきものも皆無だったため、捜査は行き詰まりを見せた。
    2010年1月20日、島根県の浜田警察署に警察庁長官が視察に訪れ、訓示するという異例の事態が起こっている。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1954年
    【#55】島田事件
    島田事件(しまだじけん)とは1954年3月10日に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人殺人死体遺棄事件である。被告人が死刑の確定判決を受けたが再審で無罪になった冤罪事件。四大死刑冤罪事件の一つ。

    概要


    1954年3月10日、静岡県島田市の快林寺の境内にある幼稚園で卒業記念行事中に6歳の女児が行方不明になり、3月13日に女児は幼稚園から見て大井川の蓬莱橋を渡った対岸である大井川南側の山林で遺体で発見された。
    静岡県警の司法鑑定医師(後の静岡県警科学捜査研究所長)の鈴木完夫は司法解剖の結果、犯人が被害者の女児の首を絞めて被害者が仮死状態になった後、被害者に対する強姦の有無は不明だが性器に傷害を負わせ、その後に被害者の胸部を凶器不明のもので打撃して殺害したと鑑定した。
    被害者の女児を誘拐した犯人の目撃情報はいずれも、スーツを着てネクタイを締めて髪を7・3分けにした、会社員または公務員に見える若い男だった。警察は幼児・児童に対する性犯罪の前歴者、精神病歴者、知的障害者の捜査対象者として捜査したが被疑者を発見することも、被疑者を特定できる情報も発見できなかった。
    1954年5月24日、当時の岐阜県鵜沼町(現在の岐阜県各務原市)で静岡県警が捜査対象者としていた精神病歴者、知的障害者であり、所在不明で事情聴取されていなかった男性(当時25歳)が職務質問され、法的に正当な理由無く身柄を拘束され、島田警察署に護送された。
    警察は男性を窃盗の被疑事実で別件逮捕し、警察の尋問室の密室の中で拷問を行い、被害者の女児を性犯罪目的で誘拐し殺害したとの供述を強要した結果、男性に被害者の女児を誘拐し強姦して性器に傷害を負わせ、胸部を握り拳サイズの石で打撃した後、首を絞めて殺害したとの虚偽の供述をさせて供述調書を作成し、その旨を報道機関に公表した。

    男性の個人的状況


    男性は軽度の知能障害と精神病歴があり、二度の自殺未遂歴と二度の窃盗の前歴があり、一回目の窃盗の時は少年院に入院し、二回目の窃盗の時は刑務所で服役し1953年7月に出所した。男性は就職しても職場に溶け込めず、他者と適切な会話や意思疎通や人間関係を形成できず、仕事に適応できずに短期で離職する傾向があり、自宅に定住せずに放浪する傾向があった。

    裁判の経過・結果


    裁判では男性は捜査段階で「警察官に拷問され、虚偽の供述をさせられたが、自分はこの事件に関していかなる関与もしていない、無実である」と主張した。裁判は下記のとおりの経過・結果になった。
    地裁公判中に裁判官は東京大学教授の古畑種基に被害者の殺害方法について再鑑定を依頼し、古畑は被害者が強姦され胸部を打撃され首を絞められて殺害されたと、男性の供述調書に適合する鑑定結果を報告した。弁護人は東京都立松沢病院医師の鈴木喬と林に男性の精神鑑定を依頼し、鈴木と林の両医師は男性は軽度の知能障害があるが、心身喪失でも心神耗弱でもなく刑事責任能力はあるとの鑑定結果を報告した。
    裁判所は軽度の知能障害があり、精神病の前歴と放浪傾向がある男性が、捜査段階で犯行を供述していることに対して、公判で無実や犯行当時のアリバイを供述することは信用性が無いと判断した。
    1958年5月23日、静岡地裁は男性に死刑判決をした。
    1960年2月17日、東京高裁は控訴を棄却した。
    1960年12月5日、最高裁は上告を棄却し、男性の死刑判決が確定した。
    1986年5月30日、静岡地裁は男性と弁護人の第4次再審請求を棄却したが、抗告審の東京高裁は再審開始を決定し、審理を静岡地裁に差し戻した。
    1989年7月31日、再審の静岡地裁は無罪判決をした。
    1989年8月10日、検察官は控訴を断念し、逮捕から34年8ヶ月後、死刑判決確定から29年8ヶ月後に男性の無罪が確定した。
    再審では弁護人は被害者の殺害方法について東京医科歯科大学教授の太田伸一郎と上田政雄の両人に再鑑定を依頼し、両教授は古畑教授の鑑定結果に問題があり、捜査段階の鈴木医師の鑑定結果を支持する鑑定結果を報告した。
    無実の人が誤認で逮捕・起訴され、死刑判決が確定後に再審で無罪判決を受けた事例は免田事件、財田川事件、松山事件に続いて4件目であった。
    確定翌日の読売新聞1989年8月11日号ではこの無罪判決の記事が男性の公園で座る姿の写真入りでトップ記事に記載され、見出しは「35年振り自由の身」と打たれた。

    その他


    この事件では、男性の犯罪の証拠とされたものは上記の事件の犯行を認めた供述調書であり、事件への関与を証明する物証に乏しかった。
    男性に供述を強要して虚偽の供述をさせた調書の殺害方法は、鈴木医師が被害者を司法解剖して鑑定した結果と異なっている。複数人の目撃証言が一致する、被害女児を誘拐して犯人と推測される男の人相・体格と、男性の人相・体格は著しく異なっているが警察は無視した。
    男性は結果として再審による無罪判決は得たが、34年8ヶ月間の身柄拘束され29年8ヶ月は死刑囚として暮らす生活を送った。
    無実の男性を犯人視して以降はそれ以外の捜査を行わなかったので、殺害事件の真犯人を探し出すことはできなかった。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1996年
    【#54】柴又女子大生放火殺人事件
    柴又女子大生放火殺人事件(しばまたじょしだいせいほうかさつじんじけん)とは1996年9月9日に東京都葛飾区柴又で発生した殺人事件。被害者の女子大生は2日後に海外留学を控えており、直前の惨劇であった。2010年4月現在で未解決。
    捜査特別報奨金制度(公的懸賞金制度)対象事件である。

    概要


    1996年9月9日午後4時半ごろ、東京都葛飾区柴又3丁目の民家より火災が発生。約2時間後に消し止められ、焼け跡から上智大学4年生の女性A子さん(当時21歳)の遺体が発見された。遺体は口と両手を粘着テープで、両足をパンティーストッキングで縛られており、首を鋭利な刃物で刺されていたことから警察は殺人事件と断定。現場の状況や交友関係などから、顔見知りの犯行と思われたが、2010年4月現在も犯人逮捕に至っていない。
    事件から10年経った2006年9月に、両足の縛り方が「からげ結び」という造園業(造園業では「からげ結び」を「かがり結び」とも呼ばれる)や和服の着付けなどで使われる特殊な方法だったこと、現場に残されたマッチ箱の残留物から家族以外のDNAが発見されたことが公開された。

    月曜日の夕方、45分内の凶行


    1996年9月9日(月)この日は朝から雨が降ったりやんだりしていたが、昼過ぎから強く降り出し始め、15:00時過ぎにはさらに激しくなっていた。父親は福島に出張中、姉も仕事でおらず、家には母親と被害者A子さんの二人きりだった。15:50少し前にA子さんがトイレに行くために自室から一階に降りてきた。仕事に出かける準備をしている母親に「こんなに雨が降っていても自転車ででかけるの?」と話す。この会話が最後の会話になった。
    15:50-母親が仕事のために家を出る、この時玄関に鍵はかけなかった
    16:15頃-近所の通行人によると火は出ていなかった
    16:35-出火
    16:39-隣家から119番通報
    18:00頃-内部が全焼、ようやく火が消し止められる
    消防隊員が2階でA子さんを発見、直ちに病院に搬送され死亡が確認された。

    被害者と室内の様子


    A子さんは2階の両親の寝室で父親の布団の上で横向きに寝かされ、夏用の掛け布団を頭からかぶせられていた。布団の左右の端は体の下に挟み込まれていた。
    A子さんは首を右側に集中して6か所刺されて出血多量で死んでいた。
    口には粘着テープが貼られていた。
    両腕も粘着テープで縛られていた。かなり抵抗したとみられる傷が手に数か所あり、その上から粘着テープが巻かれていたので両手は殺害後に縛られたと見られている。
    両足はストッキングでからげ結びに結ばれていた。からげ結びは造園、足場組み立て、和服着付け、舞台衣装、古紙回収、電気工事、土木関係などの業種で用いる。
    着衣の乱れはなかった。
    気管にすすが付いていなかったことから殺害後に放火したとみられる。
    仏壇のマッチで1階東側の6畳和室の押入れに放火されていた。
    1階のパソコンにも火がつけられていた。
    父親が普段使用しているスリッパが2階に揃えて残されていた。

    凶器


    刃物-小型ナイフのような鋭利な刃物で約8センチ、刃幅約3センチとみられる。まだ見つかっていない。
    粘着テープ-外部から持ち込まれ使用された。

    遺留品


    複数の犬に囲まれる生活?
    犯人が持ち込んで使用した粘着テープに三種類の犬の毛が付着していたことが2009年1月に判明した。A子さん宅は一度も犬を飼ったことがなく、捜査本部は犯人が複数の犬に囲まれる生活をしていた可能性が高いとみている。
    血液型はA型
    2階にある仏壇の近くにあったマッチ箱が1階玄関付近に落ちていたが、そこからA型の血液が採取されている。被害者も含め家族にA型の人間はいない。マッチ箱は犯人が火を付ける際、使用したとみられる。

    見えない動機


    粘着テープが持ち込まれていたことから計画性がうかがえるが、人目に付く時間帯の犯行などから様々な説が流れている。
    顔見知り説 [編集]
    父親のスリッパが2階にあったことから、顔見知りの人間を家に招き入れた可能性がある。
    犯行が人目につきやすい夕方に短時間で行われている。
    遺体上半身に頭から夏用の薄い掛け布団が掛かけられていた。
    ストーカー説 [編集]
    留学の2日前に起きた犯行から考えられるが、暴行された形跡がない。
    事件発生約10日前の96年8月末、午前0時頃、送別会からの帰宅途中、男に後を付けられたため駅まで戻った。
    強盗説 [編集]
    引き出しが荒らされ1万円が無くなっていたが、洋服ダンス内の預金通帳、留学のためのリュックサックにあったトラベラーズチェックや現金など13,4万は手つかずだった。

    家からなくなったもの


    旧1万円札(86年まで発行された聖徳太子の肖像入りの紙幣)-父親が1階居間の戸棚の引き出しに1枚だけ保管していた。現場検証で、戸棚の引き出しに物色された跡があり、その紙幣だけが見つからなかった。 

    現場近くで見られた不審者


    事件当日の午後4時30分から40分頃。雨の中を傘も差さず、現場付近から駅の方面へ走って行った20~30代の「逃走男」
    午後4時頃。道路に立って被害者宅の様子を窺っていた40代の「覗き男」
    午後4時頃。被害者宅の南側で自転車を乗り回していた30代前半の「自転車男」
    午後1時頃。被害者宅付近で主婦を尾行し、家の前でライターをいじくり、体操をしていた40歳前後の「体操男」
    午前9時から午後3時までの6時間、金町公園周辺をうろついていた「白い手袋の男」
    事件の数時間前、京成高砂駅で「柴又3丁目はどこですか?」と道を尋ねていた「高砂の男」
    事件前日の8日、午前5時頃。被害者宅近くの掲示板付近で「ふざけんな! ブッ殺すぞ!」と叫び、軍歌を歌いながら自転車で走り去った「軍歌男」「週刊文春」(1996年9月26日号)
    事件前、被害者宅を見ていた男。30代後半、身長約160センチ、やせ形。黄土色のレインコートと黒ズボン姿(毎日新聞)
    事件当日午後4時頃、黒傘をさして現場近くに立っていた中年男。
    これと似た男が事件当日朝、京成高砂駅(柴又駅の隣駅)付近で柴又3丁目への行き方を主婦に尋ねている。
    事件3日前の正午過ぎ、40歳ぐらいの中年男が近くの何軒かの家に入りこんで追い返されたり、他人の家の門前でライターをカチャカチャいじるなど不審な行動を取っていた。
    事件当日の午後4時半頃、現場近くから、土砂降りの中、白い手袋をした20代後半から30代前半の男が、傘も刺さずに柴又駅の方向に向かって走り去った。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1967年
    【#53】山陽電鉄爆破事件
    山陽電鉄爆破事件(さんようでんてつばくはじけん)とは、1967年(昭和42年)6月18日に発生し、多くの死傷者を出した電車爆破事件である。
    犯人が検挙されず公訴時効を迎え、未解決事件となった。

    概要


    1967年6月18日14時05分、兵庫県神戸市垂水区に位置する山陽電鉄本線電鉄塩屋駅構内において、兵庫発姫路行き普通電車の網棚に置かれていた荷物が爆発し、乗客の22歳女性が即死、重体の39歳女性が後に死亡するなど、2名の死者と29名の重傷者を出す大惨事となった。
    警察による鑑識によれば、塩素系カリウムと硫黄の混合物による火薬に時限式起爆装置が取り付けられたものであったが、未解決事件となった。

    関連事件


    神戸大丸デパート爆破事件
    1967年1月に大丸神戸店のトイレで爆破事件が発生。現場には「ウルトラ山田」という脅迫状が残されていた。現場に残っていた爆弾の構造から同一犯である疑いがあった。しかし、この事件も犯人を特定することは出来ず、未解決事件となった。

    その他


    1960年代後半は、鉄道をターゲットに爆発物をセットする事件が多発した。具体的には1963年9月5日の草加次郎事件(未解決)や1968年6月16日の横須賀線電車爆破事件(犯人検挙)や1972年8月2日の近鉄奈良線爆破事件(未解決)である。
    1974年に大阪で3件の爆弾事件が発生し、「ウルトラ山田」からの犯行声明が出された(日曜日の爆弾魔事件)。犯人は13歳の爆弾マニアの少年であることが判明。この少年は大丸爆破事件時の年齢が6歳のため、大丸爆破事件で使われた「ウルトラ山田」を勝手に名乗ったものとされる。
    山陽電鉄爆破事件に関してNHKは1967年11月3日、テレビ番組「現代の映像」で「ゆがんだ歯車 ~山陽電鉄爆破事件の捜査記録から~」と題して取り上げている[1]。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1968年
    【#52】三億円事件
    三億円事件(さんおくえんじけん)は、東京都府中市で1968年12月10日に発生した、窃盗事件である。三億円強奪事件ともいわれる。

    同事件のポスター
    52_poster


    概要


    1968年12月6日、日本信託銀行(後の三菱UFJ信託銀行)国分寺支店長宛に脅迫状が届く。翌7日午後5時までに指定の場所に300万円を女性行員に持ってこさせないと、支店長宅を爆破するというものであった。当日、警官約50名が指定の場所に張り込んだが、犯人は現れなかった。
    4日後、12月10日午前9時30分頃、日本信託銀行国分寺支店(現存せず)から東京芝浦電気(現・東芝)府中工場へ、工場従業員のボーナス約3億円(正確には2億9430万7500円)分が入ったジュラルミンのトランク3個を輸送中の現金輸送車(セドリック)が、府中刑務所裏の府中市栄町、学園通りと通称される通りに差し掛かった。
    そこへ警官に変装して擬装白バイに乗った犯人が、バイクを隠していたと思われるカバーを引っ掛けた状態のまま輸送車を追いかけ、輸送車の前を塞ぐようにして停車した。現金輸送車の運転手が窓を開け「どうしたのか」と聞くと、「貴方の銀行の巣鴨支店長宅が爆破され、この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言って行員を輸送車から降ろさせた。
    4日前に支店長宛ての脅迫状が送り付けられてこともあり、その雰囲気に行員たちは呑まれてしまっていた。犯人は、輸送車の車体に潜り込み爆弾を捜すふりをして、隠し持っていた発煙筒に点火。「爆発するぞ! 早く逃げろ!」と避難させた直後に輸送車を運転し、白バイをその場に残したまま逃走した。この時銀行員は、警察官(犯人)が爆弾を遠ざけるために輸送車を運転したと勘違いし、「勇敢な人だ」と思ったという。しかし、バイクに詳しい銀行員が残された白バイが偽物と判断できたことから偽警察官による現金強奪事件が早くも判明した。
    9時50分に伊豆・小笠原を除く東京都全域に緊急配備が敷かれた。奇しくも、この日は毎年恒例の歳末特別警戒の初日であった。警察は要所要所で検問を実施したが、当初は車の乗換えを想定していなかった事もあり、当日中に犯人を捕まえることができなかった。
    被害金額約3億円(2億9430万7500円)は現金強奪事件としては当時の最高金額であった[2]。その後の現金強奪事件では金額こそ三億円事件よりも強奪金額が多い事件があるが[3]、1968年当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約20~30億円にあたり、貨幣価値においては現金強奪事件としては最高クラスである。捜査には7年間で9億円が投じられた。
    三億円強奪事件ともいわれているが、事件のあった日本において、本件犯行は強盗罪には該当せず、窃盗罪となる。
    1975年12月10日、公訴時効が成立(時効期間7年)。1988年12月10日、民事時効成立(時効期間20年)。日本犯罪史に名前を残す未解決事件となった。

    多摩農協脅迫事件


    三億円事件が起こる前、1968年4月25日から1968年8月22日まで多摩農協へ現金要求や放火予告や爆弾予告をする脅迫が脅迫状・脅迫電話・壁新聞投げ込みで計9回発生した。
    この事件は脅迫日が東芝の給料日だったこと、脅迫状の筆跡が12月6日に送られた日本信託銀行への脅迫状の筆跡と同一とされたことから多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件と三億円強奪事件の三事件が同一犯によるものとされた。
    6月25日に多摩農協を脅迫する文章の中では「よこすかせんはひきょうもん」という文言が入った脅迫状を送っている。「よこすかせん」とは脅迫状を送る9日前の6月16日に横須賀線大船駅で発生した横須賀線電車爆破事件について触れたと言われている(脅迫状作成当時は横須賀線電車爆破事件の犯人は不明だったが、三億円事件発生1ヶ月前の11月9日に犯人が逮捕され、三億円事件の公訴時効直前の1975年12月5日に死刑執行された)。

    遺留品


    犯人が残した遺留品が120点もあったため、犯人検挙について当初は楽観ムードであった。ところが、遺留品は盗難品や一般に大量に出回っているものであったため犯人を特定する証拠とはならず、大量生産時代の弊害に突き当たってしまった。犯人の主な遺留品は以下の通り。

    ■第一現場
    府中市栄町、府中刑務所裏。三億円強奪事件が起きた路上。遺留品には偽白バイが残った。

    ・ヤマハスポーツ350R1
    偽白バイ。盗難日は1968年11月19日から20日。白バイの機種はホンダなので、ヤマハの白バイは存在しない。元の色は青。試運転で本番までに428キロ走られている。ハンドルやサドルには間違って塗装した部分をベンジンで拭いたと思われる痕跡が残されていた。
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    ・ハンチング帽
    第1現場で偽白バイが事件現場まで引きずっていったボディカバーの中から発見されたことから、犯人のものと考えられている。汗を検出すれば、少なくとも実行犯の血液型を特定できたが、楽観ムードによるものからか、鑑定に出す前に刑事同士で交互に被ることで鑑定不能にするミスを犯していた。ハンチング帽は54個が出庫され、36個は所在が判明。残り18個は立川市の帽子小売店が市内の安値市で販売していたが、誰に売ったかまでは特定できなかった。

    ・メガホン
    偽白バイの広報用スピーカーに見せかけるために偽白バイにに取付けられていたメガホン。製造番号から5台が出回っていることが分かり、4台まで所在を確かめた。残る1台は東村山市の工事現場で盗難に遭っており、この最後の1台が犯行に使用された物と思われる。

    ・クッキー缶
    偽白バイの書類箱に見せかけるためのクッキー缶。書類箱はカーショップでも発売されているのに、かなり異なるクッキー缶を使用した上にガムテープで取り付けるという改造方法だったことから、お粗末な白バイ改造とされた。そのため、犯人は白バイにかなり詳しい人物ではなく、素人でも改造できるレベルであることの根拠の一つとされた。クッキー缶のメーカーは明治商事だったが、3万個が流通していたために購入者を追及することを断念した。またクッキー缶を利用したことから、犯人の甘党説が浮上した。

    ・発煙筒
    脅迫をする際にダイナマイトに見せかけた発煙筒。発煙筒は日本カーリットが製造した「ハイフレイヤー5」で、ガソリンスタンド等を中心に4190本売られていた。

    ・磁石
    発煙筒を現金輸送車にくっつけるためのマグネットキャッチと呼ばれる磁石を2枚に分解したもの。発煙筒には銅線で巻きつけられていたが、鉄線と比較して磁力が弱かったため、本番では磁力が働かずに発煙筒は現金輸送車にくっつかずに地上に落下してしまった。大平製作所が製造し、4万3240個が流通していた。

    ・新聞紙
    メガホンは、白ペンキで2度塗装されていた。捜査に行き詰まっていたある日、上の塗装がはがれた部分に4mmほどの新聞紙の紙片が付着しているのを発見。地道に新聞紙を調べたところ、1968年12月6日の産経新聞朝刊婦人欄の「食品情報」という見出しの「品」の字の右下部分の一部であることが判明した。紙片の分析の結果、紙は愛媛県伊予三島市の大王製紙の工場で作られた物と判明。なお一部情報で「インクの具合、印刷状況から輪転機を特定し、その新聞が配達されたのが三多摩地区であることまで絞り込めた」という報道がなされたが間違いである。
    配部数は13,485部、販売所数は12ヶ所。住民の転出入が激しかったことや、新聞を購読する家が頻繁に変わっていたことから捜査は難航し、2年掛かりでやっと販売所を特定できたが、時すでに遅く配達先の住所録は処分された後であり、この方面での捜査は徒労に終わった。

    ■第二現場
    国分寺市西元町、武蔵国分寺跡のクヌギ林。現金輸送車のセドリックが乗り捨てられていた場所。遺留品にはセドリックが残った。事件直前に第二現場で濃紺のカローラが目撃されていたことから、犯人はここで、濃紺のカローラに乗り換えたと思われた。逃走車の乗換えを想定していなかったことが、初動捜査で犯人を捕まえられなかった遠因となった。
    ■第三現場
    府中市栄町、明星学苑高校近くの空地。犯行前に偽白バイをカバーに覆って停めていた場所。

    ・レインコート
    濃紺のレインコート。蛙脱ぎ(脱いだまま裏返った状態)で残されていた。
    事件翌日に公開されたが、一般層からの反応がほとんどなかった。レインコートを製造した会社は1958年時点で倒産しており、レインコートは10年以上前に製造されたものであった。
    この遺留品は様々な情報が錯綜し、すぐに粗末に扱われた。重要な遺留品を認定されたのは事件から3年後のことで、レインコートにはソデ裏にアイロンがかけられた跡があり、また内エリに「クリーニング」のタグの跡を示す白い糸があった。しかし、捜査が遅れたためにこれ以上の発見はなかった。

    ・第1カローラ
    緑色のカローラ(多摩5め3863)。盗難日は11月30日から12月1日。半ドアでワイパーは動いたまま、窓は開けっ放しであった。
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    ■第四現場
    小金井市本町、団地駐車場。第二現場で乗り換えたカローラが、乗り捨てられていた場所。事件から4ヶ月後に判明。遺留品にはカローラと空のジュラルミンケースが残った。現金抜き取り場所がこの現場である可能性が高いが、団地駐車場という人目につきやすい場所であるため現金抜き取り場所は別の現場であるという異説もある。他にも似たような盗難車があった。

    ・第2カローラ
    現金を奪った犯人が、現金輸送車から乗り換えた濃紺のカローラ。ナンバー(多摩5ろ3519)から「多摩五郎」のコードネームがつけられた。事件直前に第二現場で目撃されており、事件直後にこの情報を知った警察はこの車の行方を追っていた。車は盗難されたシートカバーで覆われていたため発覚しにくかった。事件から4ヵ月後、小金井市の団地駐車場で発見された。残された車の中には、空のジュラルミンケースが入っていたことから、犯行に使われたことが特定された。なお、「第2カローラ」は自衛隊の航空写真より事件翌日から団地駐車場に存在したことが判明している。

    ・ケースの泥
    ジュラルミンケースに付着していた泥を精密検査した結果、警視庁科学検査所の鑑定では現場から4km離れた国分寺市恋ヶ窪の雑木林の土壌と、農林省林業試験場の鑑定では第二現場の土壌が近似していると分析した。この為恋ケ窪付近にアジトがあると見て、徹底的に捜索したが成果は出なかった。

    ・ホンダドリーム
    1968年11月9日に盗まれたバイク。白バイの車種であるため、犯人は当初このバイクを偽白バイに改造しようとしたと思われる。盗難後の走行距離が60キロと短いが、このバイクは持ち主によると盗難前からノッキングしやすい不具合があった。犯人は試運転でその不具合に気づいたため、白バイを別のバイクで改造したと推理された。

    ・3台の盗難車
    第2カローラ以外にも盗まれて小金井市の団地に放置された盗難車が3台(プリンススカイライン2000GT・ブルーバード・プリンススカイライン1500)存在した。車は盗難されたシートカバーで覆われていたため発覚しにくかった。1971年(昭和46年)、工学者の額田巌は、警察の依頼で遺留品の鑑定を行い、2台のカバーシーツの紐結びを比較した。その結び方が異なるため、ブルーバードを盗んだのも三億円事件の犯人だとすれば、この事件は複数犯であると結論している。

    ・ギャンブル関連品
    盗難車プリンススカイライン2000GTの中に競馬専門誌2部とスポーツ紙、府中の東京競馬場近くの喫茶店のマッチ、平和島競艇のチラシ。車の持ち主の身に覚えの無い物から、盗難犯の所持していたものとされた。そのため、犯人としてギャンブル愛好家説が浮上した。

    ・女性物のイヤリング
    プリンススカイライン1500の中から女性物のイヤリング。車の持ち主の身に覚えの無い物から、盗難犯の所持していたものとされた。犯人グループに女性の存在が浮上した。

    ・脅迫状
    銀行に送りつけられていた脅迫状の切手に唾液があり、唾液からB型の血液型が検出されている。また、脅迫状は雑誌の切り貼りで文字を作っていたが、その雑誌が発炎筒の巻紙に使われた雑誌と完全一致したことから、脅迫状を送った犯人と現金強奪犯が同じであることが明らかになった。
    多摩農協脅迫事件と日本信託銀行脅迫事件の両事件で送られてきた脅迫状の文面の特徴として以下の特徴があった。
    「ウンテンシャ」「イマ一度の機会」など特定の業種が使う言葉を使用。
    語句と語句の間を分ける「分かち書き」の使用。
    強調点に「●―●―●」という記号の使用。
    「オレタチ」「我々」などの複数犯を思わせる記述。
    「コン柱オキバ」など電話関係者の業界用語の使用。
    多摩農協職員の車のナンバーを特定している記述。

    ・2つの雑誌
    脅迫状と発煙筒には「電波科学」と「近代映画」という2つの雑誌が使われていた。捜査機関は2つの雑誌の読者の性向を絞って犯人を捜査。しかし、「電波科学」はテレビ配線図などを機械改造を望むマニアックな理系読者、「近代映画」は芸能情報を望むミーハーな文系読者、2つの雑誌の読者の性向は両極端であり、これらの雑誌を置いている書店に聞き込みをしても、2つの雑誌を併読している読者は皆無であった。その後の捜査で「電波科学」の読者にとって一番重要だった「配線図」のページが犯行に使用されていたことから、本来の読者であれば違うページを使用したと推理し、捜査撹乱のために全く不作為に2冊の雑誌を購入して犯行に使用しただけと結論を出して捜査を打ち切った。

    犯人の逃走経路
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    実行犯に関する目撃証言


    事件の少し前に偽白バイに関する目撃証言が集まっている。11月下旬朝8時頃に府中市の市道を運転された青いバイク、12月1日深夜に京王線高幡不動の駅近くで一方通行の逆向きに停車された青いバイクが目撃され、二つとも4桁のナンバーが盗難白バイと同じであった。また12月9日午後8時40分には府中市の交差点で不自然なスピードで走行をする本物よりシートが高い白バイとのすれ違いに関する目撃証言がある。
    現金強奪前の第三現場ではシートを被せられた白バイの目撃証言が寄せられた。現金強奪10分前の9時20分には何かを狙うように待機する白バイの姿が自宅にいた主婦に目撃されている。また現金強奪30分間前の9時頃に日本信託銀行国分寺支店から50メートル離れた空き地で銀行の出入りを伺う不審なレインコートの男を目撃した人物が4人いる。4人の目撃者によるといずれも身長165センチから170センチで30代くらいの男である。
    直接の現金強奪の犯行現場となった第一現場では4人の銀行員の他に府中刑務所の職員、近くにいた航空自衛隊員。しかし、これらの目撃者の証言は曖昧だったり勘違いだったりすることもあった。
    また、第二現場付近では泥水を車に跳ねられた通行人の主婦がすぐに車のナンバーを控えたところ、盗難された現金輸送車のセドリックだったことが判明している。
    国分寺市の造園業者の親子が運転中に乱暴な濃紺カローラとすんでのところで接触事故になりかけ、猛スピードで国分寺街道方面に消えていった。造園業親子は若い無帽で長髪の男で助手席は無人で黒っぽい服を着ていたのを目撃。ジュラルミンケースは見ておらず、車のナンバーを見ていないが、挙動不審な運転や濃紺という目撃証言から、犯人が乗ったカローラ「多摩五郎」であることが確実視されている。
    杉並区内の検問所で“銀色のトランクを積んだ灰色ライトバン”を捕捉したが突破された。これが最後に目撃された犯人の姿といわれる。

    捜査


    ・モンタージュ写真による捜査
    12月21日にモンタージュ写真が公表された。しかし、事件直後に容疑者として浮上した人物(後述の立川グループの少年S)の顔を見た銀行員4人が犯人に似ていることを根拠として、事件発生1年前に事故死した人物(写真撮影時は19歳)の写真を遺族に無断で用いたものであり、通常のモンタージュ写真のように顔のパーツを部分的につなげた物ではなかった。本来“このような顔”であるべきモンタージュ写真を“犯人の本当の顔”と思い込んだ人が多く、そのために犯人を取り逃がしたのではないかという説もある。
    結局、捜査本部は1971年に「犯人はモンタージュ写真に似ていなくてよい」と方針を転換、モンタージュ写真も1974年に正式に破棄されている。しかしその後も各種書籍物でこのモンタージュ写真が使用されており、犯人像に対する誤解を生む要因となっている。
    容疑者リストに載ったのは実に11万人、捜査した警官延べ17万人という空前の捜査だったが結局、犯人を検挙できずに事件は時効を迎えた。

    有名なモンタージュ写真
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    ・ローラー作戦
    事件現場となった三多摩地区には当時学生が多く住んでいたことから、一帯にアパートローラー(全室への無差別聞き込み)を掛けた。 警察において被疑者とされた者の数は十数万人に及んだ。事件現場前にある都立府中高校に在籍した高田純次や布施明の名前もあった。もっとも、二人とも事件とは無関係であることが後に判明した。

    ・その他の捜査
    通常の事件と同様に遺留品などから検出された指紋の照合も行われていた。しかし、上記の通り遺留品はどれも大量生産されていたものだった影響から照合する指紋の量が多すぎたことや、それを照合する捜査員がわずか3人と少数だったため大した効果は得られなかった。
    また、指紋捜査員には残された白バイに付着している指紋が犯人のものでないかという考えがあった。白バイに扮装させるためバイクには白いペンキが塗られており、ここについている指紋が犯人のものである可能性が高かった。なぜならばここに指紋が付くということはバイクを改造してから触ったことを示しており、その可能性があるのは犯人以外に製作者、犯人グループもしくは極親しい人、事件の被害者くらいだからだ。白バイに改造されたバイクを盗むことは考えづらく事件に使用するために作った可能性が非常に高い。そのバイクを事件まで仲間以外に接触させることも考えづらい。その結果、事件後に触った人以外の指紋は犯人もしくは犯人と親しい人物であると考えられる。
    これらのことから指紋調査員は白バイに付着した指紋だけに絞って調査を進めてはどうかと提案した。それは、上記の通り指紋捜査は非常に難航しており、膨大な量の指紋を前にして苦労を重ねていたからである。しかし刑事側、特に平塚八兵衛から「その指紋が犯人のものであると断定できるのか?」と強く責められ、調査員も自信を持って主張することができず、結局は膨大な指紋を照合することとなった。
    現在では重要視される指紋照合も当時はあまり期待されていなかった。加えて当時は刑事と捜査員との力関係に大変な差があり白バイの指紋に注力することはできず、これまでの犯人や怪しい人物の指紋と照合するという刑事の推理主導で作業が進められていった。時代背景を考えれば仕方のないことだが数々の経験を積み重ねた結果、逆に後年起こる有楽町三億円事件では指紋が犯人逮捕の決め手となった。
    警察は事件当時に盗まれた3億円のうち番号がわかっていた500円札2000枚分(100万円分)のナンバーを公表した。この番号の札は1枚も出回ることはなかったが、犯人が強奪した現金を使えなくすることによって犯人の利益を一部無くすことができたとする一方、犯人が紙幣使用を控えたとされて犯人の検挙を一層困難にした。

    本事件による被害とその影響


    盗まれた3億円は、日本の保険会社が支払った保険金により補填された。その保険会社もまた再保険(日本以外の保険会社による)によって損害の補填をうけていたために、日本企業の損失はなかった。そのため、事件の翌日には社員にボーナスが支給された。このように史上例を見ない金額の事件だったにもかかわらず、実質的に国内で損をした者は1人もいないとされている(ただし、マスコミの報道によって大きな被害を受けた人物(後述の運転手K)は存在する)。このことと、犯人が暴力に訴えず計略だけで強奪に成功していること及び被害金額2億9430万7500円の語呂から、“憎しみのない強盗”のあだ名もある。
    この事件以来、多額の現金輸送の危険性が考慮されるようになり、給料等の支給について(銀行など)口座振込としたり、専門の訓練を積んだ警備員による現金輸送が増加する要因となった。

    ただ、捜査については下記の通りである。
    捜査日数 2,556日
    捜査対象(取り調べ) 117,951人
    捜査延人員 171,805人
    捜査中過労の為殉職警官 2名
    容疑をかけられ、自殺した青年
    捜査費用 9億9千万円
    情報提供 28,042件

    犯人像の推測


    この事件の犯人については、目撃者や脅迫状の文面や遺留品から様々な犯人像が浮上した。単独犯なのか複数犯なのかも不明。

    ・立川グループの少年
    立川グループとは、当時立川市で車両窃盗を繰り返した、非行少年グループである(立川市は府中市に近い)。

    少年S
    立川グループのリーダー格。事件当時は19歳。
    容疑理由(状況証拠)は以下の通り。
    「車の三角窓を割り、ドアの鍵を開けてエンジンとスターターを直結する」という車の窃盗手口が同じ。
    地元出身で土地勘があり、車やバイクの運転技術が巧み。
    1968年3月に立川市のスーパーで「発炎筒をダイナマイトと見せかけた強盗事件」を起こした仲間と親しい。
    父親は白バイ隊員で、白バイに関する知識が豊富。
    親族以外のアリバイが不明確。
    事件前に東芝や日立の現金輸送車を襲う話をしていた。
    だが、以下のような反証が上げられており、単独犯の場合は犯人ではないことを示した。
    血液型はA型で、脅迫状の切手のB型と異なっていた。
    脅迫状の筆跡が異なっていた。
    多摩農協脅迫事件のある脅迫状の投函日であった8月25日には、少年鑑別所にいた。
    Sは事件5日後の1968年12月15日に自宅で父親が購入していた青酸カリで自殺。Sの自殺については、自殺するような人間ではないとの少年Sの仲間の証言や青酸カリが包まれた新聞紙には父親の指紋しかついていなかったことから疑問視する意見がある。
    翌日、捜査本部は実行犯を間近で目撃した4人の銀行員たちをS宅に招き、Sの顔を面通しをさせた。4人全員がSが実行犯に「似ている」または「よく似ている」と答えたことを根拠の一つに、1968年の12月21日にSに酷似したモンタージュ写真が公開された。
    その後の捜査で、警察はSを「シロ」と断定した。

    少年Z
    立川グループのメンバー。事件当時は18歳。
    容疑理由は、事件後に乗用車を購入したり、会社経営をしたりと、金回りがよくなっていた事。そして、少年Sの1~3と同じ理由である。
    だが、血液型はAB型であり、脅迫状の切手のB型とは異なっている。また筆跡も異なっていた。
    警察は、公訴時効寸前の1975年に、元少年Zを最後の容疑者候補とする。1975年11月に別件の恐喝罪で逮捕するが、三億円事件の公訴時効前に釈放された。

    ・ゲイボーイ
    以下K。立川グループではないが、少年Sと交際があったゲイボーイ。事件当時は30歳前後。
    Sの親族を除き、Sの事件当日に関する証言をした唯一の人物。Kの証言はSは事件日2~3日前から事件前日に自宅の新宿のマンションで一緒に夜を過ごし、明るくなった朝8時頃に自宅を出るのを見送ったと証言した。ただし、朝8時というのは時計を見ていたわけでなく冬における外の明るさで判断としており、雨が降っていたが傘やレインコートを貸した記憶がなかったなど、曖昧な点があった。
    また、Kの証言では初めてSと会ったのは事件の20日前なのに夏(少なくとも4ヶ月程度前)に一緒に旅行に行った時に撮影された少年Sの写真を飾っていたことなど不可解な点があった。さらに事件1年後に、外国に移住して、ゲイバーを開店したり、再び日本に戻った時には日本では自宅マンションや2軒目のマンションを購入したり、事件7年後には実家に豪邸を建てたりなど、金回りがよくなっていた。
    もしKがSと共犯であれば、Sが鑑別所にいる間の脅迫書を出すこと、事件関連の30代の男に関する目撃証言や電話の声の証言、第4現場の盗難車に残されていた女性物のイヤリングにもつながる。
    警察は捜査を進めるも、Kを「シロ」と断定した。Kは急に金回りがよくなった点について「外国のパトロンがついた」と述べている。

    ・府中市の運転手
    以下F。府中市に住む運転手。事件当時は25歳。住まいや過去の運転手の仕事から各現場の地理に精通していること、血液型が脅迫状の切手と同じB型、タイプライターを使う能力を持っていること、友人に送った手紙が犯行声明文と文章心理が似ていること、モンタージュ写真の男と酷似していることなどから12,301人目の容疑者候補として浮上。しかし、脅迫状の筆跡が異なっており、金回りに変化がないことから、警察は慎重に捜査をすることとした。
    発生から1年後の1969年12月12日に、捜査員を取材していた毎日新聞の記者が筆跡が異なるなどの否定材料を入れた上で警察が容疑者としていると掲載し、モンタージュ写真にFの顔を合成するなどして犯人視する報道を展開。それを新聞配達前に知った警察は逃亡の恐れがあるとして、身柄拘束を視野に入れた上で運転手Fに任意同行を求め、十数時間の取調べの後に別件逮捕した[8]。新聞各社も「容疑者聴取へ」などと実名入りで書き立てたが、事件当日に就職試験を受けていたアリバイが証明され翌日釈放された。報道による人権侵害の最たる例であり、この月の縮刷版・当日のマイクロフィルム紙面は現在各社共封印している。
    なお、Fは逮捕や一連の報道によって職を失い、その後も真犯人の見つからない「三億円事件の容疑者」としての偏見と事件に関するコメントを求めるマスコミ関係者に悩まされ職を転々とし、2008年9月に自殺した。

    ・日野市三兄弟
    日野市の電気工事会社を経営する三兄弟。事件当時は上から31歳・29歳・26歳。大きなガレージ風の物置がありバイクの偽装のための塗装がしやすいこと、次男がバイクマニアの不良グループに属していたこと、看板店の営業経験があり塗装技術があること、事件前に発炎筒がつけられた車を購入していたこと、兄弟の一人が事件前にハンチングを被っていたことが怪しいとされた。しかし、車の発炎筒やハンチングが事件のものと異なること、事件の4日後にお金を借りていたことなどが判明。その後、警察は日野市三兄弟を捜査するが、事件と結びつかなかった。

    ・不動産会社社員
    不動産会社社員。事件当時は32歳男性。事件前に金に困っていたが事件後に金回りがよくなったこと、東芝府中に勤務経験があること、姉が東芝府中に12年勤務していること、自動車の運転が巧みなこと、モンタージュ写真の男と酷似していることが怪しいとされた。しかし、事件当日に杉並区から横浜に車で行く途中で非常検問にひっかかったことからアリバイが出てきたこと、金回りの変化については不動産売買で1600万円を入手したことが明らかになったことから容疑者候補から外れていった。

    ・会社役員
    以下P。三億円事件から13年前の1955年に銀行員1人を仲間にしたり仲間の1人が私服刑事を装うなどして、千代田区にある銀行の現金輸送車を襲う計画を仲間3人と実行。この事件ではすぐに逮捕されたものの計画性や発想が三億円事件と類似するものであった。Pは出所後に刑務所の中で知り合った友人に「今度は1年がかりで大きなことをやる」と豪語、三億円事件発生後に土地や住宅や外車を購入して金回りがよくなったため、容疑者として浮上。しかし、金回りに関しては、不動産会社から合法的な資金提供を受けたことが判明した。ハワイへ移住マンション暮らしをしていたことが後にわかる。そののちハワイで病死する。

    自称三億円事件犯人


    時効成立後、三億円事件犯人を自称する人物が何人か登場している。
    なお、当時の担当刑事によると事件の際に発炎筒が通常通り点火しなかったが、犯人は通常とは異なる手法で発炎筒を点火させていることが遺留品から判明している。またジュラルミンケースには現金・ボーナス袋のほかにある「モノ」が入っていたという。発炎筒の特殊な点火手法やジュラルミンケースにある「モノ」は一般発表されておらず、関係者と犯人しか知らない。
    しかし、自称三億円事件犯人は発炎筒点火の詳細やトランクケースの「モノ」を正確に答えられないことから偽者と見破られている。自称三億円事件犯人の目的として「本を売って稼ぎたい」「世間から注目されたい」「詐欺のためのハクづけ」の3種類に分類される。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1948年
    【#51】幸浦事件
    幸浦事件(さちうらじけん)とは、1948年に起きた強盗殺人事件。容疑者が裁判で一転、無実を主張して、警察の拷問や誘導尋問が指摘され、無罪となった。

    概要


    1948年11月29日、静岡県磐田郡幸浦村(現・袋井市)のアメ製造業を営む主人を含む一家4人(夫34歳、妻28歳、長男5歳、次男1歳)が失踪。妻のメガネが自宅にあったことから事件性があると判断するも、何も手がかりも消息も掴めず、年を越してしまう。

    1949年2月12日、近藤勝太郎(当時23歳)と小島敏雄(当時19歳)が別件逮捕され、二人を一家4人殺害の犯人として、取り調べを続けたところ、近藤が二日後の14日に一家殺害を自供、また同日に共犯の近藤糸平(当時45歳)と吉野信尾(当時38歳)も逮捕。後日、容疑者らの自供により、一家4人の絞殺遺体が埋められていたことを発見。

    裁判


    1950年、
    裁判で4人とも無実を主張するも、静岡地裁は吉野(懲役1年)を除く3人に死刑判決。

    1951年
    東京高裁は4人の控訴を棄却。

    1957年
    最高裁で重大な事実誤認の疑いがあるとして、東京高裁に差し戻し。
    1959年
    4人全員に無罪判決(この後まもなく吉野が病死)。

    1963年
    検察の上告が棄却。4人の無罪確定。

    拷問による自白


    警察の取り調べで、4人に焼火箸で手や耳に押し付けるなど拷問をしたり、白紙の紙に刑事が自供を書いて彼らに無理やり承諾させて、さも4人から自供を聴取していたかのように装っていたりするなど、デッチ上げを行っていた。
    4人を無罪に導いた最たるものは、秘密の暴露であるはずの遺体遺棄場所に発掘前に印がついていたことが判明し、あらかじめ警察は場所を知っていた疑いが濃厚となったからである。
    このデッチ上げを率先して行ったのが、静岡県本部刑事課の紅林麻雄警部補であることが後年、指摘されている。後の二俣事件や小島事件といった冤罪事件にも彼が関与している。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1975年
    【#50】佐賀女性7人連続殺人事件
    佐賀女性7人連続殺人事件(さかじょせいななにんれんぞくさつじんじけん)とは佐賀県で発生した7人の連続殺人事件。水曜日の絞殺魔事件とも呼ばれる。また訴追された1989年の3人女性殺人事件は北方事件(きたがたじけん)と呼ばれる。

    概要


    1975年から1989年までに佐賀県北方町・白石町・北茂安町・武雄市の半径20キロの地域で7件もの女性殺人事件が発生。事件の特徴として、7件中6件が水曜に被害者女性が失踪していること、夕方から夜にかけて失踪していること、白骨化して死因が不明な2件を除いた5件が死因が絞殺であったことがあげられた。
    内4件は捜査機関が犯人を起訴できずに公訴時効が成立。残り3件は起訴されたが、無罪が確定し、7件とも未解決事件となった。
    中原町・北茂安町は2005年3月に三根町と合併し、みやき町となっている。

    第1の事件


    1975年8月27日(水)
    北方町に住む当時中学1年生であった山崎十三子さん(当時12歳)が1人で留守番中の自宅から失踪。いつも履いている靴が残されたままとなっていた。

    1980年6月27日
    白石町須古小学校プール横トイレ便槽で遺体で発見された。遺体を隠そうと遺体の上には丸い石が100個ほど積んであった。

    第2の事件


    1980年4月12日(土)
    杵島郡大町町に住む百武律子さん(当時20歳)が1人で留守番中の自宅から失踪。抵抗した痕跡も見られず、顔見知りによる犯行とも考えられた。3月末に買った時計が現場からなくなっている。また、これまで2度自殺未遂をしており、日頃「20歳の誕生日に自殺する」と漏らしていた。
    失踪直後の4月16日、山崎さんの父親宛てに「娘ハ帰ラナイダロウ、オ前モ苦シメ」と書かれた手紙が届いた。同じ頃には「人捜しのテレビに出るな」という脅迫電話もあったという。

    1980年6月24日
    衛生会社のし尿の汲み取り作業中に、白石町須古小学校北側校舎トイレ便槽から遺体で発見された。(1件目と同じ小学校)

    第3の事件


    1981年10月7日(水)
    杵島郡白石町に住む縫製工場の従業員池上千鶴子さん(当時27歳)が近くの縫製工場での勤務を終えて、午後5時半頃にスーパーで買い物をした後に失踪。最後に目撃されたのはスーパーの駐車場で、「乗用車に乗った30代の男性と親しげに話しているところを見た」と同僚が証言した。

    1981年10月21日
    40km離れた三養其郡中原町の空き地で発見。
    電気コードによる絞殺、性的暴行された跡はなかった。

    第4の事件


    1982年2月17日(水)
    佐賀県三養基郡北茂安町、北茂安小学校5年西山久美ちゃん(当時11歳)が下校途中の午後4時過ぎに失踪。

    1982年2月18日
    午前11時半頃、北茂安中学体育館北側の町道脇のミカン畑の中で、ランドセルを背負ったままの久美ちゃんの遺体が発見された。遺体はうつぶせで、下半身は裸、首にはストッキングが巻きつけられてあった。

     久美ちゃんが何者かに殺される直前、車に乗った怪しい男が何人にも目撃されていた。・同町の国道34号線沿い「キュウピィマーケット前」バス停でバスを待っていた主婦に、白い車に乗ってきた男が「乗っていかんですか」としつこく声をかけていた。主婦は男のあまりにしつこい誘いに「警察を呼びますよ」と断ったところ、男は睨みつけながら車に戻っていった。

    ・午後2時半頃
    同じような白い車が同県神埼郡三戸田町の三戸田小学校の校舎の傍に停まっていた。ここは主婦に声をかけたバス停から約5kmのところである。時刻は低学年の児童らの下校時間で、白い車を降りた中年男は1人の児童に「そこに座んなさい」と声をかけ、「ピンクレディーの写真を見せるからこっちへ来なさい」と言いながら児童を抱きかかえて女子便所に連れこんだ。ところが児童は大声で泣き出したため、男は何もせずに姿を消した。

    ・午後3時10分頃
    白い車は再び北茂安町のあらわれた。下校中の北茂安中学校の女子生徒2人にしつこく話しかけていた。

    ・午後3時半頃
    小学2年の女児児童3人に「家まで送るから乗らんね」と声をかけている。久美ちゃんが姿を消すのはその30分後である。

    ・午後4時半頃(麻美ちゃんが殺害されたと思われる)、殺害現場付近に白い乗用車が停めてあったのを主婦が目撃。この白い車に乗った中年男こそが犯人という線がかなり濃厚だった。

    目撃情報によると、
    白い車の車種 ナンバー「福岡???6950」
    ・「カローラ」
    ・「スプリンター」
    ・「ダイハツクオーレ」
    年齢30~40歳程度、鼻筋の通った眼のきつい細面の中年男、ジャンパーに青いズボン。
    手口や、遺体発見現場の近さなどから、池上千鶴子さん殺しの犯人と同一人物ではないかと見られた。

    第5の事件


    1987年7月8日(水)
    武雄市の温泉街の老舗割烹従業員藤瀬澄子さん(当時48歳)が失踪。仕事終わりに同僚と一緒に割烹近くのスナックへ行き、1時間ほど楽しく過ごした。店を出たあと澄子さんは「知っている人がよく来る店があるから、もう一軒行こう」と誘ったが、同僚の女性は電車の時間があるからと、断ったためその場で別れ、自宅までの1kmの間で行方不明となった。

    1989年1月27日に北方町大峠の崖下で白骨化した遺体で発見された。

    第6の事件


    1988年12月7日(水)、北方町の主婦中島清美さん(当時50歳)がミニバレーボールの練習があるからと家族に言い残して外出したあと行方不明。

    1989年1月27日に北方町大峠の崖下で遺体で発見された。

    失踪から1週間後の昼ごろ、清美の自宅に謎の中年男性から電話。
    夫「もしもし、中島です」
    中年男性「奥さん、見つかったそうですね。」
    夫「えっ?」
    中年男性「よかったですね」
    夫「一体どこで見つかったんですか?」
    中年男性「焼米(やきごめ)のほうでしょう」
    (少し沈黙)
    夫「あなたはどちらさまですか」
    中年男性「あんたの知った人間だ」
    40~50歳ぐらいの男性の声で佐賀弁の中に関西弁。

    その後も、数日おきに自宅や義明(忠雄?)の勤め先に、無言電話が数十回かかっていた。「焼米」という言葉はのちに遺体が発見される大峠の近くにある地名の通称で、この呼び名を使っているのは地元の人ぐらいしかいないため、この地名の北方町出身で、関西方面で暮らした経験のある男。

    第7の事件


    1989年1月25日(水)、北方町の会社員吉野タツ代さん(当時37歳)が失踪。
    北方町で農業を営む夫と1年前(1988)から別居。同町にある実家に戻っていた。嫁ぎ先は遺体発見現場から500m。 実家では両親と小学校4年生の長男の4人で暮らし。

    18時55分
    勤務先の縫製工場「R」タイムカードを押して退社。
    ※第3の事件の被害者である池上千鶴子さんと同じ職場

    19時15分
    帰宅。

    19時20分
    タツ代宛てに電話。相手や内容は不明。

    19時40分
    「友達を山内町まで送ってくる」「友だちの車がパンクした。遅くなる」と母親に言って車(ミラ)で外出、そのまま行方不明。

    時間不明
    タツ代の車はロックされた状態で、自宅から約3キロ離れた武雄市のボウリング場の駐車場で発見。そこで、タツ代を見かけたと言うOLの目撃談によると、白のトヨタ・クレスタがやってきて、タツ代を助手席に乗せて走り去った。

    前年10月、タツ代は「だんなさんの仲間」という男から「だんなさんと別居しとるやろ。話しがあるけん、出てこんね」という電話を受けていて、タツ代は気味悪がって家に閉じこもっていたが、その後も不審な男から同じように誘い出すような電話があり、それは失踪する直前まで続いた。

    1989年1月27日
    北方町大峠の崖下で遺体で発見された。


    北方事件



    北方事件の被害者
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    1989年1月27日午後5時頃、遺体発見者の女性Aさん(55歳)は夫が運転する車で用事を済ませて自宅に帰る途中。すっかり、日も暮れた午後5時50分ごろ、暗い山道を抜けて北方町の大峠と呼ばれる地区に入ったところで、仏壇に供えるのに 丁度いいと思ったトウゴシュの花を見つけた.Aさんはそのトウゴシュの枝を拾いに車を降りた。約2mのその枝は何かで切り落とされているようだった。ついでに、道沿いに咲く花を摘んでいたAさんは、ふと崖下に目をやると、何か白いものを見つけた。なんだろうと思い、崖を降りその白いものに3mまで近づいたとき、それが女性の死体であることに気づいた。110番通報で、警察が駆けつけ捜査が始まった。すると、その白い服を着た女性の死体からわずか2mのところに上半身が腐乱状態になっている女性の死体を発見した。さらにその1メートルほどのところで白骨死体を発見。3人の遺体のそばにはシャツやセーター、下着、タオルなどが木の枝に通してぶら下がっていた。また、Aさんが見つけたトウゴシュの枝はノコギリで切られたような跡があり、それは死体遺棄現場を指し示すか のように丁度、真上に置かれていた。被害者の物と思われる遺留品が遺体発見現場の周囲2キロ圏内に点々と捨てられていた。

    1989年11月、別件で拘置されていた松江輝彦さん(当時26歳)が任意の取調べに対し犯行を認める上申書を書いたが、すぐに否認に転じた。2002年6月11日になって佐賀県警は鹿児島刑務所に服役中の松江さんを吉野さんの殺害容疑で逮捕した(藤瀬さん殺害容疑の逮捕は7月2日、中島さん殺害容疑の逮捕は7月9日)。7月7日に吉野さん殺人事件の公訴時効成立約6時間前に起訴。同年10月22日に公判が開始され、検察側は死刑を求刑したが、2005年4月10日、佐賀地裁で行なわれた公判で、物証の乏しさや上申書の証拠価値の無さ(限度を越えた取調べの上で担当者の誘導により作成されたと認定)などにより、松江さんに無罪が言い渡された。その後、検察側が控訴していたが、2007年3月19日に福岡高等裁判所にて一審の佐賀地方裁判所の判決と同様に無罪の判決。二審では検察側が新たに提出したミトコンドリアDNAの鑑定結果を提出するも、被告を有罪とする根拠とはなり得なかった。なお、判決では長期間に渡って被疑者を拘束した上での取り調べなどの佐賀県警察の杜撰な捜査が指弾された。3月29日に福岡高等検察庁(福岡高検)が最高検察庁(最高検)と協議した結果、二審の判決には上告に必要とされるであろう重大な事実誤認ないしは判例違反が見あたらない上に原判決を覆すのに必要とされる物証も乏しいことから上告を断念。4月2日の上告期限を過ぎても上告せず、被告の無罪が確定した。これによって、北方事件との関連が疑われている4つの事件も含めて時効が成立し、実質的には未解決事件となった。又、二審の判決でも指摘されたような佐賀県警や検察の杜撰な捜査や起訴の有り様も批判された。

    無罪が確定した松江輝彦さん
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    補足


    日本では検察側の求刑が死刑に対して、一審判決が無罪となった例は過去には1961年に三重県名張市で起こった名張毒ぶどう酒事件がある。これは、最高裁の統計が残る1958年からだと名張事件から41年ぶりであり、戦後5件目である(実際は1974年の豊橋事件、1983年の土田・日石・ピース缶爆弾事件で一審段階で無罪が言い渡されている)。但し、名張事件では1964年の一審の津地方裁判所では無罪になったものの上訴審で死刑判決となった。
    再審による無罪が下った事件も含めるのであれば、1989年に再審により静岡地方裁判所にて無罪となった島田事件が挙げられる。なお、北方事件は1980年代に相次いだ死刑からの再審無罪が決まった4件の冤罪事件も含めれば島田事件から16年ぶりで戦後9件目である。
    最高裁の記録が残る1978年以来、死刑求刑事件で一審及び二審と続けて無罪となった例は初めてとされる。実際は土田邸爆破事件の被告人に対しての、一、二審無罪が存在するが、この被告人は別件の窃盗罪で有罪判決(懲役1年、執行猶予2年)を言い渡されており、記録上は有期懲役判決となっているためである。
    2007年3月20日には、二審での無罪判決を受けて福岡県弁護士会が取り調べの可視化の実現を求める声明を発表した。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1998年
    【#49】坂出送電塔倒壊事件
    坂出送電塔倒壊事件(さかいでそうでんとうとうかいじけん)とは1998年2月に香川県坂出市で起こった、何者かによる器物損壊事件である。

    倒壊した鉄塔
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    概要


    1998年2月20日午後1時20分頃、四国電力が管理する香川県坂出市坂出町の聖通寺山北側斜面に建つ特別高圧送電線鉄塔(高さ73m、重さ28t)のボルト80本のうち76本が何者かによって抜き取られて倒壊した。けが人はいなかったが、切れた電線が垂れ下がった瀬戸中央自動車道が約5時間半に渡って全面通行止めになった他、周辺世帯約1万7000戸が停電、約9000戸のガス供給がストップするなどした。
    警察の捜査では外されたボルトが付近の斜面にまとめて捨てられていたことから、倒壊は人為的によるものと断定した。
    捜査本部は実況見分から、複数の工具を使用した複数犯の可能性が高いとみて捜査していたが、目撃証言や物証に乏しく捜査も難航し、威力業務妨害や電気事業法違反など4つの罪が2003年2月までに公訴時効を迎えた。

    その後の事件


    2003年5月14日午前11時35分ごろ、香川県警に朝日新聞高松支局から「電波塔を倒すことをほのめかす文書」が届いたと通報があった。
    県警が調べたところ、高松市内の電波塔数箇所でボルトやナット10数個が外されているのが発見された。高松支局に届いた文書の内容は「パナウェーブの報道(当時福井県で新興宗教団体パナウェーブが大移動した事件。)を中止しなければ五色台山の電波塔を倒す」とのことだった。
    県警は坂出市の事件との関連も含めて捜査している。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2006年
    【#48】堺市母娘殺傷事件
    堺市母娘殺傷事件(さかいしおやこさっしょうじけん)とは2006年1月に発生した事件。

    概要


    2006年1月10日、大阪府堺市西区神野町の弁理士の家で玄関のベルが鳴り最初に応対に出た弁理士の妻沢真喜子さん(当時51歳)が男に刺された。トイレで悲鳴を聞き玄関に出て行った二女やす子さん(当時22歳)が玄関のドアを開けた際、外にいた男にいきなり切りつけられ、とっさにドアを閉めて施錠した。母親は死亡し、二女が重傷を負った。
    母親の遺体から約10メートル離れた場所に凶器とみられる血のついた包丁が落ちていた。玄関から室内、窓を通って庭先を1周するように血の跡が続いており、男が室内を通った可能性がある。
    二女の目撃証言があり、現場には犯人の短パンが残されている。犯人を目撃した二女によると犯人は知らない男だったと答えている。捜査機関は怨恨と通り魔の両面から捜査をしているが犯人は特定できておらず、未解決事件となっている。
    2007年5月に捜査特別報奨金制度に指定された。

    犯人


    事件30分前に自転車で現場方向に向かう不審な男が目撃されている。
    二女の目撃証言などによると犯人は以下の通り。
    ・年齢
    20歳代から30歳代位
    ・身長
    170センチメートル位
    ・体格
    やせ型
    ・頭髪
    ボブカット
    ・特徴
    色白、ひげが濃い、頬がこけている。

    服装
    ・ベージュのような薄手のジャンパー
    ・ジャンパーの袖を絞っている
    ・スウェットのようなズボン
    ・ラフな運動靴

    犯人似顔絵
    48_nigaoe

    犯人全身像
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    遺留品の短パン(Mサイズ)
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1950年
    【#47】財田川事件
    財田川事件(さいたがわじけん)は、1950年(昭和25年)2月28日に起きた強盗殺人(刺殺)事件とそれに伴った冤罪事件である。なお、地名の「財田」ではなく川の「財田川」と呼称する由来は、1972年に再審請求を棄却した裁判所の文言で「財田川よ、心あれば真実を教えて欲しい」と表現したことである。

    冤罪被害者 谷口繁義さん
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    概要


    1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現三豊市)で、闇米ブローカーの杉山重雄さん(当時63歳)が全身30箇所を刃物でめった刺しにされて殺害され、現金1万3000円を奪われた。
    同年4月1日、隣町の三豊郡神田村(こうだむら)で2人組による強盗事件が発生した。その事件の犯人として谷口繁義(当時19歳)ともう1人が逮捕された。この2人は『財田の鬼』と近隣で嫌がられていた不良組だった。警察はこの2人を殺人の容疑で取り調べた。
    もう1人はアリバイが証明され釈放となったが、谷口はアリバイ成立に疑惑が残ったため、約2ヶ月に渡って厳しい拷問による取調べの結果、自白の強要により、8月23日、起訴された。


    裁判


    1950年11月6日
    高松地方裁判所丸亀支部で第一回の公判が行われた。裁判で谷口はアリバイと拷問による自白だと強く主張し、冤罪であると訴えた。これに対し検察側は、取調べ中にまったく出ていなかった、谷口が犯行時に着用したとする国防色ズボンに微量ではあるが杉山さんと同じO型の血痕が付着しているという物的証拠があり有罪であると主張した。
    この血痕鑑定は、当時日本の法医学の権威であると賞賛されていた古畑種基東京大学教授による鑑定であったが、後に実際の検査は古畑教授の門下生の大学院生が行っていたことが判明した。後にこの物的証拠は弁護側からAの衣類押収の際に捏造されたものと主張したが、後述のように多くの証拠品が破棄されているため、真実は不明だが捏造が事実であったとの疑いがある。

    1952年2月20日
    この物的証拠と捜査段階での自白が信用できるとして、高松地方裁判所丸亀支部は死刑判決。谷口は控訴。

    1956年6月8日
    高松高等裁判所で控訴を棄却。

    1957年1月22日
    最高裁判所も上告を棄却し、谷口の死刑判決が確定。

    後に問題とされたのは、素行不良との風評から地元において犯人との噂話があったことを根拠に、農協強盗事件で起訴された谷口を起訴後に勾留したうえ、さらに別件逮捕するなど長期勾留を継続したことと、そして代用監獄による警察施設での食事を含む24時間の過酷な管理下におき、精神的肉体的限界のもとで自白を迫ったことなど捜査機関の行き過ぎた取調べである。また検察側もこのような不適切な違法捜査を是認したばかりか、上塗りすら行ったという。また裁判所も当時の法医学の権威であった古畑教授の鑑定を安易に信用した過失があった。なお古畑教授の鑑定で有罪となり後に真犯人が判明し冤罪が確定した弘前大学教授夫人殺人事件も再審で『シャツの血痕は警察が事件後に人為的に付けた捏造である』と判断していたことから、現在の血痕鑑定では血痕そのものだけでなく、どのようにして血痕が付着したかについても鑑定が行われるようになっている。

    再審請求


    死刑が確定した後、谷口は大阪拘置所に移送された。これは四国の行刑施設に死刑設備(絞首台)がなかったための措置である。
    1969年、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して恩赦検討開始。大阪拘置所では、谷口のほかに放火殺人で死刑確定となったYHの合計2人が検討されたが、結局、恩赦を受けたのはYHのみだった。
    その後法務省刑事局は、谷口の死刑執行に向けて法務大臣に提出する死刑執行起案書を作成するために必要となる、裁判に提出しなかった記録を送付するように高松地方検察庁丸亀支部に対して命令した。しかし、高松地検は記録を紛失(破棄した疑惑もある)したため、法務大臣への稟議書が出せず死刑執行手続きが法的に不可能になった。そのため、Aの処刑は無期限延期の状態となった。

    一方、谷口は1964年(昭和39年)に「3年前の新聞記事によれば古い血液で男女を識別する技術が開発されたとあるが、自分は無実であるからズボンに付着した血液の再鑑定をおこなってほしい」と記した手紙を高松地裁に差し出した。その手紙は最高裁判決から12年後の1969年(昭和44年)、高松地裁丸亀支部長であった矢野伊吉裁判長によって5年ぶりに発見された。
    矢野は疑わしく思える部分から再審の手続きを済ませ、再審に乗り出したが、開始直前に反対運動が起こり、「手紙ごときで再審はおかしい、引っ込め」などの暴言をうけた。矢野は裁判長を辞め、弁護士として再出発し、谷口の弁護人となって新たに再審請求した。

    不可解な点


    矢野によれば事件には以下のような不可解な点があったという。事件の捜査を行ったのは元特別高等警察出身の警察官達であったが、同じメンバーが担当した「榎井村事件」も1994年に再審無罪になっている。
    長期勾留と拷問による自白強要(このような自白強要は現在の刑事訴訟法では排除法則によって真実であっても証拠にならない)

    ・自白調書が捜査機関によって不正作成されている
    ・犯行を告白した手記が偽造されている(谷口は尋常小学校卒で漢字が殆ど書けず作文能力が稚拙だったのに、ある程度まとまった文章でかかれている。そのうえ作為的な文法ミスがある)
    ・物的証拠を捏造している
    ・高松地検丸亀支部による公判不提出捜査記録の破棄(そのため死刑手続自体が不可能になった)
    ・弟と一緒に就寝していたというアリバイが成立する(親族による証言のため採用されなかった)

    無罪


    1976年10月12日
    最高裁は谷口の自白に矛盾があるとする「3つの疑問と5つの留意点」を指摘して高松地裁に差し戻し。

    1979年6月7日
    高松地裁は再審開始を決定。

    1981年3月14日
    検察側の即時抗告を棄却したため再審開始。
    再審の公判では谷口は改めて拷問による自白を訴え、矢野は谷口の自白と現場検証の矛盾を突いた。また、地裁で出廷していた東大の教授が科学の進歩によりこれまで解明できなかった血痕に関して、谷口の衣類に別の血痕が混じっており、警察・検察がばら撒いたことを示唆した。また捜査機関による自白調書の信用性に対する疑問も主張した。

    1984年3月12日
    高松地裁は、被告人の自白には真実ではないとの疑いがある上、唯一の物的証拠であるズボンも事件当日に着用していた証拠はないとして、本事件と被告人とを結び付けえる証拠は存在しないとして、無罪を言い渡された。

    しかし矢野は谷口の無罪判決を聞くことなく1983年(昭和58年)3月に他界(享年71)していた。なおAは獄中生活34年目にして無罪放免された。その後、谷口は2005年(平成17年)7月26日に病死(享年74)した。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2003年
    【#46】五霞町女子高生殺害事件
    五霞町女子高生殺害事件(ごかまちじょしこうせいさつじんじけん)は2003年7月に東京都足立区に住む高1女子生徒(当時15歳)が行方不明になり、茨城県猿島郡五霞町の道路脇用水路で他殺体となって見つかった事件。

    被害者 佐藤麻衣さん
    46_higaisya

    概要


    2003年7月9日午前9時45分ごろ、茨城県猿島郡五霞町川妻地内の道路脇用水路で、若い女性がうつ伏せで「く」の字の曲がっている状態に死んでいるのを散歩中の近所の住民が発見した。
    その後、遺体の身元はテレビの報道で知った家族の問い合わせを受けた茨城県警察本部の捜査の結果、東京都足立区西竹の塚在住の都立高校通信制1年の佐藤麻衣さん(当時15歳)であることが判明する。

    被害者について


    ・マンションで母親(52)と兄(16)の3人暮らし。自宅には別居している大阪府に住むヨルダン国籍の父親(38)も時々訪れていた。
    ・通信制高校入学後は5月中旬から埼玉県草加市の東武伊勢崎線の草加駅内にある洋服店でアルバイトをしていた。
    ・中学校の同級生からは「明るくおしゃれでかわいい子」という印象。
    ・目鼻立ちのはっきりした日本人離れした美人。
    ・身長も170cm近く、スタイルも抜群で、ファションセンスもあり、かなり目立つ存在であった。
    ・高校によると入学式に出席したあとは日曜日に行われる任意出席授業には出席せず、どんな生徒かはわからなかったという。

    事件までの足取り


    7月6日(アルバイトの休日)
    母親と兄は宮城県の母親の実家に帰省して不在。母親の実家には麻衣さんも後から合流する予定だった。自宅には代わりに父親が来ていた。
    昼過ぎ
    自宅にいた父親に、「午後8時すぎぐらいには帰ってくるから」と言い残して外出。
    バイト先の同僚女性(当時20歳)と草加市内で昼食後、東武伊勢崎線の草加駅から駅4つ北側行った場所にある新越谷駅で降り、駅近くの洋服屋で洋服を購入。食事などをした。

    午後6時ごろ
    東武伊勢崎線の新越谷駅から東京方面に向かう上り電車に乗った。同僚は2つ目の新田駅で先に降りた。このとき麻衣さんは「これから友達と会う」と話している。
    草加駅から南に1つ先に行った谷塚駅で降り、駅東側約200mの場所にある草加市瀬崎町の瀬崎浅間神社で開かれていた夜祭りの会場を訪れた。

    午後7時ごろ
    中学校時代の同級生に携帯電話で祭りに来ていることを連絡している。しかし会う約束をしていた中学校の同級生は都合が悪くなり祭りに来ることが出来なくなったため、麻衣さんは会場に1人でいた。代わりに一緒に祭りを楽しむ友達を捜して携帯電話で複数の友人に電話していた。

    午後8時ごろ
    露天会場内にいた氷売りのアルバイト店員(当時17歳)と意気投合し、売り込みなどを手伝っていた。

    午後9時10分ごろ
    麻衣さんの携帯に着信があった。(相手は判明していない)
    直後、店を出ることにしたがその際、店員が「お礼がしたい」と行ったが麻衣さんは断り「また連絡して」と言って別れた。直後に谷塚駅前のコンビニ店の前で階段に腰をかけ、飲み物を飲みながら人を待っているように座り込んでいたという。

    午後10時ごろ
    被害者の携帯がつながらなくなる。
    これ以後の足取りは途絶える。

    7月9日
    午前9時45分ごろ
    被害者の遺体が、散歩中の近所の住人によって発見される。

    その後
    テレビで遺体の発見を報道。
    報道を見た家族が警察に問い合わせ、身元が判明する。

    遺体状況


    ・遺体発見当日に埼玉県越谷市内の洋服店で購入した上下とも黒いスポーツウエアタイプの服。靴を履いていなかった。かばん代わり使っていた袋(CALM)の中に携帯電話や着替える前の服、財布、腕時計(ROLEX)、つけ爪などを入れていたが、すべてが見つかっていない。立ち寄った先の駅などのコインロッカーなどもくまなく調べられたが遺留品未発見。

    所持品一覧画像
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    ・白い靴下が汚れていないことから、室内などの別の場所で殺され、車で運ばれ、捨てられたとの見方を強めている。 解剖の結果、死因は、首を紐のようなもので絞められたことによる窒息死。このほか首にのど元付近に強い打撃あるいは圧迫を受けたあざ。胸を素手で殴られたようなあと。手の爪には抵抗を試みて何かをひっかいたような痕跡はなかったことから、のどもと付近を不意打ち的に絞められた可能性が高い。腕や胸にも素手で殴られたような傷跡。

    手口の類似性


    同事件から約1年前に発生したに「岩井市女子高生殺害事件」に似ているともいわれている。

    事件のポスター
    46_poster
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1969年
    【#45】江東区小5女児誘拐殺人事件
    江東区小5女児誘拐殺人事件(こうとうくしょうごじょじゆうかいさつじんじけん)は、1969年5月に発生した殺人事件。

    概要


    1969年5月31日に東京都江東区に住む小学5年生の女児【名字不明】恵美子ちゃん(当時10歳)が若い男に車で連れ去られる事件が発生。3日後の6月3日に同区の埋立地で他殺体となって発見された。恵美子ちゃんは乱暴された形跡があり、死因は首を絞められたことによる窒息死だった。
    誘拐発覚から遺体発見までの間は報道管制が引かれていた。目撃された車がライトバンになったり、日産・サニーやマツダ・ファミリアになるなどして、捜査は迷走した。
    4300人の捜査員を投入したものの、犯人に行き着くことなく1984年5月30日に時効が成立した。
    この事件については、朝日新聞などで「犯人は内気な性格」「事件は性的虐待目的」などと言った推測が発表された。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2000年
    【#44】江東区亀戸漫画家女性殺人事件
    江東区亀戸漫画家女性殺人事件(こうとうくかめいどまんがかじょせいさつじんじけん)とは、2000年9月29日に東京都江東区亀戸6丁目で発覚した殺人事件である。

    被害者 吉田陽子さん
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    概要


    2000年9月29日午後1時ごろ、国勢調査の調査員が東京都江東区亀戸6丁目「レック亀戸グリーンマンション」604号室にある、漫画家吉田陽子さん(当時28歳)宅を訪問したところ、玄関の鍵が開いていたが応答がなく、しかも異臭がすることから不審に思い管理人に通報したことにより事件が発覚。吉田さんはTシャツのみの半裸姿でベッドの上にあおむけで首を絞められて殺害されていた。遺体は死後10日以上たっていてかなり腐乱していた。室内からはコンビ二エンスストアの9月18日付のレシートが発見されている。
    また、年内には実家に戻って親と同居する予定だった。

    吉田さんは同人誌で有名なアマチュア漫画家で、一人暮らしであった。人気同人作家が大きな収入を得る事もあるという事が当時の世間には理解されず、同人活動の傍ら風俗店に勤務して生計を立てていたとも報じられた。事件時、部屋には現金300万円があったが、手をつけられていなかったことから、物盗りではなく怨恨、人間関係のトラブルによる犯行とみられている。2010年4月現在、犯人逮捕に至っていない。

    その他


    吉田さんの漫画執筆時のペンネーム
    「吉田夜子(ようこ)」
    「杉崎くうる」

    現場概略図
    44_genbagairyaku

    現場地図

    大きな地図で見る
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1995年
    【#43】警察庁長官狙撃事件
    警察庁長官狙撃事件(けいさつちょう-ちょうかん-そげき-じけん)は、1995年3月に日本の國松孝次警察庁長官が何者かに狙撃された事件。
    2010年3月に殺人罪の公訴時効(15年)を迎えた(未解決事件)。

    被害者 國松孝次(当時警察庁長官)
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    概要


    1995年3月30日午前8時30分頃、國松孝次警察庁長官が出勤のため東京都荒川区南千住の自宅マンションを出たところ、付近で待ち伏せていた男が拳銃を4回発砲。國松はそのうち3発を腹部などに受け、全治1年6ヵ月の瀕死の重傷を負った。男は自転車で逃走し、現場からは、朝鮮人民軍のバッジや大韓民国の10ウォン硬貨が見つかったという。
    狙撃から1時間後にテレビ朝日に電話がかかる。電話の声は國松孝次警察庁長官に続く次のターゲットとして井上幸彦警視総監や大森義夫内閣情報調査室長らの名前を挙げて教団への捜査を止めるように脅迫した。10日前の3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、オウム真理教に嫌疑が向けられて8日前の3月22日にオウム真理教関連施設への一斉強制捜査が行われていた。
    國松は手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥ったが、2ヵ月半後には公務へ復帰した。
    銃を発砲した犯人は黒っぽいレインコートに白いマスクをし、黒っぽい帽子を被っていたとされている。

    犯行現場
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    捜査


    オウム真理教の信者だった警視庁巡査長(当時31歳)は取り調べに対し、犯行の具体的な状況や、銃を神田川に捨てたことを1996年5月には詳細に供述していた。しかし、証拠品捜索の為にダイバーを投入しても銃が発見されないなど、供述に矛盾点が多いとして立件は1997年6月に見送られた。巡査長は教団幹部に情報を漏洩したとして1996年11月に懲戒免職され、1997年1月には地方公務員法違反容疑で書類送検されるものの起訴猶予処分となった。この供述は匿名の告発が報道機関に届き1996年10月に報道されるまで警察庁にも報告されず、警視庁は公安部長更迭と警視総監辞職で責任を取る事態に到った。
    またテレビ朝日に脅迫電話をかけたとして砂押光朗・教団建設省幹部が1995年9月に職務強要罪で逮捕された。最新の声紋鑑定機器での鑑定や電話の録音音声を複数の信者に聞かせた結果では90%の確率で同一人物とされたが「現段階での起訴は困難」として不起訴処分となった。

    捜査本部は1999年に捜査のやり直しを決定し、捜査員が元巡査長との接触を繰り返すと新たな供述が捜査結果と合致するようになったことから、事件発生から9年余りを経た2004年7月7日、元巡査長の会社員、岐部哲也・教団防衛庁長官(当時)、砂押光朗・教団建設省幹部の計3人が殺人未遂容疑で警視庁に逮捕された。 さらに、教祖・麻原彰晃の最側近だった当時の石川公一・教団法皇官房次官(事実上の長官)も島田裕巳宅爆弾事件の爆発物取締罰則違反容疑で別件逮捕された。しかし、容疑者の供述が二転三転し、他の3人も当初から「自分は関係ない」と事件との関わりを否認するなど、証拠固めが困難になってきたことや容疑者らと実行犯との関係と役割が解明出来ないことから、東京地検は勾留期限を前に全員を処分保留とし7月28日に釈放され、9月17日に不起訴となった。
    警視庁の特別捜査本部は、坂本堤弁護士一家殺害事件などで死刑判決を受けた教団幹部2人を実行犯と現場指揮役と疑っているが、教団幹部2人は犯行を否定している。
    2008年3月、オウム真理教とは関係ない別の強盗殺人未遂事件で逮捕された男が犯行を示唆する供述をしていると報道された。
    2010年3月30日午前0時に公訴時効到来(ただし、後述の強盗殺人未遂犯説については、事件後に計1年近く海外渡航しているため、刑事訴訟法第255条によって1年近く公訴時効が停止している)。
    30日には警視庁公安部が記者会見を開き、公訴時効が午前0時をもって成立したことと共に、この事件がオウム真理教の信者による組織的なテロであるとの所見を示した。この記者会見に対し識者から批判が相次ぎ、教団主流派で構成するアレフは、警視庁が捜査結果概要をホームページに公開したことについて名誉棄損による国家賠償訴訟を検討する意向を示した。
    公訴時効を受けて国松孝次元長官は、警視庁の捜査を「不合格の捜査」と評したが、自ら油断があったことを認めた。そして「時効は残念だが、苦労した捜査員にご苦労様と言いたい」と捜査員をねぎらった。また「狙撃事件は、自分の中で終わったか」との問いには、「被害者にとって絶対に忘れられない」と答えた。

    オウム犯行説と強盗殺人未遂犯説


    警察内部では公安部がオウム犯行説を主張し、刑事部が強盗殺人未遂犯を主張し、捜査方針が対立している。犯行直後の狙撃現場の証拠はオウム犯行説に分があるとされ、凶器に関する証拠については強盗殺人未遂犯説に分があるとされているが、どちらも決定的な決め手が欠けている。

    ■オウム犯行説
    公安部が主張するオウム犯行説の根拠は以下の通り。
    ・事件前日の午後に、警察庁長官が住むマンションでオウム信者が「警察国家」と題するビラを配布していたこと。

    ・事件翌日に信者が都内数ヶ所で配布した事件に関するビラの原案とされる元幹部のメモに弾丸が奇妙とする記述があり、弾丸は先端がくぼんだホローポイント弾であったが記述時点では報道されていなかったこと。

    ・元幹部と酷似する男が付近を自転車で走行する姿が複数目撃されていること。
    事件3日前の27日深夜から28日未明にオウム真理教信者だった警視庁巡査長が事件現場近くで職務質問された際に警察手帳を提示した等の供述から、元巡査長が現場の下見と思われる行為をしていたことは確実視されること。

    ・狙撃事件の1時間後にテレビ朝日に警視総監らの名前を挙げて教団への捜査をやめるように脅迫電話があったが、電話の声が教団幹部である砂押光朗と似ていたこと。

    ・事件現場に遺留された韓国10ウォン硬貨から元オウム信者の男のミトコンドリアDNAが検出されていること。

    ・元巡査長のコートや眼鏡やマスクに、拳銃を発射した際にできる付着物等が事件で使用された銃弾の火薬成分と矛盾しないとの鑑定結果が出ていること。

    またオウム犯行説の疑問点は以下の通り。
    ・過去の重大事件を認めてきたオウム教団幹部たちが長官狙撃事件だけは関与を一切認めていないこと。

    ・ホローポイント弾はオウムが武装化する前に製造中止となっていたこと。

    ■強盗殺人未遂犯説
    刑事部が主張する強盗殺人未遂犯説の根拠は以下の通り。
    ・被疑者である強盗殺人未遂犯が、1980年代後半に米国で偽名で事件で使用された拳銃パイソンとホローポイント弾も購入していたこと。

    ・被疑者が犯行後に東京の貸金庫に拳銃を格納したと供述し、事件から約1時間後に拳銃を保管していた東京の貸金庫の開扉記録が残っている。

    ・被疑者が事件2日前に警察官2人が警察庁長官宅を訪問している事実を把握しており、下見をしていた可能性が高いこと。

    ・被疑者のアジトから韓国10ウォン硬貨が発見されたこと。

    ・警察庁長官の住所を把握するために侵入したとされる、警察庁警備局長室の配置についての被疑者による証言が、実際の配置と一致していること。

    また強盗殺人未遂犯説の疑問点は以下の通り。
    ・現場の壁にあった繊維痕と火薬痕や目撃証言から推定される犯人の身長が被疑者と合致しないこと。
    ・事件時、被疑者が狙撃現場にいたという証拠が弱いこと。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1987年
    【#42】群馬小2女児殺害事件
    群馬小2女児殺害事件(ぐんましょうにじょじさつがいじけん)とは1987年に発生した殺人事件。

    概要


    1987年9月15日、群馬県尾島町に住む小学校2年生大沢朋子ちゃん(当時8歳)が子猫を抱いて自宅近くの尾島公園へ遊びに出かけたまま行方不明になる事件が発生。

    午前11時ごろ子猫を抱いて自宅近くの尾島公園に。午前11時半ごろに公園から600m離れた町道を朋子ちゃんが自転車を押した男に連れられて歩いているのを同級生や町民が目撃。Tシャツにスカートでサンダル履き。子猫は抱いていなかった。

    1988年11月27日、公園から約3キロ離れた利根川河川敷で釣り人が散乱した子供とみられる白骨死体の一部を発見。白骨死体は頭蓋骨を中心に、2~3メートルの範囲に散乱していたが、両腕の肘から先と両脚の膝から先が発見されなかった。警察は最後の目撃現場から近い場所であったこと、行方不明の時期と死亡推定時期がほぼ一致すること、白骨死体の血液型が朋子ちゃんと同じであったことから、白骨死体は行方不明となった朋子ちゃんである断定した。遺体発見現場から着衣など遺留品はほとんど無かった。
    捜査当局は延べ約5万9000人の捜査員を投入。捜査対象は約780人に及んだが容疑者を特定できず、2002年9月15日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。

    犯人像


    30歳前後、髪はぼさぼさで白髪交じり、自転車は前かごがついていないタイプ

    その他


    身代金目的の誘拐殺人事件としては戦後日本では捜査機関が犯人を特定できなかった唯一の未解決事件となった功明ちゃん誘拐殺人事件がこの事件の現場から約30キロほどの距離だった群馬県高崎市でこの事件の前日(9月14日)に発生し、同じ時期に公訴時効を迎えている。
    1988年8月22日から東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を起こしていた宮崎勤は3人目の女児を殺害した後で、1989年3月11日に「今田勇子」名義で犯行声明ともとれる告白文を朝日新聞本社と殺害された女児の家に送っているが、その告白文で昨年1988年に河川敷で白骨遺体が発見された群馬小2女児殺害事件について触れている。宮崎勤が犯した4事件の内の2事件が白骨遺体が両腕の肘から先と両脚の膝から先が分かれていたことや白骨遺体の現場が河川敷だったことなど、群馬小2女児殺害事件と共通点があった。そのため群馬小2女児殺害事件を宮崎勤の犯行と疑うメディアもあったが、殺害時期が宮崎勤の第1の殺害事件から1年近く前であることや事件現場がやや離れていることなどの問題があり、また宮崎勤と結びつける証拠がみつかなかったため宮崎勤の犯行としては立件されなかった。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1984年
    【#41】グリコ・森永事件
    グリコ・森永事件(グリコ・もりながじけん)は、1984年1985年に、京阪神を舞台として食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件である。警察庁広域重要指定114号事件。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ぶ。

    概要


    1984年3月の江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫放火を起こす。その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。また、犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。
    その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。
    1984年4月12日に警察庁広域重要指定事件に指定された。
    2000年(平成12年)2月13日に公訴時効が成立。警察庁広域重要指定事件としては初めて犯人を検挙出来なかった未解決事件となった。
    2005年3月に除斥期間(民法724条)が経過し、民法上の損害賠償請求権が消滅した。

    一連の脅迫事件


    ・江崎グリコ社長誘拐事件
    1984年(昭和59年)3月18日午後9時頃、兵庫県西宮市の江崎グリコ社長宅に拳銃と空気銃を構えた3人組の男が侵入。社長夫人(当時35歳)と長女(当時7歳)を襲い、二人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めた。その後、三人組の男は浴室に侵入。江崎勝久社長(当時42歳)を押さえ全裸のまま誘拐した。
    社長夫人はこの後、自力でテープをほどいて通報した。
    翌3月19日午前1時頃、高槻市の江崎グリコ取締役宅に犯人の男から指定の場所に来るよう電話がかかる。指定場所に行くと、社長の身代金として現金10億円と金塊100kgを要求する脅迫状があった。その後、犯人の男から電話がかかり別の指定場所に身代金を持って来るよう要求したが、結局犯人は現れなかった。
    その後、誘拐事件は急展開する。事件3日後の3月21日午後2時30分ごろ警察に江崎社長が保護された。江崎社長の供述によると大阪府摂津市の東海道新幹線車両基地近くを流れる、安威川沿いにある治水組合の作業小屋から、自力で抜け出したとされ、大阪貨物ターミナル駅構内で保護された[1]。
    社長の母や社長夫人が犯人に対して「お金なら出します」と言ったにも関わらず「金はいらん」と犯人が答えたこと、身代金誘拐が目的なら抵抗される可能性が少ない7歳の社長長女を誘拐するほうがリスクが少ないのにわざわざ成人男性である江崎社長を誘拐しているなど、身代金目的の誘拐としては不可解な点が存在する。

    ・江崎グリコ脅迫事件
    1984年4月2日に、江崎社長宅に差出人不明の脅迫状が届く。内容は4月8日に指定場所へ現金6000万円を持ってくるよう要求。脅迫状には塩酸入りの目薬の容器が同封されていた。4月8日に現金受け渡し指定場所に警察が張りこむも、犯人は現れなかった。
    4月23日、江崎グリコに1億2000万円を要求する脅迫状が届く。現金受け渡し日は4月24日に指定されていたが、レストランから高速サービスエリア、電話ボックスと現金を受け渡す運転手をたらい回しにし、犯人は現金受け渡しに現れなかった。
    5月31日、江崎グリコに3億円を要求する脅迫状が届く。6月2日に摂津市内のレストランの駐車場に3億円を積んだ車を置くことを指示。6月2日、警察は少し走ればエンストするよう細工した車を駐車場に置き、周辺には約30人の捜査員が張りこんで犯人を待ち受ける。午後8時45分頃、駐車場に不審な男が現れ、そのままカローラに乗りこんだ。しかし、すぐにエンストを起こし、追尾した警察によって取り押さえられた。しかし、男は犯人から脅されて、駐車場の車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示されただけで事件とは無関係と判明(後述の寝屋川アベック襲撃事件)。男が行く予定だった指定場所に車を向かわせ、警察が張り込んで午後11時頃まで待ったが、犯人は現れなかった。
    6月26日、「かい人21面相」からマスコミに挑戦状が届き、「江崎グリコゆるしたる」と江崎グリコへの脅迫収束宣言をする。

    ・江崎グリコ本社放火事件
    1984年4月10日午後8時50分頃、大阪府大阪市西淀川区の江崎グリコ本社で放火が発生。火元は工務部試作室であり、火は棟続きの作業員更衣室にも燃え移り、試作室約150m²は全焼。
    午後9時20分、本社から約3km離れたグリコ栄養食品でも車庫に止めてあったライトバンが放火される。こちらはすぐに消し止められた。犯人はガソリンの入った容器に布を詰めたものに火をつけていた。
    出火の直後には、帽子を被った不審な男がバッグを抱えて逃げるのが目撃されている。
    兵庫青酸菓子ばら撒き事件
    1984年5月10日に毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞、朝日新聞の4社にかい人21面相から「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」と挑戦状が届いた。
    さらに挑戦状には全国にばら撒くとの予告があり、挑戦状の終わりには「グリコを たべて はかばへ行こう」とまで書かれていた。その事態を受けて大手スーパーはグリコ製品の撤去を始めた。

    ・寝屋川アベック襲撃事件
    1984年6月2日、グリコ脅迫事件において指定されたレストランの駐車場より約2.8km離れた寝屋川市で、商事会社に勤める22歳男性と同僚で恋人の19歳女性が車でデートしていた。しかし、停車中に午後8時15分頃に男三人組に襲われる。22歳男性は元自衛隊員で腕力に自信はあったが、男三人組に顔や頭を殴られ抵抗できなかった。男三人組は無抵抗となった22歳男性を車に押し戻し、黒い布袋をかぶせた。
    一人は別の車に19歳女性を連れ去り、残る二人組が22歳男性の車に乗りこみ、22歳男性にグリコ脅迫事件において指定されたレストランの近くまで運転しないと女性の命を保障しないと脅迫され、犯人の言われるままに行動。レストランの近くまで運転すると、駐車場にある車に乗り込んで降ろされ、駐車場の車に乗って別の指定場所まで運転するよう指示された。その後、警察に犯人と誤認され捕獲された。
    一方、19歳女性は別の車に乗せられ、午後9時半頃に降ろされた。19歳女性は犯人からタクシー代として2000円を渡されている。
    6月3日未明、22歳男性の車が寝屋川市の神社の参道に乗り捨ててあるのが発見された。

    ・丸大食品脅迫事件
    1984年6月22日、大阪府高槻市の丸大食品に脅迫状が届く。内容は「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」というものだった。犯人はこの裏取引に応じる合図としてパート従業員募集の新聞広告の掲載を求め、高槻市の常務宅に現金をボストンバッグに用意して待機するよう要求。丸大は要求を呑むことにした。
    1984年6月28日午後8時3分、犯人からの電話があった。「女性による録音テープ」で指定場所に来るよう指示。私服刑事数人が丸大社員になりすまして指定場所に行くと、国鉄高槻駅で指定する時間の京都駅行き電車に乗って左側の窓に白い旗が見え次第車窓から金を詰めたボストンバッグを投げ落とせと指示するタイプ文字の指示書があった。私服刑事はボストンバッグを投げ落とさず高槻駅から終点の京都駅まで乗ることになった。
    しかし、車内に配置された私服刑事の1人が不審な男を発見。キツネ目の不審男は私服刑事を見張っていた。さらに刑事達が乗った帰りの電車に、キツネ目の男が乗り込む。刑事達は別に尾行班を設けキツネ目の男をマークする。ただし、警察上層部は現場の刑事に逮捕権限を与えず、命令があるまで接触しないよう行動を制限していたため、それ以上のことはできなかった。結局、キツネ目の男は駅を下りると、改札口を出た後の雑踏に紛れ、刑事はキツネ目の男の姿を見失った。
    1984年7月にも丸大食品取締役宅に現金を要求する脅迫状が届く。7月6日午後8時7分、犯人からの「子どもの声の録音テープ」で指定場所に来るよう指示。指示場所は4回にも及び、最後の指定場所に現金を詰めたバッグを置くよう指示があったが、結局犯人は現れなかった。
    森永製菓脅迫事件が発覚した後の11月になって犯人がマスコミへの手紙に高槻市の食品会社を脅迫したとし「わるでもええ かい人21面相になってくれたら」と丸大食品のキャッチコピー「わんぱくでも たくましく育ってほしい」をもじった言葉を使ったことで、犯人が丸大食品への脅迫したことが暴露されたため、丸大食品への脅迫が世間に知られるようになった。

    ・森永製菓脅迫事件
    1984年9月12日朝、大阪府大阪市の森永製菓関西販売本部に数千万円を要求する脅迫状が届く。脅迫状には「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と書かれており、青酸入りの菓子が同封されていた。また脅迫状には、グリコが犯人グループに6億円を支払ったと書かれていたが、真偽のほどは定かではない。
    9月18日に犯人から関西支社に電話があり、電話は子どもの声を現金の受け渡し場所を指定したものが録音されており、同じ内容が5回繰り返した。その後、指定場所に行くと別の指定場所で現金を置くよう指示があり、現金を入れるも、犯人は姿を現さなかった。この電話は10月11日に一般に公開された。

    ・二府二県青酸入り菓子ばら撒き事件
    10月7日から10月13日にかけて、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県のスーパーから不審な森永製品が発見された。
    「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った森永製品が置かれており、菓子の中に青酸ソーダが混入されていた。青酸入り菓子は13個発見された。
    この間の10月8日には阪急百貨店などにも森永製品を置かないよう要求する脅迫状が届いた。この脅迫状の中では「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」とまで宣言している。
    10月15日にはNHK大阪放送局が青酸ソーダの錠剤を送りつけられた。新聞各社への挑戦状にはこの青酸ソーダで何人殺せるかというクイズを出し、「賞品」は青酸入り森永製品、「宛先」は「刑死ちょう そうむ部きかく課長」(原文ママ)と記されていた。

    ・ハウス食品脅迫事件
    1984年11月7日、ハウス食品工業総務部長宅に脅迫状が届く。浦上社長宛ての脅迫状は現金1億円を要求する内容で、現金受け渡し日は11月14日、場所は伏見のレストランというように指定されており、別の脅迫状には青酸ソーダ混入の「ハウスシチュー」が同封されていた。
    11月14日、指定されたレストランの駐車場には現金1億円を積んだ車を待機させ、車内にはハウス食品社員に変装した刑事、周囲にも多数の警官が配置された。
    午後8時20分、脅迫状の予告どおり犯人からの総務部長宅に電話連絡がかかる。女の子の声で録音されたテープで現金受け渡し場所を指定。これを機に警察は大阪・京都に捜査網を敷いた。指定場所へ行くと別の場所を指定するメモが残されており、場所変更は4回繰り返された。幾度かの場所変更指示によって、現金を乗せた車が「大津サービスエリア」に向かった。しかし、大津のある滋賀県警はこの捜査網に入っておらず、この脅迫情報も一切知らされていなかった。しかも指定場所の付近には無線通信が不能の場所があったため、警察にとっては最悪の展開となる。
    大津サービスエリアで現金輸送車の様子を伺う不審者が刑事に目撃される。不審者の人相は、丸大脅迫事件に目撃された「キツネ目の男」と一致。刑事は「キツネ目の男」を注意深く尾行したが、そのまま一般道路の方へ逃げられてしまう。
    現金輸送車は指示通り草津パーキングエリアへ向かった。そこで、「名古屋方面に向かい、白い布が見えたら、白い布の下の缶に入れた指示書を見ろ」という指示書を受ける。現金輸送車が到着するよりも先に、白い布が草津PAから東へ5kmの地点の道路脇の防護フェンスに取り付けられているのが発見された。道路管理局の巡回記録によると、14日午後8時50分から午後9時18分の間に取りつけられたものと判明。白い布がつけられた防護フェンスの場所は、県道川辺-御園線が交差していた。警察はこの県道と名神の交差部分を封鎖したが、問題の空き缶がなかった。犯人らしい男も姿を見せず、午後10時20分に捜査は打ち切られた。
    一方、白い布があった場所の付近で、一連の事件捜査を知らない滋賀県警のパトカーが、夜なのに無灯火の不審な白いライトバンを発見。滋賀県警の警官が職務質問するために白のライトバンに駆け寄りライトを照らすと、運転席に男がいた。しかし、白のライトバンは急に発進。白のライトバンはパトカーと激しいカーチェイスを繰り広げパトカーを振り切った。午後9時25分、白いライトバンが発見されたが、男の姿はなかった。白いライトバンは11月12日に盗難された車と判明した。
    11月19日、ハウス食品工業課長に脅迫状が届く。11月14日の現金輸送車を監視状況が書かれていた。また今は森永相手にしており、暇になったら連絡するとも書かれており、事実上の脅迫休止宣言とも受け取れた。

    ・不二家脅迫事件
    1984年12月7日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。脅迫状にはテープと青酸ソーダが同封されていた。
    12月15日、不二家の労務部長宅に脅迫状が届く。12月24日に大阪梅田の百貨店屋上から2000万円ばらまくことを要求。不二家は従わなかった。
    12月26日、東京のスーパー社長宅に脅迫状が届く。1月5日に不二家に池袋のビル屋上から2000万円ばらまくことを要求。不二家は従わなかった。
    1985年1月11日に 不二家脅迫事件が初めて報道され、かい人21面相が不二家を脅迫していたことが明らかとなった。
    なお事件発生前の1984年12月4日にアマチュア無線の7MHz帯オフバンドにて「21面相、こちら玉三郎」「クスリは用意できたか」「ひと、ふた、ひと、ろく(12月16日を指す?)、航空券が往復確実に取れてR6(電気通信管理局の管轄エリア番号で沖縄を指す?)へ行く場合は日帰りで必ずアシがつかないように戻ってくるように」「不二家はやっぱり金払わんちゅうとんのけ」「不二家あきらめたほうがええわなこりゃ」などいう「21面相」と「玉三郎」を名乗る2人の通信が北海道岩内郡のアマチュア無線家によってたまたま傍受録音され、過去にテレビで放映された。捜査本部は犯人グループの可能性が高いと判断して、捜査が行われた。

    ・東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件
    バレンタインデー直前の1985年2月13日に報道機関にバレンタインデー粉砕を主張する挑戦状が届く。これと前後して東京都と愛知県で「どくいり きけん」と書かれた青酸入り菓子が相次いで発見される。

    ・駿河屋脅迫事件
    1985年2月24日、マスコミに森永製菓への脅迫を終結させる休戦状が届いた。
    その直後の同年3月6日、和歌山県の老舗和菓子会社の駿河屋に5000万円を要求する脅迫状が届く。
    しかし、3月8日に犯人から現金受け渡しを延期する旨の通告が届く。その後、犯人から駿河屋への連絡はなかった。
    事件の終息
    1985年8月12日、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや…悪党人生 おもろいで」との終息宣言が送りつけられた。理由は、その5日前の8月7日、自身の退職の日に焼身自殺した滋賀県警本部長への香典代わりというものであった。
    この終息宣言の後完全に犯人の動きがなくなり、2000年2月13日午前零時に東京・愛知で青酸入りの菓子をバラまいた2件の殺人未遂事件とこれにかかわる28件すべてに公訴時効が成立した。犯人(かい人21面相こと、キツネ目の男たち)の正体及び動機は不明のままである。

    関連事件


    ・53年テープ
    事件発生の6年前になる1978年(昭和53年)8月17日にグリコに金を要求するテープがグリコ常務に送られた事件である。テープの内容は部落解放同盟幹部を名乗る初老の男性の声で、江崎社長の誘拐、グリコへの放火、青酸入り菓子のばら撒き、連絡に新聞広告を使うなど、後のグリコへの犯行を予告するような内容であった。送り主の男は過激派の学生が計画しているというこの犯行を抑えられないまでも3億円の要求額を1億7500万円に減額できるとして金を要求し、応じるなら指定した手法の新聞広告を出すこととなっていた(グリコは応じなかった)。

    グリコ・森永事件の捜査本部はこの送り主の男をグリコ・森永事件の犯人グループの一味と断定して、犯人グループの一員と目された人物の声紋鑑定の材料にした。また、このテープの存在が犯人グループの過激派説の一因ともなった。

    ニセ夜間金庫事件
    1973年に大阪で起きた大阪ニセ夜間金庫事件もグリコ・森永事件と関係があるのではないかと取り沙汰された。1984年9月18日に森永に1億円を要求した際、マンホールの上に置いた衣装箱の底から1億円を奪取するというトリックじみた手口がニセ夜間金庫事件と類似しているというものであった。

    事件の特徴


    単なる誘拐事件と最初は思われていたが、大手食品会社が次々と脅迫され、実際にシアン化ナトリウム入りの食品がばら撒かれるなど、当時の社会に与えた影響は計り知れないものがあった。また企業への脅迫状とは別に、挑戦状を新聞社や週刊誌に送りつけ、その内容は警察をあざ笑うような内容が多く、自分達の遺留品の細かい出所まで書いたり、失態の責任を取って焼身自殺した[5]滋賀県警本部長(ノンキャリアながら本部長まで出世した人物であった)を「男らしゅうに」と表現し、それと対比させてキャリア出身の責任者を貶めたりするなどしていた。また、江崎グリコと森永製菓は創業者が佐賀県出身なのも共通する。

    犯行の際の遺留品の多さにもかかわらず、遺留品が大量に、広範に流通された商品なので犯人の特定には至らなかった。また、特殊な職種でしか使用されないと言われている廃棄物から捜査が行われたが、犯人に結びつく結果は生まれなかった。なお、犯人も終息宣言の後は一切活動をしていない。警察発表では「犯人は何も得てはいない」ということになっているので、一連の犯行の目的が何であったかは不明のままである。前述の通り、犯人側は1984年9月12日に森永製菓に送りつけた脅迫状の中で、グリコは6億円を支払ったとほのめかしているが、グリコをはじめとする被害にあったメーカーは犯人側への金の支払いを否定している。また、一説には、脅迫を受けた企業の株価が乱高下しており、それにより利益を得た、あるいは株価の操作そのものが目的だったとする説もある。
    脅迫事件において検挙の手がかりとなることの多い犯人と被害者との接触では、児童に要求を伝える電話をかけさせたり、現金の授受に当たって無関係な市民を拘禁・脅迫の上受け取り役に仕立てるといった、従来の常識からは想定外の手口を使い、これも捜査を困難なものにした。また企業から犯人への連絡手段に対しては、犯人が企業に対して要求に応ずる合図として指定された方法での新聞広告を出すことを要求していたことが明らかになっている。

    犯行の際に警察無線が傍受されていたのが遺留品から判明した為、警察無線が傍受されると会話の内容が分かるアナログ方式から、既に警視庁で一部導入が始まっていた傍受されても会話の内容が分からないよう暗号化されたデジタル方式への転換を進めるきっかけになった。グリコ・森永事件の捜査においては、警察は傍受を警戒して、当時、警視庁に数台しかなかったデジタル方式の警察無線で連絡を取っていた。
    また、警察が「殺人未遂事件」として捜査したシアン化ナトリウム入り食品に関しても、『シアン化ナトリウムが入っていた食品には必ず「どくいり きけん たべたら しぬで」の紙が張られていたのでその罪状が当てはまらないのではないか?』とする意見がある。この点の不備を補うべく、グリコ法こと流通食品への毒物の混入等の防止等に関する特別措置法が制定された。
    また、これ以降江崎グリコ製品の包装は、開封された場合元に戻せないようになっている(一時期は商品にフィルム包装をかけていたこともあった)。
    犯人は1年半の間に、警察には挑戦状、企業と報道機関に脅迫状と挑戦状計144通を出している。
    結果として毒入り食品による死者は発生せず、また誘拐放火などにより命を落とした人もいなかった。そのため、凶悪な事件であるにもかかわらず、市民の中には「かいじん21面相は憎めない奴」と共感する人も少なからずいた。犯人がキャリア警官を嘲笑したり、アフリカ飢餓への募金を呼びかけるなどしたことも、「義賊」の印象を与えた。また犯人は同時期に世間を騒がせていた警察庁広域重要指定115事件やロス疑惑についても言及をしている。

    犯人像の推測


    この事件の犯人者については、 「北朝鮮の工作員」、 「大阪ニセ夜間金庫事件の犯人」、「総会屋」、「株価操作を狙った仕手グループ」、「元あるいは現職警察官」 、「元左翼活動家」、各種の陰謀説など多くの説があり、未だに議論は尽きていない。「キツネ目の男」と呼ばれる不審者の似顔絵も作成された。

    キツネ目の男似顔絵
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    防犯ビデオに映った容疑者
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    41_bouhan2


    ・元グリコ関係者説
    江崎家やグリコの内部事情に犯人グループが通じていたことから出た説である。
    具体的には江崎社長誘拐の実行犯が江崎社長の長女の名前を呼んだこと、江崎社長誘拐における身代金要求の脅迫状で社長運転手の名前を名指ししたこと、江崎社長を水防倉庫に監禁した時に江崎社長に着せていたコートが戦前から戦中にかけてのグリコ青年学校のものだったこと、グリコがすぐ10億円を用意できることを知っていたことなどである。他にも人質を取ったり放火したりしたことや、脅迫状ではグリコ以外の会社の社長を「羽賀」「松崎」「浦上」「藤井」と苗字で書く中で江崎社長のみ「勝久」と名前で書いていることなど他の企業を脅迫したときにはない特徴があることからグループの中にグリコに怨みを持つ者がいるのではないかと言われる。
    他にも53年テープと呼ばれる昭和53年にグリコに送られたテープの存在もグリコへの怨恨が原点にあるという説の補強材料になっている。

    ・株価操作説
    株価操作説の場合、1984年1月時点で745円だったグリコ株は、社長誘拐・工場放火事件があった翌日5月17日には、598円にまで下がっている。即ち、商品に不信を抱かれることによる株価下落を前提にすれば、結果24.5%の利益を得られたとも考えられる。加えて事件の終息宣言を受けて値が戻ることも前提にすれば、底値と思われる時点で買いに転じてさらに利益も得られる計算になる。
    『週刊現代』で株式情報の担当記者をしたことのある作家の宮崎学は、単純に市場で株式売買するのではなく、企業に自社株を買い取らせる仕手で100億円の利益が得られる可能性を指摘している。宮崎学に任意聴取した刑事もこの説を宮崎に述べたという。
    警察でも、現金奪取はカムフラージュで株価操作による利益が目的だった可能性を考えて、事件に関係した企業の「空売り・買い戻し」で目立った動きをした人物や団体は徹底的にチェックしていた。中でも当時ビデオセラーという会社を運営していた仕手グループは最重要監視対象として目をつけられていたという。

    ・被差別部落説
    この事件に関しては、被差別部落関係者が関与しているという説もある。その根拠は、9月18日の森永の男児の声による脅迫テープの周辺環境の音の中に皮革製品に使用される独特のミシンの音が分析の結果入っているということ、犯人グループが使用したもののほとんどがマイノリティの多い町の近くのスーパーで購入されていた、というものであった[16]。しかし、被差別部落関係に対する捜査は、部落解放同盟が抗議をしたため、捜査が打ち切られたと作家の宮崎学はしている[17]。被差別部落出身者の関与については、一橋文哉によるノンフィクション『闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相』でXとしてほのめかされ、この事件をモチーフにした高村薫の小説『レディ・ジョーカー』でも扱われている。

    ・宮崎学説
    犯人グループの一人と目されたキツネ目の男に酷似していること、過去にマスメディアを操作して警察と敵対したこと、会社を倒産させて借金を抱えていたこと、地理的条件やアウトローとの人脈から疑われたが、アリバイがあったことと物証がなかったことから、捜査が打ち切られた。宮崎は『噂の真相』1985年10月号で事件に関して語り、その後も1996年に出した自伝『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた五十年』で触れたり、『グリコ・森永事件最重要参考人M』を著したりするなどした。宮崎の友人の大谷昭宏は『グリコ・森永事件最重要参考人M』や同時期のテレビ番組で、宮崎のことを犯人として疑い、宮崎からの反論を受けた。後に大谷は2005年に出演したテレビ番組の中で、「実はまだ少し疑っている」という旨を笑い話として述べた。大谷は2007年6月に発行された「こちら大阪社会部+α社長誘拐スクープ編」のあとがきでも、同じ趣旨のことを述べた。
    北朝鮮工作員グループ
    事件終結後に産経新聞や週刊文春で報じられた捜査線上で浮上して北朝鮮の工作員関係者のグループである。53年テープの声に似た人物が北朝鮮工作員で、その周辺にキツネの男やビデオの男によく似た人物がおり、犯人グループがグリコに要求していた100kgの金塊を持っていたことから、捜査が行われた。ただし、これは北朝鮮の国家的謀略というものではなく、金策に困った北朝鮮工作員のグループの犯行ではないかと見られていた。しかし1998年に行われた首謀者と目された人物の声紋鑑定やグループ内でキツネ目の男やビデオの男と疑われた人物の面割捜査で、別人であるという結論があり、捜査が打ち切られたという。

    ・元暴力団組長グループ
    1990年頃から捜査本部がターゲットに絞ったのが暴力団の元組長の実業家を中心とするグループである。元組長が1979年にグリコから5億円を脅し取ろうとして拒否された過去があること、元組長の銀行口座に被害にあった企業の関係者から3億円の入金があったこと、犯行に使われたのと同種の和文タイプライターやタクシー払い下げ車輌を親族が所有していること、グリコに恨みを持つ人物が周辺にいたこと、53年テープに登場する人物と接点があることなどが疑惑の根拠となった。捜査本部は1992年3月に元組長を始めとするグループに任意同行を求めて事情聴取を行ったが、容疑を認める者は誰もおらず、物証もなかった。また、主要なメンバーにはアリバイもあった。捜査本部が最後に総力を挙げて取り組み、グリコ・森永事件の捜査史上最大とも言われるこのグループへの捜査だったが、これをもって事実上グリコ・森永事件の捜査は終了した。

    その他


    なお、この事件で江崎グリコに次いで脅迫されたのは丸大食品であったが、当初この事実は捜査当局により伏せられ、三社目に森永製菓が脅迫された事件を毎日新聞がスクープし連続脅迫が発覚、社会に衝撃を与えた(当局は当初、便乗犯であり誤報だとの態度をとったが、その後犯人側の声明文で確認された)。事件が「グリコ・丸大事件」ではなく「グリコ・森永事件」と呼ばれるのはこのためとみられる。
    また、犯人グループは読売新聞社に宛てた挑戦状でおよそ30年前の1955年に森永製菓の関連会社である森永乳業が引き起こした森永ヒ素ミルク中毒事件を例に挙げ「森永 まえ ひそで どくのこわさ しっとるやないか」と森永製菓を挑発していた。同じ挑戦状では明治製菓が当時売り上げ1位で、グリコの次は明治が狙われると誰もがそう思う、だから明治(を標的にするの)はやめた、という旨も書かれている。
    山瀬まみがTBSのブロードキャスターで証言したところによると、山瀬の父親は森永製菓の社員だったので、当時の山瀬の家庭は事件の影響を受けた。また安倍昭恵は父親が森永製菓の社長だったことから、本人にも警察の護衛がついた。
    作詞家の川内康範は、週刊誌上(週刊読売)にて犯人に対し「私財1億2000万円を提供するから、この事件から手をひけ」と呼びかけた。
    犯人が事件終結を宣言した1985年8月12日に日本航空123便墜落事故が発生している。この事故の犠牲者にはグリコ森永事件で脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長もいた。その他、「犯人が事故機に搭乗していたのでは」といった陰謀説も唱えられたが確たる証拠はない。
    俳優の京本政樹が事件で使用された和文タイプライターと同じ型のものを使っていたので、一時、捜査線上に浮かんでいたことを、京本がテレビ番組で告白している。
    河内音頭家元の河内家菊水丸は、事件をモチーフにした曲「グリコ・森永大事件」を発表したところ、警察から事情聴取を受けたと自著本で告白している。
    事件当時の大阪府警察本部長、四方修は退官後マイカル系列のメンテナンス会社、ジャパンメンテナンス(現在のイオンディライト)社長に就任。その後マイカル本社の社長に就任したが、マイカルは2001年に経営破綻、そのごたごたの中で解任されている。
    アマチュア無線用の145MHz帯ハンディー機を受信改造して当時のアナログ警察無線を傍受したり、不二家脅迫事件での無線でやり取りをするなど無線通信に対する知識も高いとされている。
    なお、ハウス食品脅迫事件では、人質事件以外では極めて稀な報道協定が締結された。しかし、この協定には疑問の意見が噴出し、まず日本新聞協会に属さない新左翼系の『人民新聞』が報道し、続けて日本雑誌協会に属さない『噂の真相』の記事が決定打となって、『噂の真相』の発売日に事件未解決にもかかわらず、報道協定は解除された。この報道協定の件は、「かい人21面相」も「報道の自由の自殺やないか」と批判している。
    犯人からの手紙にも登場する音響研究所の鈴木松美所長はテレビ番組「平成日本のよふけ」「ビーバップ!ハイヒール」において、電話音声解析の結果、録音されたテープから流れる脅迫文の発信源である公衆電話、またその脅迫文を朗読したと思しき子供・その声を録音した団地・部屋(鈴木は電話が繋がるまでの時間・声の主の方言やイントネーションなどから解析)まで特定出来たが、なぜかその後の捜査の進展は無かったようで、この件に関してなにか事情があったのかも含めて真相は分からないと述べた(声の主と思しき子供については「声変わり」もあり断定が出来なかった、とも述べている)。
    1985年に起きた大阪連続バラバラ殺人事件では犯人が「怪人22面相」とした犯行声明を警察に送り届けた。最初はグリコ森永事件のかい人21面相を真似たイタズラと推測されたが、届いた手紙の当時公開していなかった殺害内容の詳細な記述があったことから犯人によるものと判明。犯人は1995年に逮捕された。
    1999年12月に大阪府摂津市で発生した身代金誘拐事件の摂津小2女児誘拐事件は、大阪・誘拐・関西弁・身代金受け取り場所指示などで、グリコ・森永事件と共通点が指摘された(2000年4月の犯人逮捕されたが、関連はないことが判明している)。

    類似事件


    本事件に先立つ1982年、アメリカで、ジョンソン・エンド・ジョンソン社のタイレノールにシアン化カリウムが混入され、7名が死亡する事件(en:1982 Chicago Tylenol murders)が発生している。
    また、事件発生した1984年には、かい人21面相に便乗して模倣犯が食品企業を脅した企業恐喝事件が31件発生したが、全て摘発された(1984年の事件で唯一摘発されなかったのが、本家本元のグリコ・森永事件である)。その後、事件を模倣した犯罪は444件に上り、うち206件が検挙された。この中には小中学生がファミコンほしさにネスレ日本を恐喝する、という事件もあった。
    これらの便乗犯を筑波大学の小田晋教授は「コバンザメ犯罪」と名付けた。本物の犯人グループも脅迫状で偽者との取り引きに応じないように企業に呼びかけた。なお、犯人グループは江崎勝久グリコ社長の声を録音したテープを同封することで自らが本物である証としていた。
    台湾では千面人として報道され、グリコ・森永事件のかい人21面相は有名だったという。1984年12月27日に台中市に住む34歳の男がグリコ・森永事件を真似て、インスタントラーメンに毒を入れたとして食品会社に日本円にして1億5千万円を要求、41時間後に逮捕されるという事件があった。さらに2005年5月、台湾・台中市のコンビニエンスストアの店頭で、シアン化物の混入された瓶入り栄養ドリンク「蛮牛」が置かれ、それを購入・飲用した4人が相次いでシアン化物中毒症状を引き起こし、うち55歳の男性が5月18日深夜に死亡、2名が重体となった。この栄養ドリンクにはパソコンのプリンターで「有毒、勿喝」(毒入り。飲むな)と印刷されたシールが添付され、グリコ・森永事件を真似た悪質な悪戯として現地マスコミが大々的に報道した。また台湾の衛生当局は保力達ブランドの商品を安全が確認されるまで発売しないように通達した。5月27日に40歳の男が逮捕され、恐喝を目的としグリコ・森永事件を真似たものであると供述した。(zh:毒蠻牛事件)
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1995年
    【#40】倉敷市児島老夫婦殺人事件
    倉敷市児島老夫婦殺人事件 (くらしきしこじまろうふうふさつじんじけん)とは1995年4月に岡山県倉敷市で発生した殺人事件。
    犯人は検挙されておらず、2010年4月現在で未解決となっている。

    概要


    1995年4月28日の未明、倉敷市児島上の民家が全焼。焼け跡から自宅の1階から被害者夫婦(事件当時夫70歳、妻66歳)の遺体が見つかった。夫は腹に包丁が刺さったままの状態で、妻も胸などに刺し傷が数ヶ所あり、夫婦共に頭部が持ち去られていた。
    司法解剖の結果、死亡推定時刻は前日の27日夕から夜にかけてと見られる。
    岡山県警児島署捜査本部は、夫婦が近くに付近の山林を所有していたことや残虐な手口に着目し、トラブルの有無を調べてきたが、自宅が全焼してしまったために物証は乏しく、現在まで有力な手がかりを得ることが出来ていない。また、頭部の行方は今でも判明していない。

    公訴時効の廃止


    事件発生時の法律では殺人罪の公訴時効が15年であったため、2010年4月28日午前0時をもって時効が成立するはずであったが、その前日の4月27日午後1時に殺人罪の公訴時効廃止などが盛り込まれた刑事訴訟法並びに刑法の改正案が成立し、即日施行されたため、残り数時間のところで時効切れは回避された。この法改正によって時効成立を免れた最も古い殺人事件である。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2005年
    【#39】郡上市和良町夫婦強盗殺人事件
    郡上市和良町夫婦強盗殺人事件(ぐじょうしわらちょうふうふごうとうさつじんじけん)とは、2005年1月 に岐阜県郡上市和良町で発生した強盗殺人事件。2010年4月現在で未解決事件となっている。

    概要


    2005年1月31日午前8時55分ごろ、郡上市和良町土京地内の被害者夫婦が住む自宅前の空き地に、無職蒲録郎(当時81歳)が倒れているのを付近の住人が発見、警察に通報した。警察官が駆けつけると、蒲さんは頭を鈍器で殴れられた痕があり、横向きに倒れて毛布を掛けられていた。さらに、蒲さんの自宅車庫の裏で、妻田恵さん(当時78歳)がうつぶせで倒れているのを警察官が発見した。死因は夫婦ともに首を刃物で切られたことによる失血死。
    室内は荒らされており、特に仏間はもっと激しく荒らされており、遺影の額縁が外されや小物入れの引き出しをそのまま持ち去れていた。被害者宅にあった、セカンドバッグも奪われていた。
    事件発覚の前日の30日昼に夫が地元の老人会の総会に支部長として出席しており、事件はその日の深夜に発生した。

    現場付近略図
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1962年
    【#38】草加次郎事件
    草加次郎事件(くさかじろうじけん/そうかじろうじけん)は1962年から1963年に起きた爆破脅迫狙撃など一連の事件のこと。1978年9月5日に公訴時効が成立し、戦後の未解決事件として日本の犯罪史に名を残した。

    概要


    1962年11月4日の歌手の島倉千代子(当時24歳)後援会事務所から12月12日の浅草の浅草寺まで、計6件の爆弾事件が発生(3件は爆破未遂)。これらの爆発物には「草加次郎」という文字が書かれていた。時に爆発物は、石川啄木詩集や、ポケットミステリのエラリー・クイーンなどに偽装されることもあった。
    1963年5月から7月にかけて女優の吉永小百合(当時18歳)宅に計6回に渡って、「草加次郎」名義で脅迫状が届く。
    1963年7月15日、上野公園おでん屋台店主を銃撃する事件が発生。10日後、上野署におでん屋店主を狙撃したときと同じ弾丸が入った封筒が「草加次郎」名義で届き、「草加次郎」と同一犯と判明。
    1963年7月から8月にかけて渋谷東横デパート(現・東急百貨店東横店)に現金を要求する脅迫電話がかかったり、爆発事件が発生している。過去の草加次郎事件と酷似しているが、爆発物と脅迫状の筆跡が違うことから、「草加次郎」の名を騙った者の犯行ではないかとする見方も存在した。
    1963年9月5日には乗客13名に重軽傷を負わせた営団地下鉄銀座線爆破事件が発生。
    1963年9月6日に、吉永小百合宅に7回目の脅迫状が届き、内容は9月9日または9月10日に100万円を要求するものであった。
    脅迫状に則ったやり方で100万円を用意し犯人を待ち構えるが、結局犯人は受け取りに来なかった。その後、犯人の動きは全くなくなった。
    警察は捜査員は延べ1万9000人を投入、容疑者は火薬マニアなど9600人をリストアップ。「草加次郎」は指紋と筆跡を残していたが、犯人を特定することはできなかった。
    1978年9月5日に全ての事件で公訴時効が成立した。
    一部では、警察が秘密裏に事件を解決したという噂があるが、定かではない。

    一連の事件


    ・島倉千代子援護会事務所爆発事件
    1962年11月4日午前11時頃、歌手の島倉千代子(当時24歳)後援会事務所に差出人名のない二重になった封筒が届いた。23歳の男性事務職員が封を開けると、中から細長い筒が出てきた。筒の中には紙が入っており、その紙を引っぱると筒が爆発した。筒から炎と白煙があがった。男性事務職員は右手に2週間の火傷を負った。
    筒から紙を取り出すと、中に仕込んであるマッチがこすれて火薬に引火する仕掛けになっていた。筒の裏には「草加次郎」と「K」と書かれていた。

    ・麻布バーホステス宅爆発未遂事件
    1962年11月13日、東京都港区に住む41歳のバーホステス宛てに島倉後援事務所と同じ円筒型小包爆弾が届くが、不発に終わった。
    これには「草加次郎」とは一字違いの「杉加次郎」と書かれていたが、捜査当局は筆跡鑑定の結果、「草加次郎」と同一人物と判明した。

    ・ニュー東宝劇場爆発事件
    1962年11月20日午後5時過ぎ、東京都千代田区有楽町のニュー東宝映画劇場(現在のTOHOシネマズ有楽座)で映画を見終わった19歳の女性観客が3階ロビーのソファーにあった円筒を触ったところ、筒が突然爆発した。女性は1週間の火傷を負う。
    この筒にも「草加次郎」と書かれていた。

    ・日比谷劇場爆発事件
    1962年11月26日午後4時半頃、ニュー東宝近くの日比谷映画劇場で2階男性トイレを掃除していた47歳の女性従業員が、掃除を終えて廊下に出ようとドアを開けると、手洗い台の上に置いていた筒が開けたドアからの風で落下して爆発した。怪我人はなかった。
    この筒には火薬と乾電池が詰められ電気回路でつないであり、箱に衝撃を与えると電気が流れて発火する仕組みになっていた。
    この筒にも「草加次郎」と書かれていた。この筒から指紋が検出された。

    ・世田谷・電話ボックス爆発事件
    1962年11月29日午後5時半頃、東京都世田谷区の公衆電話ボックスに入った25歳の男性会社員が棚の上にあった『石川啄木詩集』を発見。会社員は本を手に取り、ケースと本の間に名前が書かれたしおりのような紙切れを引いた瞬間に爆発。会社員は左手に5日間の火傷を負った。
    本の真ん中には穴がくり抜いてあり、その穴にニクロム線を配線した電池と黒色火薬が詰められていた。しおりのような紙切れを引くと火薬が発火する仕組みになっていた。
    しおりのような紙切れには「草加次郎」と書かれていた。

    ・浅草寺爆発未遂事件
    1962年12月12日午後8時頃、東京都台東区の浅草寺境内で新書サイズのエラリー・クイーンの推理小説を夜警の同寺の警備員が発見。本が開かないため表紙を破ると、中には火薬と乾電池2個が仕掛けられていたことが判明。
    この爆弾は爆発はしなかったため、未遂に終わった。構造は世田谷事件と全く同じものであった。

    ・吉永小百合脅迫事件
    1963年の5月から8月にかけて女優の吉永小百合(当時24歳)宅で、「草加次郎」名の6通の脅迫状が届いた。脅迫状にはおでん屋台主に撃ちこんだ弾丸と同じ弾丸が入っており、内容は100万円を要求するものであった。1回から4回では小百合の父親に上野駅前の喫茶店にくるように指定したが、犯人は現れなかった。
    1963年9月6日に届いた「草加次郎」の7通目の脅迫状には、9月9日または9月10日に「草加次郎」が指定した急行列車から現金投下のサインの場所で100万円を投下させるという現金の受渡し方法を提示。過去の6回の脅迫状と異なり、時限爆弾を示す絵が入っていた。
    だが、9月9日と9月10日に列車に乗り込むも、現金投下のサインは現れなかった。

    ・上野公園おでん屋台店主銃撃事件
    1963年7月15日午後7時45分頃、東京都台東区の上野公園のおでん屋台を開いていた27歳男性が何者かによって撃たれて病院に運ばれ、全治3ヶ月の重傷を負った。
    事件から10日後の7月25日、上野署に1通の封書が届く。封筒の中には弾丸が一発だけ入っているだけで、他に手紙らしいものはなかった。この弾丸は鑑識の結果、おでん屋台主の体から摘出した弾丸と材質や大きさが同じであった。
    封筒の裏には「草加次郎」と書かれており、前年の連続爆破事件で残された「草加次郎」の筆跡と一致した。

    ・渋谷・東横デパート爆発脅迫事件
    1963年7月24日午後3時頃に渋谷東横デパート(現・東急百貨店東横店)に500万円を要求する脅迫電話をかかる。声の主は3、40代ぐらいの男性。指定の場所に警察が張りこむも、結局、犯人は現れなかった。
    しかし、午後3時50分になって、同デパート西館9階の男子トイレで突然爆発が発生。怪我人は出なかった。爆発物はトイレの天井の屋根裏に乾電池とクッキングタイマーをつなげられた時限爆弾が爆発したものだった。
    8月11日夕方、同デパートの東館屋上で爆発したが、怪我人はなかった。
    8月14日昼前、同デパートに親展とされた速達小包届けられ開封すると爆発。男性職員が軽い火傷を負った。この小包には500万円を要求し、拒否したらデパート内で本格的な爆発を起こすと書かれた脅迫状が届く。犯人が指定した方法で張り込むも犯人は現れず、デパート内で爆発も起こらなかった。
    捜査当局はこの事件と「草加次郎」との関連を調べたが、爆発物と脅迫状の筆跡が違うことから、「草加次郎」の名を騙った者の犯行ではないかとする見方もあった。

    ・営団地下鉄銀座線爆破事件
    1963年9月5日午後8時14分頃、営団地下鉄(現:東京メトロ)銀座線京橋駅に停車中の車内で手製の時限爆弾が爆発、乗客10人(重傷2人・軽傷8人)が負傷した。
    爆弾は時計じかけになっており、針が動いて予定の時刻にくれば爆発する仕組みになっていた。
    二つの乾電池にはそれぞれ「次」と「郎」という文字が書かれていた。

    爆発現場の地下鉄車内を検証する鑑識課員
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    発車直前の地下鉄車内で爆発、血が点々と落ちている京橋駅ホーム
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    上野駅改札口には事件の協力を呼びかける張り紙
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    ・その他
    鰐淵晴子(当時18歳)や桑野みゆき(当時21歳)の自宅住所宛てにも弾丸を同封して100万円を要求する脅迫状が届いていたことが判明。

    略歴


    1962年11月4日 歌手の島倉千代子援護会事務所に爆発物を郵送し、同事務員を負傷させる。郵便物に「草加次郎」のサインを残す。
    1962年11月13日 港区麻布に住むバーホステスに爆発物を郵送。未遂に終える。
    1962年11月20日 有楽町ニュー東宝劇場の客席に爆発物を破棄し爆破。観客1人に火傷を負わせる。
    1962年11月26日 有楽町日比谷劇場の洗面所に爆発物を破棄。爆発したものの負傷者及び火災はなし。指紋が摘出される。
    1962年11月29日 世田谷区の電話ボックスに爆発物を破棄。使用客1人を負傷させる。
    1962年12月12日 浅草寺境内の切り株上に爆発物を破棄。1人が負傷。
    1963年5月9日~7月22日 女優の吉永小百合宅に6通に渡る脅迫状を郵送。
    1963年7月15日 上野公園歩道にて自作ピストルで歩行人を狙撃。重傷を負わせる(のちに警視庁へ弾丸と拳銃を郵送)。
    1963年7月24日 渋谷東横デパートに脅迫電話を掛けた後、同デパートの洗面所を爆破。負傷者はなし。
    1963年8月11日 同デパートの屋上に時限爆弾を設置。負傷者はなし(のちに警視庁へ弾丸と拳銃を郵送)。
    1963年8月14日 同デパート店長宛に爆発物を郵送。事務員1人が火傷を負う。
    1963年9月5日 地下鉄銀座線の車内に爆発物を設置。11人が重軽傷。
    1963年9月6日 吉永小百合宅に脅迫状を郵送。100万円を要求。
    1978年9月5日 公訴時効成立。

    事件を描いた話


    この事件を描いた漫画に、大塚英志原作、菅野博之画の『東京事件』(角川書店)がある。
    また、桐野夏生は小説『水の眠り 灰の夢』でこの事件を取り上げており、小説内で独自の犯人像を描いている。

    事件の影響


    横須賀線電車爆破事件(1968年)
    犯人は、「捕まらなかった草加次郎を尊敬する」と述べた一方、「草加次郎さえ出現しなければ、列車爆破なんてやらなかった」とも述べている。

    その他


    吉永小百合脅迫事件で1963年9月に届いた7番目の脅迫状は、「走っている電車等から現金等を落とす」という手法であり、1963年3月に公開された映画「天国と地獄」と同じ手法である。同映画公開後に現実世界で同じ手法が用いられた最初の事件とされている(1963年3月に発生した吉展ちゃん誘拐殺人事件も犯人は同映画を参考にして身代金誘拐を企てて身代金を奪取に成功したことで知られているが、犯行の手法は真似ていない)。
    テレビ朝日の番組「スーパーモーニング」は2009年6月23日の「時空ミステリー」コーナーでこの事件が取り上げた。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1973年
    【#37】金大中事件
    金大中事件(きんだいちゅうじけん[1])は、1973年8月8日、韓国の政治家で、のちに大統領となる金大中が、韓国中央情報部(KCIA)により日本の東京都千代田区のホテルグランドパレス2212号室から拉致されて、ソウルで軟禁状態に置かれ、5日後ソウル市内の自宅前で発見された事件である。
    金大中拉致事件(キム・デジュンらちじけん)ともいう。

    事件の背景


    金大中は1971年の大統領選挙で民主党(当時)の正式候補として立候補したが、民主共和党(当時)の候補・朴正煕(パク・チョンヒ)現役大統領(当時)にわずか97万票差で敗れた。朴正煕は辛くも勝利したが、民主主義回復を求める金大中に危機感を覚えた。そんなさなかの大統領選直後、大型トラックが金大中の車に突っ込み、3人が死亡。金大中は、腰と股関節の障害を負った。(後に韓国政府はKCIAが行った交通事故を装った暗殺工作であったことを認めている。その際、日本の暴力団への依頼を検討していた[2])同年、朴は非常事態宣言を発布し憲法を無視して国家を戒厳令下においた。そのとき海外にいた金大中は韓国に帰れば殺されると判断し帰国を断念。日本やアメリカの実力者と会見をしたり、海外在住の同胞達に講演したりして、韓国の民主主義と自由選挙を求める運動を行った。
    丁度その頃、朴正煕の側近であった李厚洛(イ・フラク)中央情報部長が平壌を訪問し、平壌の金英柱組織指導部長と会談し、逆に金英柱部長の代理として朴成哲第二副首相が同年5月29日から6月1日の間ソウルを訪問して李厚洛部長と会談し、7月4日には南北共同声明を発し祖国統一促進のための原則で合意した。
    この歴史的会談によって李厚洛の韓国国内の評価は一気に高まり「ポスト朴正煕」との噂さえ囁かれるようになった。
    そんな中、首都警備団長尹必(ユン・ピリョン)将軍が李厚洛との談話で漏らした失言(「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」)に激怒した朴正煕は、両人ならびに関係者を拘束し徹底的に調べ上げるように命じた。しかし、ここで側近から造反者が出たように見られるのは朴政権にとって痛手となるため、李厚洛は釈放された。
    こうして朴正煕の機嫌を損ねた李厚洛は、何とか名誉挽回に朴正煕の政敵である金大中を拉致する計画を立てるに至ったのである。

    事件の経緯


    1973年(昭和48年)7月、世界でも「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていた金大中は、日本の自由民主党の有力なグループに招待され、講演するため東京を訪問した。当時のことを金大中は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人のヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2、3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。
    1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金大中は東京のホテルグランドパレス2212号室に病気療養のため宿泊していた梁一東(ヤン・イルトン)民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は九段下の交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連に至近の場所に位置している。
    午後1時19分ごろ、会談を終えた金大中は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベータで地下に降ろされ車に乗せられた。ホテルから車で関西方面(神戸)のアジトに連れて行き、その後、工作船(コードネームは龍金(ヨングム)号)で神戸港から出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。
    金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる)アメリカの通報を受けた自衛隊が拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、拉致犯は殺害を断念し釜山まで連行し、ソウルで解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、自衛隊機が照明弾を投下したと証言している。
    拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。
    事件後しばらく経ってから警視庁は事件にKCIAが関与していたと発表。捜査員はホテルの現場から金東雲・駐日韓国大使館一等書記官(変名で本名は金炳賛(キム・ピョンチャン))の指紋を検出し、営利誘拐容疑で出頭を求めたが金東雲は外交特権を盾に拒否。金東雲はKCIAの東京での指揮官と見られていた人物で、逃走に使われた車が在横浜副領事のものであったことも調べ上げていた。日本政府は金東雲に対しペルソナ・ノン・グラータを発動、間もなく特権に保護されて帰国した。これは日本が初めてペルソナ・ノン・グラータを発動した例であり、同時に2006年4月までは唯一の発動例であった。
    警視庁によると「少なくとも四つのグループ、総勢20人から26人が事件に関与した」という。「ファーイースタン・エコノミック・レビュー」の記事によると「朴正煕と関係の深かった町井久之(鄭建永(チョン・ゴンヨン)山口組系東声会会長)がホテルのフロア-をほとんどすべて借り切りKCIAに協力した」と書かれている。「ニューズウィーク」東京支局長バーナード・クライシャーは本社に「町井久之はKCIAと緊密に行動を共にし事件の背後にいた。しかし日本のどの新聞もこのことを取り上げない。それは町井の組が自分達を誹謗する者を拷問し殺すことさえ厭わないからだ。」との記事を送っている。韓国政府が金大中を中傷する情報を日本の新聞社に流す役割をしていた柳川次郎(梁元錫(ヤン・ウォンソク)山口組系柳川組組長)も関与。日韓関連の著書が多いジャーナリスト五島隆夫によると「柳川は日本の暗黒街の他の人物と同様に児玉誉士夫(自民党の後援者・右翼の黒幕)を通じて韓国政府と接触をとった」という。

    事件のその後


    この事件の責任を取って李厚洛は中央情報部長職を解任され、日本国内での反朴運動が高まった。その運動の中から総連系に唆された文世光(ムン・セカン)が朴正煕殺害を試み、陸英修(ユク・ヨンス)大統領夫人が死亡した(文世光事件)。この事件の責任をとって警護室長朴鍾圭(パク・チョンキュ)が解任された。その後、中央情報部長に就任した金載圭が、警護室長に就任した車智(チャ・ジチョル)に対する反感から、朴正煕暗殺事件をおこし、朴政権の滅亡とその事件を率先して調査した全斗煥の台頭を生むきっかけとなった。
    同事件について、日本政府は主権侵害に対する韓国政府の謝罪と、日本捜査当局による調査を要求していたが、同年11月の金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(当時)の訪日と1975年7月の宮沢喜一外相(同)の訪韓で政治決着を図り、韓国側の捜査打ち切りを確認したが、韓国政府はKCIA職員かどうかも認めず不起訴処分とし、国家機関関与を全面否定していた。
    後年、大統領になった金大中はこの事件を一切不問にするとの立場を明らかにし、韓国政府に対する賠償請求などに発展するおそれのある真相究明を露骨に牽制した。また、1973年11月2日に行われた田中角栄首相(当時)と金鍾泌首相(当時)との会談の内容を収めた機密文書が盧武鉉政権により公開(2006年2月5日)され、日韓両政府が両国関係に配慮した政治決着で穏便に事を済ませようとしていたことが明らかになった。『文藝春秋』2001年2月号の記事によると「田中角栄首相が、政治決着で解決を探る朴大統領側から少なくとも現金4億円を受け取っていた」と現金授受の場に同席した木村博保元新潟県議が証言している。また田中真紀子によると事前に角栄は殺人をしないことを条件に拉致することを了承済であったという。
    2006年7月26日韓国政府は韓国中央情報部KCIAの組織的犯行だったとする結論を出し、国家機関が関与したことを初めて政府として認めた。2007年10月14日北海道新聞によると、「当初金氏を日本の韓国系暴力団に依頼して暗殺することがKCIA内で検討されたが、成功が困難と判断して断念したことを元KCIA職員が証言した」との記事を掲載した。なお、元朴大統領の側近はこの証言を否定している。拉致の目的は金大中の海外での反政府活動を抑制するためだったと別の元KCIA職員が証言し、殺害計画の事実を否定した。
    同年10月24日、国家情報院(NIS)の過去事件真実究明委員会は、当時のKCIAによる組織的な犯行だったとする報告書を発表し、韓国政府として事件への関与を初めて公式に認めた[3]。なお、これに対し日本政府は、主権侵害に対する公式謝罪と日本の捜査当局による関係者の聴取を求めた。
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1992年
    【#36】清瀬市警察官殺害事件
    清瀬市警察官殺害事件(きよせしけいさつかんさつがいじけん)とは、1992年(平成4年)2月14日に東京都清瀬市で発生した事件。2007年2月14日、未解決のまま公訴時効を迎えた。

    被害者 大越晴美巡査長
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    概要


    1992年2月14日午前3時20分頃、東京都清瀬市旭が丘2丁目1番6号にある警視庁東村山警察署旭が丘交番(当時は「派出所」)で、大越晴美巡査長(当時42歳)が血を流して倒れているのを近くの新聞配達員が発見した。
     新聞配達員は配達途中で、派出所前の交差点にとまったときに、派出所の窓ガラスが縦1メートル、横に50センチの卵形に割られ、普段はしまっている奥の部屋の扉が10センチほど開いているのに気づいた。中をのぞくと床一面が血の海で派出所奥の待機室内から警察官の制服のひざから下が見えた。また警察官の帽子がストーブの上に置かれ、焼けこげていた。大越巡査長は病院に運ばれたが午前4時頃に死亡が確認された。
    また、大越巡査長の制服のつり紐が切られ、ベルトからホルダーごとはずして実弾5発入りの短銃(SWチーフス回転式38口径)も奪われていたが、現在まで使用された形跡はないという。

    通常、派出所は夜間2人体制だが、13日午後11時15分ごろ近くの小学校に何者かが侵入したとの110番通報があった。このためコンビを組んでいた巡査(27歳)が現場にかけつけ、容疑者を現行犯逮捕して、東村山署に連行中で不在だった。大越巡査長は14日午前2時半ごろにパトカーに電話連絡をしておりこの後に襲われたと見られている。

     司法解剖の結果、犯人は第一撃で左首を刺し、続いてとどめに左胸を刺した。刺した角度から犯人は大越巡査長より背が高いということがわかった。凶器は刃渡り9cm程度のサバイバルナイフとも言われている。
     派出所は窓ガラスが割れ、壁や床には多量の血が飛び散っており犯人と格闘したあとが見られた。机の上にも血があった。ロッカーから地理案内用の「警察参考簿」が出されたままだったことから道を尋ねるふりをして近づいたと見られた。派出所ではほかに物色のあとがなく拳銃狙いで銃マニアの犯行と見られた。

    2006年2月14日、公訴時効まであと1年と迫ったことを受け、東村山署防犯協会は犯人検挙に最も貢献した情報に対して懸賞金300万円を支払うことを決定した。しかし懸命な捜査もむなしく、2007年2月14日午前零時に公訴時効を迎えた。現在は殺人事件としての捜査、および懸賞金の支払いは行っていないが、奪われた拳銃の捜査は今後も継続される。

    目撃証言


    ・現場は埼玉県境に近くで、団地の外れにあって交通量の少ないところだった。犯人は土地鑑がある現場周辺の人物と見られている。犯行から数時間たったころ、清瀬市の隣にある埼玉県新座市で血のついた服を着た2人組みの男が目撃されており、関連が調べられている。

    ・事件発生の日の午前3時10分ころ、交番の中で大越巡査長が人と話している様子が目撃されている。
    相手は大越巡査長(身長は165cm)より明らかに背の高い男で、黒っぽいジャンパーを着た身長175cmぐらいの男。

    現場付近概略図
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    犯行現場となった交番
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    奪われた短銃と同じ物(SWチーフス回転式38口径)
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2007年
    【#35】京都精華大学生通り魔殺人事件
    京都精華大学生通り魔殺人事件(きょうとせいかだいがくせいとおりまさつじんじけん)は、2007年1月15日夜に京都市左京区で発生した、通り魔殺人事件である。2010年4月現在で未解決事件となっている。

    被害者 千葉大作さん
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    概要


    2007年1月15日午後7時50分頃、京都精華大学マンガ学部1年生の千葉大作さん(当時20歳)が、学校から自転車で帰宅している途中に京都市左京区岩倉幡枝町の歩道で、20~30歳位の男に小型の刃物で胸など全身10か所を刺され、死亡した。
    直後に第一発見者の通行人が発見した時には千葉さんは歩道脇にて倒れていたが、朦朧とした意識のまま、「知らない人に刺されました。救急車を呼んでください」と証言していた。
    しかし午後7時52分、事件現場に到着した京都市消防局救急隊員によって病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。
    第一発見者が事件現場を自転車で通過したとき、不審な男が畑に背を向け車道に座り込み、その後ろの畑に人が倒れているのを目撃。気になったので2分後に現場に戻ると、男の姿は既になく、代わりに千葉さんが携帯電話を横に血を流し座り込んでいた。
    現場は京都精華大学の南東およそ600メートル、叡山電鉄木野駅から南に約100メートルの閑静な住宅街で、容疑者の男は大学生に向かって「アホ」、「ボケ」を繰り返しながら、大声で暴言を吐き興奮していた。
    千葉さんは明るい性格でクラスのリーダー的な存在で、知人らは「トラブルなどは聞いたこともない」と話している。事件直後に到着した府警下鴨警察署員には「犯人は知らない人間だった」と千葉さんは述べていた。

    また、千葉さんの友人たちが同事件のマンガを描き、目撃情報を募集している。
    外部リンク

    警察は現在、犯人とみられる男の情報を求めており捜査特別報奨金制度の対象となっている。

    犯人像


    警察が発表した、目撃証言と遺留品から判断した犯人の特徴は以下の通りである。
    年齢:20~30歳位
    身長:170~180cm
    髪:センター分け(ボサボサ)
    服:上下黒っぽい服装
    その他:黒っぽいママチャリ風の自転車に乗っている。
    態度等:興奮すると、顔や上半身を左右に振り言葉尻に「アホ、ボケ」を連発し、目の焦点が合っていない。
    靴の大きさ:27~28cm(京都府警発表)28cm以上(日刊スポーツ等発表)

    犯人の人着
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    現場付近地図
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    犯行現場
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 2002年
    【#34】北砂七丁目質店経営者夫婦強盗殺人事件
    北砂七丁目質店経営者夫婦強盗殺人事件(きたすな7ちょうめしちやけいえいしゃふうふごうとうさつじんじけん)は2002年12月 に東京都江東区で質屋を経営する夫婦(事件当時、夫:78歳、妻:74歳)が店舗兼自宅で殺された事件。捜査特別報奨金制度対象の事件で、2010年4月現在で未解決。

    同事件のポスター
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    概要


    2002年12月8日深夜から降り始めた雪は9日の夕方には小降りになったものの、電車が運休して一部の学校が休校するなど、交通機関は終日混乱し、12月としては都内では記録的な大雪となった。
    その大雪が残る12月10日午前10時25分ごろ、江東区北砂7丁目7番先 質店店舗兼自宅内で、同じ敷地の別棟で住む長男の妻が心配して様子を見に、合鍵を使って室内に入ったところ、一階の寝室で殴られて頭から血を流して倒れて死亡しているのを発見した。男性は寝室のベッドの下に、女性はベッドの上に布団を掛けた状態で倒れ、2人ともパジャマのままでした。凶器は室内にあった、象牙の置物で、室内はロッカーや整理ダンスが荒らされていた。犯人は浴室の窓ガラスを割られて外枠ごとはずされ、帳場と居間が物色されており、土足で侵入したとみられ、ドアを足でけ飛ばした運動靴の跡があった。
    事件発覚の前日の12月9日の午後8時30分頃、近所の会合から帰る2人の元気な姿が確認されている。

    現場は、地下鉄東西線南砂町駅から北へ約1.5㎞。
    住宅やマンションが密集した閑静な住宅街にある質屋店舗を兼ねた住宅です。
    被害者夫婦は二人暮らしで、同じ敷地内の別棟には長男夫婦が住んでいました。
    被害者は、40年ほど前からこの場所で質屋を経営する一方、駐車場やアパートも経営し、15年前までは地域の町会長も務めるなど、まじめで温厚な人柄は近所でも評判でした。

    現場付近概略図
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    現場地図

    大きな地図で見る
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1979年
    【#33】北関東連続幼女誘拐殺人事件
    北関東連続幼女誘拐殺人事件(きたかんとうれんぞくようじょゆうかいさつじんじけん)とは1979年以降、栃木県群馬県で発生している誘拐殺人事件である。

    概要


    1979年以降、北関東において幼女の誘拐事件が起きている。その内、栃木県群馬県の県境であり半径20キロ以内で発生した5事件がまとめて「北関東連続幼女誘拐殺人事件」とされることが多い。
    事件の特徴として、誘拐または行方不明となったのが4歳から8歳までの女子児童である点、3事件においてパチンコ店が誘拐又は行方不明現場になっている点、3事件において河川敷での死体遺棄になっている点が共通点としてあげられている。5事件とも未解決事件となっている。
    日本テレビの報道特別番組『ACTION』で、記者の清水潔が「5件の事件は連続事件なのではないか」とする観点から2007年1月から報道を続けている。同番組では、「足利事件」の被疑者が1991年に逮捕されて身柄拘束中であるにも拘らず、その5年後に類似事件の「太田市パチンコ店女児連れ去り事件」が発生したことから、「足利事件の解決」が不自然であるとし、逮捕された菅家利和氏は冤罪の可能性があるとしてキャンペーン報道を展開。菅家氏のDNA再鑑定の必要性を訴え続け、再鑑定が実施されたところ、真犯人と菅家氏のDNA型は一致せず釈放となった。

    一連の事件


    一連の事件の位置関係
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    1979年の殺人事件
    1979年8月3日、栃木県足利市の女児福島万弥ちゃん(当時5歳)が自宅近くの八雲神社境内で遊んでいるうちに行方不明となる事件が発生。6日後の8月9日、渡良瀬川近くでリュックサック詰めで全裸遺棄されている万弥ちゃんの遺体が発見された。リュックサックは市内の業者の特殊仕様によるもので数10個しか売られていなかった。
    また、行方不明になる直前にはトレパン姿の30歳ぐらいの男と話しているのを近所の主婦が目撃している。

    ・1984年の殺人事件
    1984年11月17日、栃木県足利市の女児長谷部有美ちゃん(当時5歳)がパチンコ店「大宇宙」から行方不明となる事件が発生。
    有美ちゃんは両親がパチンコをしているあいだ、店内や店の外で遊んでいたが、いつのまにか姿が見えなくなった。両親がいないことに気づいたのは午後6時ごろで、店の周囲を探し回ったが見つからず、足利署に届け出た。
    4日後、有美ちゃんの通う幼稚園に、有美ちゃんと見られる女児と40~50代ぐらいの男からの電話が入る。
    電話を受けたのは園長で、1回目は午後4時過ぎで、女児の声で「せんせい・・・」と言っただけで切れた。その3分後、再び電話が入り、女児は「せんせい、いま、こうせいびょういんにいる」と泣き声で訴え、続いて男が有美ちゃんの自宅の電話番号を聞いてきた。
    午後4時21分頃、今度は有美ちゃんの自宅に電話が入る。女児は「たすけてちょうだい」とか細い声で話し、父親が所在を問うと「佐野のこうせいびょういん」と答えた。
    通報を受けた足利署はすぐに佐野市の「佐野更生病院」、足利市の「更西病院」、さらに群馬県桐生市、館林市の厚生病院に捜査員を急行させたが、有美ちゃんの姿はなく、捜査本部は後にこれをイタズラ電話と断定している。

    1986年3月7日、有美ちゃん宅から1.7kmほど離れた同市大久保町の市立大久保小学校東側の畑で、飼い犬がさかんに土を掘ろうとするので、畑の所有者が掘ってみたところ、女児の衣類が見つかった。
    翌朝から捜査員がこの畑を発掘捜査してみると、他の衣類と子供の白骨死体が見つかり、これが有美ちゃんであることがわかった。

    ・1987年の殺人事件
    1987年9月15日、群馬県尾島町に住む小2女児大沢朋子ちゃん(当時8歳)が子猫を抱いて自宅近くの尾島公園へ遊びに出かけたまま行方不明に。翌年の11月27日、利根川河川敷で白骨死体の一部が発見された。
    詳細は「群馬小2女児殺害事件」を参照

    ・1990年の殺人事件
    1990年5月12日、栃木県足利市の女児松田真実ちゃん(当時4歳)がパチンコ店から行方不明となる事件が発生。5月13日に渡良瀬川河川敷で全裸遺棄された真実ちゃんの遺体が発見された。1991年12月2日、DNA鑑定で犯人と同一人物だったことで同市内に住む幼稚園バスの運転手が逮捕され、2000年7月17日に無期懲役判決が確定。しかし、当時のDNA鑑定は精度が低いことが指摘され、2009年5月に再度DNA鑑定を実施した際に被疑者と犯人と同一人物ではないという結果が出たため、同年6月に刑が執行停止となり、釈放された。
    詳細は「足利事件」を参照

    ・1996年の失踪事件
    1996年7月7日、群馬県太田市の女児横山ゆかりちゃん(当時4歳)がパチンコ店から行方不明となる事件が発生。この事件は女児の行方が発見されていないため、殺人事件ではなく失踪事件となっている。
    詳細は「太田市パチンコ店女児連れ去り事件」を参照

    その他の未解決事件


    上記の5事件以外でも栃木県群馬県では幼女に関する未解決事件が発生している。
    ・1985年の失踪事件
     1985年10月10日午後1時半ごろ、栃木県日光市西小来川の母親の実家に帰省していた真岡市内に住む佐々木奈保子ちゃん(当時3歳)の行方がわからなくなった。奈保子ちゃん実家に一家5人で帰省し、魚釣りに行った姉と兄のあとを追って実家近くに流れる幅4メートル、深さ40センチの沢に向かったまま行方不明となる事件が発生。

     奈保子ちゃん一家は10日の正午ごろ実家に遊びに来た。午後1時半に長女(10歳)と長男(8歳)の後を追って沢に向かったところまでが確認されている。午後2時ごろ長女と長男が実家に戻ってきたときいなくなったことに父親が気付いて警察に通報した。
     警察では沢に転落して流された、山林に迷い込んだ、誰かに連れ去られたかの3つの可能性を考えて1200人体制で捜索したが見つからなかった。
     現場は日光市内であるが観光地とは無縁の山奥で外部の人はあまり訪れない。訪れるのは沢で渓流釣りを楽しむ人ぐらいだ。
     警察では沢に転落しても流されるような状況ではなく、事故であれば大規模な捜索で見つかるはずで、誘拐された可能性で捜査を続けたが、手がかりがなく「時効」を迎えている。

    ・1987年の誘拐殺人事件
    詳しくは「功明ちゃん誘拐殺人事件」を参照。ただし、被害者は、男の子である。

    ・2005年の殺人事件
    2005年12月1日、栃木県今市市(現日光市今市)木和田島、会社員、吉田正信さん(当時41歳)の二女で同市立大沢小1年、吉田有希(ゆき)ちゃん(同7歳)が下校途中に行方不明になり、同2日午後、約65キロ離れた茨城県常陸大宮市三美の山林内で胸を複数回刺された遺体で見つかった。
    詳細は「栃木小1女児殺害事件」を参照
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