あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1957年
    【#116】ボーイ・イン・ザ・ボックス
    ボーイ・イン・ザ・ボックス(Boy in the Box)とは、1957年アメリカ合衆国で発生した殺人事件の被害者に冠せられた通称。被害者はおよそ4~6歳の少年で、「America's Unknown Child」とも呼ばれている。2010年現在未解決。

    概要


    遺体は1957年2月25日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの北東部にあるフォックスチェイス地区(Fox Chase)において、全裸で段ボール箱の中に入った状態で発見された。遺体には体中いたるところにあざがあった。
    遺体は発見時、J.C.ペニーで販売された揺り篭の段ボールの空き箱内に、毛布に包まれた状態で遺棄されていた。遺体を発見した男性は、発見現場付近にマスクラット捕獲用の罠を仕掛けていたため、発見時はその具合を調べていたと主張していた。後にその男性は、遺体発見時、近くの女学校の生徒たちへののぞきをおこなっているところで、それが彼の習慣になっていたと明らかにした。
    事件はフィラデルフィア一帯のマスコミの注目を集め、情報提供を呼びかける少年の写真入りポスターは、フィラデルフィア中のガソリンスタンドに貼り出された。しかし、そのような事件当時の呼びかけや、長年の事件に対する断続的な関心にもかかわらず、犯人はおろか少年の身元も依然不明である。

    概要


    多くの未解決事件同様、この事件の解決についても無数の仮説が主張されてきた。大半の仮説は否定されたが、次の2つの説は有力なものとして警察およびマスコミの双方から注目集めたうえ、大規模な捜査も行われた。
    児童養育施設の経営者一家 [編集]
    第一は、遺体発見現場から2.4キロメートル程離れた場所にあった児童養育施設に関するものである。1960年、事件を調査していた監察医務院の男性職員(1993年に亡くなるまで、執念深くこの事件を追っていた)が、 ニュージャージー州に住むある女性霊能者に接触し、霊能者はその男性職員に、探すべき家の特徴を伝えた。男性職員は、その家の特徴が合致するのは、この養育施設であると考えた。また、この霊能者は遺体の発見現場にも招かれたが、彼女はそこから男性職員をまっすぐにその養育施設に導いた。男性職員は養育施設が売りに出された際、客を装って施設を訪問した。彼はそこでJCペニーで販売されていたものに似た揺り篭や、少年の遺体を包んでいたものに似た毛布が、物干し用の紐に掛けられているのも発見した。男性職員は、少年がその養育施設を経営していた男性の継娘の子であると、信じるようになった。1957年当時、シングルマザーであることはまだ大きな不名誉と見なされており、男性職員は、少年の死は事故であり、遺体を遺棄したのは、継娘が未婚の母であることが露見するのを避けるためであると推理した。これらの状況証拠にもかかわらず、警察は少年と養育施設との具体的な関連性を発見できなかった。[1][2] 1998年、フィラデルフィア市警察で事件を担当する警部補が、この施設の経営者だった男性と継娘 (この時には2人はすでに結婚していた)に事情聴取を行った。この聴取で警部補は、一家は事件に関係していないと確認、養育施設の捜査は切り上げられた。[3]
    「M」の証言 [編集]
    第2は、2002年2月に、「M」としか名が明らかにされていない女性によりもたらされた証言である。Mの主張の概要は次のとおりである。

    「少年の名は「ジョナサン」で、Mの虐待癖のある母親が1954年の夏、少年の生みの両親から金で買った。少年はその後2年半もの間、極度の身体的、性的な虐待を受け続けた。
    また、少年が殺害されたのは、彼が浴槽で嘔吐し、母親が彼を怒りに任せて床に叩きつけたからである。Mの母親はその後、少年の身元を隠すために彼の長い頭髪を刈った。Mの母親はMを連れて、当時はまだ人里離れていた遺体発見現場に少年を遺棄した。彼女らが遺体を入れた段ボール箱は、その場にもともと捨てられていたものである。
    彼女らが遺体を車のトランクから出そうとしていた時、オートバイで男性が通りかかった。その男性は、彼女らが事故にあったのだと勘違いしてすぐそばで停車し、何か助けは必要ないか尋ねてきた。彼女らは、自分達の車のナンバープレートを見せないように気を配りながら、男性を無視したところ、その内に男性は走り去った。」

    警察が遺体発見現場を最初に検分した際、遺体には雑な散髪の跡が見受けられ、遺体に刈られた髪の毛が付着していた。Mの母親が少年の頭髪を刈ったという証言は、この散髪の跡の説明になると思われた。また、Mによるオートバイの男性についての証言と同じ内容の目撃証言が、遺体発見当時の1957年にある男性から寄せられていた。遺体発見現場をたまたまオートバイで通りがかったこの男性からの目撃証言は、それまで一般には公開されていなかった。警察はMの証言の信憑性は高いと考えたが、Mに精神病の病歴があることが問題となった。[4][5]当時の彼女の家と交流があった近隣の人々は、事情聴取の際にその家に男の子が住んでいたことを否定した。また、Mの主張は「ばかげている」とも語った。[6]

    現在


    事件は公式には未解決のままであるが、捜査員たちは 少年の遺体から残された一部のDNAを分析し、国が管理しているDNAのデータベースとの照合を試みている。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1947年
    【#115】ブラック・ダリア事件
    ブラック・ダリア事件(-じけん)とは、1947年1月15日にアメリカで発生した殺人事件。
    ジェイムズ・エルロイが1987年に発表した小説『ブラック・ダリア』、同作を映画化した『ブラック・ダリア』のモチーフとなった。

    概要


    1947年1月15日、黒い服を好んだことから「ブラック・ダリア」の通称で知られていた女優志願の女性、エリザベス・ショートの死体がロサンゼルスで発見された。
    死体には激しい損壊が加えられており、胴の部分で2つに切断されていた。死体は洗い清められており、犯人に繋がる証拠は発見されなかった。また、事件発覚後に新聞社にブラック・ダリアの所持品が送りつけられてきたが、指紋は検出されなかった。
    事件は非常に注目を集め、約1ヶ月に渡って『ロサンゼルス・エグザミナー』のトップ記事を飾り、500人に及ぶ自称犯人やその関係者が出頭するほどだったが決め手に欠けたために迷宮入りし、現在も未解決である。

    概要


    日時 出来事 備考
    1月15日早朝 新聞配達の男性が空き地に止まるフォードを目撃。
    1月15日10時半 散歩中の女性が死体を発見、警察に「女性が倒れている」とのみ通報。 警察は酩酊者と判断して、パトロール中の警察官に連絡。無線を傍受していた新聞記者が先回りして現場に到着し、現場の写真を撮影した。
    1月15日10時半過ぎ 散歩中の少年が死体を発見。相前後して警官が到着し、本部に死体発見の報告を入れる。 死体発見の報を受けた新聞記者や野次馬が現場に集まり、現場の保存が適切に行われてなかったことから、犯人のものと見られる足跡やタイヤ跡が失われた。
    1月15日午後 死体が検死局に送られ、ヘラルド・エクスプレスおよびロサンゼルス・エグザミナーに第一報が掲載。 被害者は15-16歳の女性とされる。
    1月16日 ロサンゼルス・エグザミナー社の協力によって、被害者の指紋をFBIに電送。身元判明。
    1月18日 ロサンゼルス・エグザミナー社の記者がブラック・ダリアのトランクを発見、警察が中を開けてボーイフレンドの写真や手紙が多数見つかる。 独占記事と引き換えに警察に引き渡したことから、警察に先んじてトランクを開けていたのではないかとの疑惑が持たれた。またボーイフレンドの一人が拘束されたものの、無関係と判明。
    1月23日 ロサンゼルス・エグザミナー社の記者が、犯人と思われる人物からブラック・ダリアの所持品を送るとの電話を受ける。 25日に郵便局でロサンゼルス・エグザミナー社宛の小包を発見、ブラック・ダリアの所持品が入っていた。
    1月24日 ゴミ集積所からブラック・ダリアの靴を発見。
    1月26日 ロサンゼルス・エグザミナー社に29日に自首するという葉書が届く。 29日には警察とロサンゼルス・エグザミナー社に刑期が10年なら自首するという葉書が届く。結局、翌30日に警察へ自首を取り止めるという葉書が届く。
    1月30日 33歳の男性がブラック・ダリア殺害を自供。 その後の取り調べで無関係と判明。
    1月31日 ヘラルド・エクスプレス社に『犯人の写真』が送られる。ヘラルド・エクスプレス紙に写真を掲載。 翌日、『写真』の人物が名乗りを挙げる。近所に住む少年で、数ヶ月前に強盗に盗まれた写真の一部を使用されたものと判明。
    2月1日 ヘラルド・エクスプレス社に再度『犯人の写真』が送られる。
    2月6日 陸軍の伍長がブラック・ダリア殺害を自供したと新聞各紙が報道。 10日に、犯人をおびき出すための嘘だったことが判明。
    2月16日 別のバラバラ殺人事件の犯人がブラック・ダリア殺害を自供。 後に嘘と判明。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1986年
    【#114】華城連続殺人事件
    華城連続殺人事件(ファソンれんぞくさつじんじけん)は、1986年から1991年にかけて大韓民国の京畿道華城郡(ファソン)(現在の華城市)周辺で10名の女性が殺害された未解決事件で、韓国史上最初の連続殺人である。2003年公開の韓国映画、『殺人の追憶』はこの事件をモチーフにしている。2006年4月2日に、最後の事件の公訴時効が成立、全ての事件について犯人を訴追することが出来なくなった。

    一連の事件


    発生順 遺体発見日 遺体発見場所 被害者の年齢 備考
    1 1986年9月15日 華城郡台安邑の草むら 71歳 最初の事件。被害者は絞殺され、下半身だけ裸にされていた。
    2 1986年10月20日 華城郡台安邑の農水路 25歳 被害者は裸で胸部を刺されており、強姦の痕跡もあった。遺体発見現場で見つかった毛髪等から犯人の血液型はB型と推測された。
    3 1986年12月12日 華城郡台安邑の畑 24歳 腐乱した状態で発見される。被害者の下着が顔に被せてあるなど、遺体には犯人の異常な行動の痕跡が見られた。
    4 1986年12月14日 華城郡正南面の農水路 23歳 腐乱した状態で発見される。被害者は第3の事件とほぼ同じ状態で発見されたうえ、被害者の傘で陰部を何度も刺されていた。
    5 1987年1月10日 華城郡台安邑の畑 18歳 絞殺。犯人のB型の血液と精液が検出される。
    6 1987年5月2日 華城郡台安邑の山中 30歳 遺体のそばで犯人のものと思われるスニーカーの足跡が発見される。
    7 1988年1月14日 水原市華西駅付近の畑 19歳 被害者はクリスマスイブから行方不明になっていた。強姦の上絞殺。
    8 1988年9月7日 華城郡八灘面の農水路 52歳 バスに乗った犯人と思われる男がバス運転手などに目撃される。
    9 1990年11月15日 華城郡台安邑の山中 14歳 学校帰りに殺害された。被害者の陰部には被害者の所持品であるボールペン、スプーン、フォークが挿入されており、犯人のものと思われる血液型B型の精液、白髪が発見される。
    10 1991年4月3日 華城郡東灘面の山中 69歳 自宅付近で殺害される。現在のところ最後の事件。

    被疑者


    2008年には、インターネット上で別の殺人事件で逮捕された39歳の男性が本事件の真犯人かもしれないという文章が掲載され、韓国で話題になった。この男性が本当に本事件の犯人であるか明らかになっていないが、信憑性は低いと思われている[1][2]。その理由として、第9の事件で精液等が取得されていることから、もしも彼が犯人であればDNA照合で警察側がすぐに犯人と断定できるはずであるのに、警察は何の動きも起こしていないことがあげられる。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1922年
    【#113】ヒンターカイフェック事件
    ヒンターカイフェック事件(-じけん)とは、ドイツ史上最も謎の多い犯罪として知られる殺人事件。ヒンターカイフェックは、 バイエルン州の都市インゴルシュタットとアウグスブルクの間(ミュンヘンの約70キロメートル北)にあった小さな農村。1922年3月31日の夕方、村の農場の住人6名がつるはしによって殺害された。事件は現在も解決されていない。
    6名の犠牲者は、農場の主人の男性(63歳) とその妻(72歳)、夫妻の娘(35歳、未亡人)とその子供2名 (7歳の女の子と2歳の男の子)、そして農場の使用人の女性である。2歳の男の子の父親は、農場の主人であると噂されており、彼らの近親相姦行為は多くの人々に知られていた。

    犯行


    犯行の2、3日前、農場の主人は怪しい足跡を発見したことを近所の住民に話している。足跡は雪上で見つかり、近くの森から何者かが農場までやって来た跡があったが、農場から戻って行った形跡はなかったという。さらに彼は屋根裏で足音を聞いたり、見慣れない新聞紙が農場に落ちているのを見付けたとも語っていた。また、農場の鍵がいくつか、事件に先立って紛失していたが、警察への届け出はなかった。
    事件の6ヶ月前、農場の使用人の女性が仕事を辞めて去っていた。理由は、彼女によれば「農場が何かにとり憑かれている」からであった。このため、事件の犠牲者となった女性が新たに使用人として農場にやって来たのだが、彼女が農場に着いたのは事件当日で、まさに殺害される数時間前のことであった。
    事件発生の金曜日の夕方、何が起こったのかを正確に知ることはできない。年長の夫妻と彼らの娘、およびその7歳の娘は、何らかの方法で農場の納屋におびき出され、そこで殺害されたものと考えられている。その後、犯人(達)は母屋に侵入し、母の寝室で寝ていた2歳の男の子を、使用人部屋で使用人の女性をそれぞれ殺害したものと思われる。
    翌週の火曜日の4月4日、一家の姿を数日見かけないことを不審に思った近隣の住人数名が農場を訪れた。郵便局員は、前の週の土曜日に自分が配達した郵便物が、そのまま放置されていることに気づいていた。7歳の女の子は、土曜日から月曜日にかけて学校を欠席していた。一家は、日曜日の礼拝を習慣としていたが、その週は教会に姿を現さなかった。火曜日、機械修理に技師が農場を訪れ、そこで5時間も機械修理をしていたが、農場内は無人で誰にも会わなかったという。近隣の住人達は農場に到着した時、農場内の全ての戸が施錠されているのに気づいた。彼らは納屋の戸を押し破って中に入り、そこで4名の遺体を発見したのである。残る2名の遺体は母屋内で発見された。

    捜査


    ミュンヘン警察の捜査員たちは、事件の解決に最大限の努力を傾けた。何年にもわたり100名以上が容疑者として尋問されたが成果はなかった。最近行われた尋問は1986年であるが、これも成果は上がっていない。
    今日でも、多くの人々が個人的にこの事件の解明を試みている。
    警察は当初、犯人の動機を物取りと考え、近隣の村の住民のほか、周辺を渡り歩いていた技術工や浮浪者などを取り調べた。しかし、物取りの犯行という見方は、農場の母屋から多額の現金が発見されたことで疑わしくなった。犯人(達)は、犯行後の何日間か、農場に居残っていたと考えられている。何者かによって農場の牛や鶏に餌が与えられていたほか、近隣の住民の中には週末の間、農場の煙突から煙が出ているのを目撃した者もいた。もし、犯行の動機が物取りならば、犯人(達)はその間に現金を見つけられたはずである。
    夫妻の娘の夫にも容疑の目が向けられた。娘の夫は1914年、フランスで戦死したと伝えられていたが、遺体が発見されていなかったため、彼の死亡そのものが疑われた。
    遺体発見翌日の4月5日、納屋で検視が行われた。検視を行った監察医は、凶器として最も可能性があるのはつるはしであることを突き止めた。遺体の頭部は切断され、霊能者に調査をさせるためミュンヘンに送られた。また、この検視により、7歳の女の子は襲撃後、数時間は生存していたことが明らかになった。彼女は納屋のわらの上で、自分の祖母や母の遺体の傍らに横たわっていたが、自分の髪の毛を自ら乱暴に引き抜いた痕跡があった。

    葬儀


    6名の遺骸はヴァイトホーフェンの墓地に埋葬され、墓地には事件の記念碑が建立された。ミュンヘンに送られた頭蓋骨は、第二次世界大戦の混乱で紛失され戻ってこなかった。現在、農場跡地の近くには祠が立っている。
    農場は事件の翌年の1923年に取り壊された。取り壊しの際、殺害に使用されたつるはしが屋根裏部屋の床板の下から見つかったといわれている。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 2008年
    【#112】琵琶湖バラバラ殺人事件
    琵琶湖バラバラ殺人事件(びわこバラバラさつじんじけん)とは、2008年5月17日早朝から6月23日にかけて、滋賀県近江八幡市の琵琶湖で発生した殺人・死体損壊事件である。

    概要


    2008年5月17日、琵琶湖の湖岸緑地である岡山園地で早朝から釣りをしていた男性が、人の足が漂流しているのを発見し滋賀県警に通報した。また、同日に捜査員が琵琶湖で足の一部を発見したほか、5月20日には頭部が発見された(頭部は一部が切り取られていたが、これは被害者の身元特定を困難にするためのものと推測される)が、これら全ての遺体のDNAが一致した。さらに6月22日と翌23日にかけて、琵琶湖岸で両手首が見つかった。被害者の身元は判明していない。
    2009年2月27日、警視庁は捜査特別報奨金制度に同事件を対象にした。報奨金の上限は300万円。

    被害者の特徴


    被害者の身元を調査するため複顔法[1]などが試みられたが、身元は判明していない。
    身元不明の被害者は以下の通り。
    年齢:40~60歳位
    性別:男性
    身長:170~180センチ位(180センチ以上の可能性あり)
    体格:中肉~肥満体型
    血液型:O型
    その他特徴:左目尻下に約1.5センチのコブ有

    虚偽通報


    2008年7月11日、大阪府泉佐野市の41歳無職の女が交際男性に腹を立て、交際男性を同事件の容疑者に仕立て上げる虚偽の通報があった。女は軽犯罪法違反(虚偽申告)の疑いで書類送検された[2]。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1959年
    【#111】BOACスチュワーデス殺人事件
    BOACスチュワーデス殺人事件(ビーオーエーシースチュワーデスさつじんじけん)とは1959年3月10日、東京都杉並区の善福寺川(大宮八幡宮近くの宮下橋)でBOAC航空(現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人女性客室乗務員(当時27歳)が扼殺死体で発見された事件である。

    概要


    被害者の交友関係からベルギー人の神父が捜査線上に浮かんだが、弁護人とバチカン大使館一等書記官の立会いのもとでの5回に渡る事情聴取では進展がなく、6月11日、神父は病気療養のため、正規の出国手続を経てベルギーに帰国した[1]。事件はその後迷宮入りとなり、1974年3月10日公訴時効を迎えた。

    著名作家の見解


    三浦朱門は「もし当の神父が事件に無関係なら、なぜ積極的に警察に援助しないのだろう」と述べた[2]。 田中澄江は5月27日に神父を見舞い、被害者の立場にたった現在の心境をのべてもらった。「流暢な日本語である。…事実を曲げた猥雑なペンの暴力にもめげず、澄んできれいな目の色であった。」「警察が、調べる義務があると言えば、幾度でも出頭して、殺人者と見ようとする疑問に答えなければならない。」と著わした[3]。遠藤周作は「(マスコミは)あたかも彼が真犯人であるかのごとく、その写真を掲載したりその名を発表した。一種の人権蹂躙。」「突然の帰国は一般の日本人の根のない疑惑をさらにふかめる原因となった」と述べた[4]。
    松本清張はこの事件に関し『スチュワーデス殺し論』[1](ノンフィクション)を婦人公論に著し[5]、事件をモデルに小説『黒い福音』を執筆した。また捜査を担当した平塚八兵衛が退職した1975年、彼の捜査した事件の解説記事が毎日新聞と産経新聞に連載された[6][7]。後年にも井出孫六が取り上げた[8]。
    東京都監察医務院長で作家の上野正彦はその著書で「腕で首を絞めるのは外国人にみられる特徴」だと自身の監察医の経験から述べている(日本人の殺人では素手で相手の首を絞めて窒息しさせる場合、ほとんど指でつかんで締めている)。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1993年
    【#110】阪和銀行副頭取射殺事件
    阪和銀行副頭取射殺事件(はんわぎんこうふくとうどりしゃさつじけん)とは1993年に起こった殺人事件。2008年8月、公訴時効を迎えた未解決事件

    概要


    1993年8月5日午前7時50分頃、阪和銀行副頭取(当時62歳)が和歌山市の自宅から出勤するため、ハイヤーに乗り込んだところを男に拳銃で撃たれ死亡した。
    犯人の男は年齢40才程度、身長165センチから170センチ、服装はうす緑色の作業服上下を着て、サングラスと白いヘルメットを被っていた。
    4年後の1997年、阪和銀行が複数の暴力団・右翼団体などの反社会団体に対して不正融資を行ったとして、和歌山県警に特別背任容疑で阪和銀行幹部が逮捕される。不正融資事件の捜査の結果、警察は阪和銀行が「特殊案件貸し出しリスト」を作成していたことを見つけ、暴力団・右翼団体などの反社会団体に総額14億5000万円の不正融資をしていたことが発覚した。この不正融資事件には殺害された副頭取も嫌疑にかけられていたが、死亡していたため書類送検止まりで起訴されなかった。
    警察は不正融資事件と副頭取射殺事件が結ばれているとして捜査を進める。また、犯人は銃の扱いに慣れていること、阪和銀行の不正融資が射殺事件に関連しているとして、暴力団や右翼団体などの闇社会の犯行を視野に捜査を進めるが、物証が少なかったために犯人特定ができなかった。
    2008年8月5日、公訴時効が成立。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 2001年
    【#109】阪急南茨木駅前路上スーパー店員強盗殺人事件
    阪急南茨木駅前路上スーパー店員強盗殺人事件(はんきゅうみなみいばらぎさつじんじけん)とは2001年5月に大阪府茨木市天王2丁目で発生した、強盗殺人事件である。
    なお、強盗または殺人容疑の犯人は逃亡生活中のために逮捕されておらず、2010年4月現在で未解決。捜査特別報奨金制度対象事件に指定されている。

    概要


    2001年5月1日午前8時10分頃、阪急京都線南茨木駅前にあるスーパーマーケット『阪急共栄ストア南茨木店』(現阪急オアシス南茨木店)の東側路上で、同店勤務の被害者の店員の男性(当時33歳)が、倒れているのを別の店の店員が発見、店員の男性は左胸を鋭利な刃物で一突きされており、出血多量で収容先の病院で死亡した。
    凶器は見つかっておらず、店内に物色痕などがあることから大阪府警捜査一課と茨木警察署は強盗殺人の疑いもあるとみて捜査。
    午前10時の開店準備のため、男性の店員は同店東側の商品搬入用出入り口付近の歩道で作業中だった。
    目撃者らの話では、犯人の男が店外にいた男性の店員の腕をつかんで激しく口論。
    振りほどいて店内に逃げ込もうとした男性の店員をさらに捕まえて歩道に引き戻し、犯人は、いきなり店員を刃物で刺して逃げたという。

    不審者


    事件の直前、同ビル2階の事務所近くで、店員の男性がこの男に壁に押し付けられていたのを別の従業員が目撃しているが、男の方から「おはようございます」と声をかけて来たので、この従業員は「出入り業者か」と思ったという。
    同一とみられる男と男性の店員が、店から約50メートル南にある別のビル内にある従業員用更衣室付近の廊下を歩いているのを、店長が見ている。
    不審者の身長165~170センチ、紺色ジャンパーに黒色ズボン、白マスクでがっちり型、髪形は白髪まじりのオールバックの事件当時は30歳から50歳位を特徴としている(かなり返り血を浴びている可能性がある)。
    目撃証言が多く、不審者の似顔絵が複数作成されている。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1985年
    【#108】パラコート連続毒殺事件
    パラコート連続毒殺事件(-れんぞくどくさつじけん)とは、1985年4月30日から11月17日の間に日本各地で発生した、無差別毒殺事件。全て未解決。
    関連事件34件(模倣犯を含む)のうち、13人が死亡。

    パラコート


    パラコートは除草剤。当時24%濃度の液剤が市販されており、18歳以上で印鑑さえ持っていけば農協などで買うことができた。致死量は15CC。

    概要


    全て1985年。年齢は、全て当時のもの。
    確認されている犠牲者 [編集]
    全12件。死者は12名。
    使われたのは、オロナミンC6件、コーラ2件、リアルゴールド2件、不明2件。毒物はパラコートが多いが、1件のみジクワットが使用されている。
    いずれも自販機(自動販売機)に置いてあったドリンク(飲料)に、毒物が混入されていた。取り出し口が最も多いが、「自販機の上」、「自販機の下」というケースもある。
    4月30日、広島県福山市の自販機
    トラック運転手(45歳)がドリンクを購入した際、自販機の上に置かれていたオロナミンCを飲む。
    5月2日に死亡。運転手の嘔吐物から、除草剤であるパラコートが検出。
    9月11日、大阪府泉佐野市の自販機
    男性(52歳)が釣りから帰る途中、オロナミンCを購入。取り出し口にすでに同じ商品があることに気づき、2本とも持ち帰る。
    帰宅後に飲み、9月14日に死亡。飲み残しのオロナミンCからパラコートを検出。
    9月12日、三重県松阪市の自販機
    大学生(22歳)が、自宅近くでリアルゴールドを購入。取り出し口にすでに同じ商品があることに気づき、2本とも持ち帰る。
    帰宅後に飲み、14日に死亡。検出された毒物はジクワット。
    9月19日、福井県今立町(現:越前市)の自販機
    男性(30歳)が自販機の下にあったコーラを飲んだところ、気分不調を訴えて病院に駆け込んだ。
    9月22日に死亡。胃洗浄、飲み残したコーラの両方から、パラコートを検出。
    9月20日、宮崎県都城市の自販機
    男性(当時45歳)が自販機で飲み物を買おうとして、取り出し口にリアルゴールドが2本あるのを見つけて持ち帰る。
    帰宅後に飲んだところ、気分不調を訴える。9月22日に死亡。飲み残したリアルゴールドから、パラコートを検出。
    9月23日、大阪府羽曳野市の自販機
    男性(50歳)が飲み物を買おうとして、取り出し口にオロナミンCを2本見つけ、持ち帰る。
    9月25日の午前中に飲む。翌日に容態が急変し、10月7日に死亡。
    10月5日、埼玉県鴻巣市の自販機
    男性(44歳)が飲み物を買おうとして、取り出し口にオロナミンCが2本あるのを見つけて持ち帰る。
    翌日飲み、10月21日に死亡。飲み残しのオロナミンCよりパラコート検出。
    10月15日、奈良県橿原市の自販機
    男性(69歳)が、取り出し口にドリンクが2本あるのに気づき、持ち帰る。
    帰宅後に飲み、11月13日に死亡。飲み残しのドリンクからパラコート検出。
    10月21日、宮城県
    男性(55歳)が同様に死亡。
    10月28日、大阪府河内長野市の自販機
    男性(50歳)が、取り出し口のオロナミンCを見つけて飲み、死亡。
    11月7日、埼玉県浦和市(現:さいたま市)の自販機
    男性(42歳)がオロナミンCを購入。取り出し口に2本あることに気づき、両方とも持ち帰る。
    帰宅後に飲み、11月16日に死亡。
    11月17日、埼玉県児玉郡の自販機
    女子高校生(17歳)がドリンクを購入した際、取り出し口にあったコーラを見つけて持ち帰る。
    コーラを飲んだ一週間後に死亡。飲み残しのコーラからパラコート検出。
    この時は、業者から「事件についての注意書き」が自販機にしてあった。
    事件を受け、オロナミンCを販売する大塚製薬は、瓶容器の形状をねじ回し方式からプルトップ方式に改良した。
    自殺の可能性もある犠牲者 [編集]
    7月11日、京都府福知山市
    男性(48歳)がパラコート入りのドリンクを飲み、死亡。
    模倣犯 [編集]
    いずれも東京都。死者は無し。
    9月17日、港区
    画廊に勤める女(34歳)が、画廊の経営者と支店長に青酸化合物入りのコーヒーを飲ませ殺害を図ったが、未遂に終わり、逮捕された。
    女は会社の金を使い込んでおり、事実が発覚するのを恐れたため、犯行に及んだ。
    9月25日、世田谷区上北沢の自販機
    ドリンクを飲んだ大学生が、「変な味がする」と警察に訴える。
    石灰硫黄合剤が含まれていたことが判明。犯人は不明。
    9月27日、北区の自販機
    ドリンクを飲んだ女性(44歳)が、「変な味がする」と警察に訴える。
    石灰硫黄合剤が含まれていたことが判明。犯人は不明。
    自演 [編集]
    9月27日、東大阪市の自販機
    中学生が、ドリンクを飲んで「変な味がする」と警察に訴えて入院。
    後に、自らが殺虫剤を混入し、飲んだことが判明。
    動機は、「連続事件の犠牲者として入院すれば、同情したクラスメイトらが見舞いに駆けつけてくれる」というもの。
    期待に反し、クラスメイトは誰も見舞いに来なかったという。
    9月30日、福井県の自販機
    男(22歳)が、「変な味がする」と警察に訴える。
    世間から同情してもらいたくて、自らが殺虫剤を混入していたことが発覚し、逮捕される。
    12月11日、群馬県沼田市の自販機
    ドリンクを飲んだ中学生が、混入していたパラコートにより倒れる。
    後に、自ら飲む寸前にパラコートを入れ、自殺を図っていたことが判明。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 2009年
    【#107】浜松市麻雀店放火殺人事件
    浜松市麻雀店放火殺人事件(はままつしマージャンてんほうかさつじんじけん)とは2009年11月に発生した殺人事件。

    概要


    2009年11月17日 午前3時半ごろ、静岡県浜松市中区高丘東の麻雀店「金ちゃん」から出火し全焼。男性4人が負傷し病院に搬送されたものの、そのうち1人が避難する際に頭を打ち、脳挫傷で死亡。現場からは男性客3人の焼死体が見つかった。
    その後の浜松中央署捜査本部の調査によると、火元と見られる1階中央部に設置されていたストーブや電気配線の点検はしたものの、出火当時は設置されていたストーブは使用されておらず、火の気がなかったために、放火の疑いで調べており、捜査本部は「出火直前まで火の気がなく、火の回りも早かった。」と発表している。[1] さらに出火当時は、1階正面玄関は施錠されており、裏口からのみ出入り可能だったという。出火直前の午前3時ごろに2階にいた従業員が当時無人だった1階の扉の開閉する音を聞いていた。[1]
    一方で出火の約1時間前の午前2時半頃に、3人組の男が黒い乗用車を出火した麻雀店付近の駐車場にエンジンをかけたまま駐車し、近くの飲食店と出火した麻雀店を2回往復しているのを近所の人が目撃している。現場近くは深夜から未明までは人通りが少ないので不思議に感じたという。[2]
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 2004年
    【#106】廿日市女子高生殺人事件
    廿日市女子高生殺害事件(はつかいちじょしこうせいさつじんじけん)は2004年10月に広島県廿日市市に住む高2女子生徒(当時17歳)が自宅で刺殺された事件。捜査特別報奨金制度対象の事件で、2010年4月現在未解決である。

    概要


    2004年10月5日
    午後3時ごろ、広島県廿日市市上平良の自宅にて、長女が若い男に刃物で刺された。
    長女は高校から帰宅後、自室で仮眠を取っていた。
    長女の叫び声を聞き、祖母と妹(次女)が駆けつけた。男は祖母にも襲いかかり、背中や腹を10ヵ所ほど刺して逃走した。
    妹は裸足のまま、30m離れた近所の園芸店に助けを求めた。
    長女と祖母は重体に陥って病院に運ばれた。長女はまもなく出血多量で死亡、祖母はその後回復した。
    長女は学校内でのトラブルなどもなく、犯人の動機は不明。
    被害者を1階の玄関まで追って刺すという、凶悪性の高い犯行。
    2008年
    被害者の家族らは300万円の懸賞金を用意し、犯行当日の目撃者や、犯人に心当たりがある者に呼びかけた。

    犯人像の謎


    被害者の遺品は、警察が捜査のために一時的に預かっていた。後にそのほとんどが返却されているが、携帯電話に関しては返却されていない。
    携帯電話には、被害者と何らかの関係があると思われる男性2人組の名前が登録されている。
    しかし、被害者の行動範囲は塾・学校・自宅周辺と非常に狭いものであり、友人や家族でさえも心当たりのない人物である。
    この人物は「~~くん」と言う敬称から、同世代の男性であると思われているが、身元は分かっていない。
    これらの情報は、奇跡の扉 TVのチカラにて報道された。
    犯人の特徴 [編集]
    下記は、警察の手配書に書かれている、犯人の特徴である。
    年齢 … 20歳くらい
    身長 … 165センチ程度
    体格 … がっちり型
    特徴 … 目が細く、頬にニキビ様の跡
    髪型 … 当時は髪を立たせており、若干茶髪。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1993年
    【#105】八戸市女子中学生刺殺事件
    八戸市女子中学生刺殺事件(はちのへしじょしちゅうがくせいしさつじけん)とは、1993年10月に、青森県八戸市に住む中学2年(14歳。当時)の女子生徒が、自宅で刺殺体となって発見された事件。
    2008年10月に殺人罪の公訴時効(15年)を迎えた(未解決事件)。

    概要


    1993年10月27日、八戸市城下4丁目で、中学2年生の女子生徒(14)が自宅で刺殺され、病院で働く母親(46)が帰宅して発見した。玄関のガラス戸が割れ、外側に向かって破片が飛び散っていた。室内に物色された形跡はなかったが、玄関、居間、風呂場の脱衣所の3か所の窓が施錠されていなかった。
    犯行は、住宅密集地の、細い路地を入った被害者の自宅で、短時間のうちに行われた。そのため、当初は「すぐに犯人は逮捕される」と思われていた。青森県警は12万人の捜査員を投入し、重要参考人を含む約600人から事情を聴いたが、結局手掛かりは得られず、2008年10月27日午前0時、殺人罪の公訴時効(15年)を迎えた。
    当日の経過 [編集]
    7時25分
    被害者が、登校のため家を出る。
    7時30分
    次男、登校のため家を出る。
    母親も家を出る。施錠し、乗用車で出勤。
    14時25分
    授業が終了し、清掃時間となる。
    15時30分~17時30分
    部活(陸上競技)で河原を走る。
    17時40分~45分
    三人で下校する。
    「今日は早く帰らなきゃ」という理由で、よく立ち寄る食料品店には寄らず。
    17時53分
    JR本八戸駅前で友達と別れ、一人で自宅へ向かう。
    17時58分
    被害者宅の明かりが点いていないのを、通行人が確認。
    18時00分頃
    被害者が帰宅。
    18時15分~20分
    近所の16人が、被害者宅の玄関のガラスが割れる音を聞く。
    1人は外に出て確認したが、誰もいなかった。
    「助けて」の声も聞いた者もいた。
    18時23分頃
    母親が帰宅。玄関に鍵は掛かっていなかった。
    被害者が6畳間で倒れているのを発見。
    18時25分
    近所の人が助けを求められ、110番通報。
    18時27分
    119番受理。
    18時38分以降
    救急隊員が死亡確認。
    被害者と室内の様子 [編集]
    発見時は仰向けの状態で、口には粘着テープが張られ、両手は後ろ手に粘着テープで縛られていた。
    上半身は、学校指定のジャージーにパーカーを羽織っていたが、下半身は裸で座布団が掛けられていた。しかし、乱暴された跡はなかった。
    トレーナーのズボンと下着は、頭の右横の方に落ちていた。
    自宅で使われていた包丁が右足の横に落ちていたが、血も指紋もついていなかった(凶器としては使われていない)。
    左首、右ふくらはぎ、左ひざなど数カ所に傷があった。致命傷は心臓を貫通する刺し傷であり、死因は失血死だった。
    玄関のガラス戸が割れ、外側に向かって破片が飛び散っていた。被害者の左ひざには傷があった(「逃げようとしてガラス戸を割った時にできた」と思われている)。
    廊下から玄関には、痕跡が残っていた。「玄関まで逃げ、ひざでガラス戸を割ったあと犯人に捕まり、部屋まで引きずり戻された」と思われている。
    殺害場所(寝室)以外で血痕があったのは、玄関付近の廊下1か所だけである。「玄関から引きずり戻す時に、心臓を刺した」と思われている。
    室内に物色された形跡はなかったが、玄関、居間、風呂場の脱衣所の3か所の窓が施錠されていなかった。
    極めて短時間での殺害 [編集]
    被害者は、事件当日は18時頃に帰宅。母親は、18時23分頃に帰宅している。従って、犯行は20分ほどの間に行われている。
    被害者のひざの傷が、「玄関のガラスを割った時に付いたもの」だとすると、18時15分~18時20分頃にガラスが割れる音を近隣の人たちが聞いていることから、母親が帰宅するまでの3分間から8分間に殺された可能性がある。
    ガラスが割れる音と共に「助けて」の声もあった、と報道されていることから、口に粘着テープを張られたのはその後と考えられている。

    遺留品、目撃証言など


    犯人の遺留品 [編集]
    いずれも、遺体が見つかった部屋(寝室)の隣の部屋のコタツの上にあった。
    タバコの吸殻2本
    タバコのナンバーから、日本たばこ産業盛岡工場で製造されたパックのマイルドセブンライトとみられる。
    被害者の家族で、タバコを吸う者はいない。
    缶コーヒーの缶
    灰皿代わりに使われていた。吸殻と同じく、犯人の遺留品と見られている。
    指紋は検出されなかった。
    布製粘着テープ
    被害者の口に貼られていたものと同じ。日東電工社製の布製の粘着テープと見られている。
    750ナンバーの段ボール色で、幅のサイズは5cm。
    現場付近では、JR本八戸駅前のスーパーだけで売られていた。紙製より値段が高い。「一日に一本売れるかどうか」、という商品で、買う人は少ないという。
    不審者、不審な車 [編集]
    不審者
    「犯行直後に現場付近から走り去った、中年の男性」が住民に目撃されている。
    不審な車
    事件直後の18時30分頃、被害者宅の斜め後ろ(現場の西側に当たる)にある駐車場から、走り去った軽自動車が目撃されている。
    車種は三菱製「ミニカトッポ」(90-93年型)で、色は黄色。
    車の後部のガラスの内側にはビニール製の赤い唇の飾りがあり、後部側面の白い網のアクセサリーがあった。
    この車は、同年8月ごろから無断駐車されていた。
    この車を運転していたのは、薄手の白いシャツを着た男で、ネクタイはしていなかった。
    事件後この車は見られなくなり、所有者は分かっていない。
    同型車で、「県内と岩手県北で登録された物」と、「県内を走っていた他県ナンバーの同型車」は約1900台。青森県警は、そのうち約680台(黄色の車両)を捜査した。

    家族構成など


    被害者は長女で、両親と2人の兄がおり、5人家族。
    父親(47)は、単身赴任のような感じであり、地方の仕事で家を空けることが多かった。事件当日も不在。
    長男(21)も仕事で他県に出ていた。
    当時同居していたのは、母親と高校生の次男(16)と被害者の3人だったが、事件発生時は母親と次男は家にいなかった。
    家の鍵は、母親と次男、被害者の3人がそれぞれ持っていた。
    家は平屋建て。裏には広い駐車場があった。
    青森県警は、1995年度までDNA型鑑定は導入していなかった。これは、47都道府県の警察で、最も遅い部類である。

    報道された捜査内容


    「毎週水曜のバレエ」と、待ち合わせの可能性 [編集]
    被害者は毎週水曜日にバレエを習っていた。事件があった10月27日も、母親に車で送ってもらうはずだった。
    レッスンは19時からで、いつもは18時50分頃に家を出ていたという。母親は、普段は19時30分頃に仕事から帰るが、水曜日は一緒にバレエに行くため、18時30分前後に帰宅していた。
    このため、被害者も18時30分までに帰宅すればいいことになるが、「今日は18時までに帰宅し、18時20分頃までは家にいなければならない」と友人に話していたことが分かっている。友人が理由を聞いても、バレエのレッスンのことも言わず、理由を濁していたという。
    「被害者が1人だけになる時間帯」に、「家族と会う確率も高く、居合わせても疑われない人物」と会う約束をしていた可能性に、警察も着目していた。
    被害者は、この日に届いていた「発表会用の衣装」を見ることはできなかった。
    包丁を持ち出したのは、どちらか? [編集]
    被害者の右足元近くには、台所にあるはずの小型の出刃包丁が落ちていた。血痕が全く付着しておらず、凶器としては使われていない。
    犯人は、凶器をあらかじめ準備していたと見られている。「だれが、どのタイミングで、何の目的でこの包丁を台所から持ち出した」のか、警察も着目していた。
    被害者は、帰宅した後、部屋にかばんを置き、六畳居間の室内灯をつけ、コタツのスイッチも入れたと見られている。
    「帰ってすぐ犯人に襲われた」とすると、被害者が包丁を台所から持ち出すことはほとんど無理と考えられる。台所にもみ合った跡などもないので、「犯人を振り切って台所に行き、包丁を取り出した」とも考えられない。逃げるのならば、玄関がすぐ近くにあるので、外へ逃げることも可能だったと思われる。
    また、「犯人が台所から包丁を持ち出しておいて、刺す時だけあらかじめ準備していた凶器に取り替えた」とも考えにくい。
    台所に血痕がない点から、「負傷する前に、被害者が威嚇・防衛などの目的で持ち出した」可能性もあると、警察は見ている。
    つまり、「警戒感を抱かない顔見知り」か、「そのほかの訪問者」を玄関で迎えた後に身の危険を感じ、持ち出したが奪われ、放置された、という可能性もある。これは、「被害者と犯人が、顔見知りかどうか」を判断する、重要なポイントになっている。
    顔見知りの犯行? [編集]
    遺体には、ひざ、ふくらはぎ、首に切り傷があったほか、致命傷は心臓を貫通する刺し傷だった。
    「犯行後に逃走すれば、事件との関連がわからなくなる人物」や、「顔を目撃されても、自分の立場が危うくならない人物」が、「明確な殺意を示す部位である、心臓を狙う可能性は低い」ことから、「被害者の証言で、自分の犯行が明らかになってしまうことを恐れたために、徹底的に攻撃を加えた可能性もある」と、警察は見ている。
    このことから、「被害者と犯人とは顔見知りである可能性」も視野に入れ、捜査をしていた。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1995年
    【#104】八王子スーパー強盗殺人事件
    八王子スーパー強盗殺人事件(はちおうじスーパーごうとうさつじんじけん)は、1995年7月30日に東京都八王子市で3人が射殺された強盗殺人事件。
    現場となった店名からナンペイ事件ともよばれる。犯人は検挙されておらず、2010年4月現在で未解決。捜査特別報奨金制度対象事件で、その中で発生したのが最も古い事件である。殺人罪など最高法定刑が死刑の罪について、公訴時効を撤廃した上で遡及適用する改正刑法及び刑事訴訟法が、2010年4月27日に施行されたため、本事件についても公訴時効が撤廃され捜査継続が決まった。

    概要


    1995年7月30日午後9時15分から20分頃、八王子市大和田町のスーパー「ナンペイ大和田店」の2階事務所に拳銃強盗が押し入り、3人を射殺して逃走。
    被害者は、パートの女性A(47歳)、アルバイトの女子高生B(17歳)と女子高生C(16歳)の3人(年齢は、いずれも事件当時)。
    犯行時間は数分間(被害者Aの知人が、迎えに来るまでの間)。
    犯人は何も奪わずに逃走している。「金庫を開けようとした形跡もない」との情報もあり、金銭目当てではない可能性もある。
    女子高生2人は布製の粘着テープで手足を縛られ、至近距離から後頭部に1発ずつ発砲され、即死の状態だった。
    パートの女性は、体は縛られていなかった。後に、「鋭利な刃物で、腹部に致命傷にならない傷を負わされた後、銃弾2発を撃ち込まれていた」ことが判明。
    強盗と怨恨の両面から捜査しているが、犯人の目撃情報がなく、捜査は難航している。使用された拳銃は、フィリピン製のスカイヤーズビンガム。
    事件当日 [編集]
    『真相報道 バンキシャ!』2007年7月29日放送分より。
    時刻不明
    女性A(47歳)が出勤。知人男性に車で送ってもらう。
    閉店後、一緒に小料理屋に行く約束をしていた。
    時刻不明
    女子高生B(17歳)が自転車で出勤。自宅からスーパーまでは2、3分の距離。
    17時00分
    2人が勤務につく(Aは3号レジ、Bは2号レジ)。
    男性従業員が退社(以後、従業員は女性のみ)。
    17時30分
    買い物客が、「店の前をうろつく、不審な50代の男」を目撃する。白いシャツにグレーのズボン姿だった。
    18時30分
    北の原公園で、地元自治会の盆踊り大会が始まる。店の周辺は、太鼓と曲で騒がしくなった。
    スーパーから公園までは、約100m。盆踊り大会は、毎年行われている。
    18時50分
    非番の女子高生C(16)が、家から自転車で店に向かう。Bに会うためと、勤務予定を確認するため。
    19時59分
    Cが、「Bの横で、仕事が終わるのを待っている」様子を、買い物客が見ている。「終わったら祭りに行く」と話しているのも聞いている。
    20時00分
    店にいるのは、Cを含め女性3人のみ。
    Aは閉店(21時)より1時間早くレジを閉め、3号レジの売上金を2階の事務所に持って行く。
    20時30分
    レジ周辺は、女子高生B、Cの2人のみになる。
    店内に、「何も買わずにうろつき、あたりの様子を伺う40代から50代の男性」がいたことが、目撃されている。
    20時51分
    閉店間際、Cが牛乳や卵を購入(レシートから判明)。
    21時00分
    公園では炭坑節が始まり、盆踊りが佳境に入る。
    閉店時間。Bは2号レジの売上金を持ち、2階の事務所へ行く。
    売り上げ係だったAが、売上金を受け取る。金庫に入れダイヤルを回し、施錠する。
    21時03分
    盆踊りの最後を飾る太鼓の演奏が、周囲に大きく響き渡る。
    21時06分
    Aが店内の戸締り、消灯を行う。
    スーパーの横の路地に男の人影があったのを、運転中の住民が目撃。男は車のライトに顔を伏せた。
    21時07分
    盆踊りが終了。周囲は静かになる。
    21時15分
    事務所から、Aが知人男性に電話。迎えを頼む(通話記録より判明)。
    21時17分
    近くの路上で、高校生カップルが、スーパーからの5発の銃声を聞く。
    Aが電話してから、路上の高校生が発砲音を聞くまで、約2分30秒。
    21時20分
    Aの知人男性がスーパーに到着。駐車場に車を停め、Aが出てくるのを待つ。
    21時45分
    Aが出てこないので、「先に行ってしまった」と思い、確認のため小料理屋に向かう。
    21時45分以降
    小料理屋にAがいなかったので、不審に思う。小料理屋の女将を乗せ、2人でスーパーに向かう。
    22時00分
    女将が事務所に入る(中で女性が着替えているかもしれないので)。
    事務所の鍵は開いていた。
    女将が、事務所入口付近で声をかけても返事もなかった。誰もいないようなので車に戻る。
    女将は身長が150cmぐらいで、室内の奥まで見えていなかった。
    知人男性と女将が、2人でもう一度事務所に入る。撃たれていた3人を発見する。
    室内と被害者の様子 [編集]
    発見時、事務所の鍵は開いていた。
    A、Bは制服を着替えて私服になっており、帰る直前に押し入られた様子だった。
    Aは、「事務所の奥にある金庫」の横に、頭をもたれるような形で倒れていた。事務所入口側には足を向けていた。
    Aは頭部を2発撃たれており、縛られていなかった。
    「銃口の熱で、皮膚が焼けた痕跡」が残されていた。
    BとCは部屋中央、金庫の手前で倒れていた。頭を事務所入り口側に向ける形だった。
    BとCは、それぞれ頭部を1発ずつ撃たれ、口を粘着テープでふさがれていた。
    BとCは、それぞれの片手を粘着テープで一緒に巻かれ、背中合わせにされていた。その粘着テープはよじれていた。
    犯人は片手に拳銃、片手に粘着テープを持っていたことが推測される。
    被害者の周囲の床は、血溜まりが出来ていた。
    犯人は血糊を踏まずに逃走した。
    金庫にも発砲した跡があった(1発のみ)。室内は荒らされていなかった。

    動機


    強盗説 [編集]
    売上金を狙って押し入った、と推測されるケース。
    金庫のダイヤルの番号がすぐにでてこなかったので、発砲して逃げた。
    発砲したことで気が動転し、すぐに逃げた。
    2件が考えられる。
    怨恨説 [編集]
    金庫内の週末の売上金(526万円)は、盗まれていなかった。
    犯人の動線が、「事務所にまっすぐ入り、まっすぐ出て行って」いた。室内を物色した痕跡は、一切ない(机の引き出しを開ける、などの形跡がない)。
    「金庫の開け方が分からず、殺害された」という説もあるが、Aは金庫の開け方を知っていた。
    被害者らの財布にも手をつけていない。
    3人とも脳幹を確実に撃ち抜き、即死させている。
    Aは生前、「カッターの刃入りの脅迫文を送りつけられる」嫌がらせを受けていた。「このままだと命がないぞ」という内容だったことが、警察の調査からわかっている。

    犯人像


    足跡は事務所内で約10個採取され、実行犯は1人と断定された。
    足跡の付着物からは、微細な鉄粉と粘土、コケが採取された。鉄粉は溶接の際に飛散したと見られ、溶接作業に従事していたか、鉄工所などに出入りしていた可能性があると見られている。
    至近距離から発砲し、3人とも脳幹が確実に射抜かれていたことから、「銃の扱いに詳しく、撃ち慣れている人物」と思われる。
    使用されたフィリピン製の銃は性能が高くなく、命中率が悪いもの。この点からも、「銃に詳しい」ことが推測される。
    粘着テープには、犯人のものとみられる指紋の一部が付着していた。事務所内の机には手袋痕もあるため、「犯人が粘着テープを使う際、手袋を脱いで素手で扱った」可能性がある。
    靴底は広島県のゴムメーカー製で、運動靴など約30種類で使用されていた。多摩地区では、パルコの吉祥寺店、調布店などで、10,000円~15,000円で販売されていた。
    使用された凶器、道具 [編集]
    拳銃は、フィリピン製のスカイヤーズビンガム(リボルバー38口径)。
    犯人に関する報道 [編集]
    週刊文春2001年11月22日号
    「犯人の実名を挙げた、暴力団関係者の手紙が存在する」と報じた。
    この手紙は、別件で拘置されていた暴力団関係者が、別の拘置所の知人に宛てたもの。
    自身が事件の一部に関与したことを示唆し、「実行犯として、元自衛官の実名を挙げていた」、とされる。
    産経新聞、日本テレビ等(2003年)
    「2002年に逮捕された、70歳代(報道当時)の男が、事件に関与しているのではないか?」との報道が行われた。
    理由
    「この男が、大阪市内の信用金庫で起こしたとされる、強盗未遂事件(1997年)」で使用された銃弾の線条痕が、事件の現場で発見された銃弾のものと酷似している。
    事件当時、男が八王子周辺に居住していた。
    しかし、具体的な関与は不明で、検挙に至っていない。
    この男は、拳銃を使用した銀行強盗や、現金輸送車襲撃事件を繰り返していた。
    26歳の頃には、銀行強盗を企てた。同じ年に、職務質問してきた警察官を射殺し無期懲役判決が下った。しかし、仮出所中に凶悪な事件を繰り返していた。
    この男は、警察庁長官狙撃事件でも名前が挙がった。
    「新潮45」へ寄稿した手記では、本件への関与を全面否定している。
    2007年7月、大阪地方裁判所は、「男の実名を挙げ、殺人鬼と決め付けた週刊新潮」に対し、「記事には真実と信じる相当な理由はない」として名誉毀損を認定し、賠償金80万円の支払いを命じている。
    中国からの情報(2009年3月)
    「覚醒剤所持の罪で、死刑が確定している日本人男性T死刑囚」のUが、「知人がナンペイ事件に関与した」と、「中国公安当局に証言した」と報じられ、日本の捜査当局も面会し事情を聴いた。同死刑囚は、中国・大連刑務所にて2010年4月9日午前9時(日本時間同10時)、死刑を執行された。
    その知人のTも、同様に中国にて死刑が確定しており、警視庁八王子署捜査本部は、捜査員の派遣を中国に要請していたが、同じ日に死刑が執行された。

    その他

    「レジを閉めたあと、売上金をむき出しのまま、暗い駐車場を通り、事務所まで運んでいた」ことは、普段から従業員に不安視されていた。
    この日は、不審者や不審車両が数多く目撃されていたが、特定には至っていない。
    犯行時間前に、「現場近くで停車し、犯行時間後に近くの交差点を走り去る、白の乗用車」が目撃されているが、容疑者の特定には結びついていない。
    ナンペイ大和田店は、事件後「ひまわり」に改名したが、1998年に閉店。建物は解体され、現在は駐車場になっている。
    被害者の一人が通っていた、東京都内の私立高校では、事件後、学校関係者などによる「銃器根絶を考える会」を結成。毎年行われる文化祭や街頭活動などを通して、「銃器犯罪の恐ろしさ」を訴え続けている。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 2006年
    【#103】函館市タクシー運転手強盗殺人事件
    函館市タクシー運転手強盗殺人事件(はこだてしタクシーうんてんしゅごうとうさつじんじけん)は、2006年12月に北海道函館市で発生した、強盗殺人・死体遺棄事件。捜査特別報奨金制度の事件。

    概要


    2006年12月21日午前7時10分頃、函館市港町3丁目にある、港町荷揚場に乗り捨てられているA交通のタクシーを発見され、トランク内からうつ伏せの状態で同交通のタクシーの運転手の男性(当時42歳)が遺体が見つかった。遺体には刃物で胸などを刺されており、タクシー内にあった売上金はなくなっていた。

    事件の経過


    12月21日
    午前3時50分頃 - 被害者が勤めるA交通の営業所(北斗市七重浜1丁目)付近で客を乗せ、国道227号線(大野街道)を亀田郡七飯町方向に走行(走行記録もある)。
    午前4時5分頃 - 亀田郡七飯町字仁山付近で空車。その後亀田郡七飯町字峠下など周辺を走行。
    午前4時20分頃 - 亀田郡七飯町字峠下102番地で停車。(この地点で被害者の血痕や携帯電話などが発見されている)
    午前4時25分頃 - 亀田郡七飯町字峠下102番地から国道227号線や国道228号線を経て函館市内を走行。
    午前4時55分頃 - 函館市港町3丁目で停止
    午前7時10分頃 - 交代予定の午前6時半になっても被害者が戻ってこないため、同僚数名がタクシーで捜索。GPS(衛星利用測位システム)から位置を確認し、車両を発見した。
    午前7時25分頃 - 配車係を通じて110番通報。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 2004年
    【#102】日本橋室町一丁目チケットショップ内女性店員殺人事件
    日本橋室町一丁目チケットショップ内女性店員殺人事件(にほんばしむろまちいっちょうめチケットショップないじょせいさつじんじけん)は、2004年9月に東京都中央区で発生した殺人事件。犯人は検挙されておらず2010年4月現在で未解決。
    概要


    2004年9月27日、午後6時55分ごろ、東京都中央区日本橋室町のチケットショップ「ビックチケット日本橋店」内での女性従業員(当時37歳)が、胸や腹などを刺されて血を流して倒れているのを駆けつけた警備員が発見。
    女性従業員は、胸と腹を刃物で刺され、病院に搬送されたものの間もなく死亡した。

    当日の経過


    午後6時50分
    現場となったチケットショップの警報機が作動
    午後6時55分
    警報機が作動して駆けつけた警備員が被害者を発見し、110番通報をする。

    防犯ビデオに映っていた男


    警察は防犯ビデオに映っていた男の行方を追っている。
    男の特徴は以下の通り。
    身長175~185センチ
    がっちり型
    髪はやや薄め

    犯人の遺留品


    Bジャンプ式洋傘
    紳士格子柄(ナイロン製・プリント)
    下ろくろ・受骨・大バネ
    胴ネーム・口ネーム付 いずれもホック部(イブシホック)にLIFEY☆MARKの刻印あり
    手元(ハケ塗セット・ショート)口金・下はじき
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1994年
    【#101】 日本テレビ郵便爆弾事件
    日本テレビ郵便爆弾事件(にほんテレビゆうびんばくだんじけん)は、1994年12月に日本テレビ放送網に郵送されたパイプ爆弾が爆発し、2名が重軽傷を負った事件。

    概要


    1994年12月21日水曜日午後5時45分頃、東京都千代田区二番町の日本テレビ放送網西本館(現・日テレ麹町ビル西館)6階にある編成局特別制作部製作センターで、子役の安達祐実(13歳)宛に送られてきた封筒が爆発。封筒を手で破って開封した、安達の所属事務所であるサンミュージックブレーンの31歳の男性社員が左手親指に重傷、日本テレビ関連会社映放(現・日本テレビ人材センター)の30歳の女性社員が軽傷を負った。近くに居合わせた、安達のマネージャー(35歳男性)も一時音が聞こえなくなる被害を受けた。なお、当時安達本人は隣接する北本館のスタジオで年末年始番組の収録を行っており、怪我はなかった。
    日本テレビ宛の郵便物はいったん館内の集配所で区分けされた後に各部署に配布されることになっており、爆発が起きたのは、映放社員がたまたま居合わせた安達の所属事務所の社員に「重いので気を付けるよう」注意の言葉を掛けて手渡した直後のことだった。
    麹町警察署及び警視庁捜査一課は傷害及び爆発物取締罰則違反の容疑で捜査を進めていたが、容疑者の検挙には至ることなく2009年12月21日時効が成立した。なお、爆発物取締罰則の最高刑は死刑であり、当時の刑事訴訟法での公訴時効は15年となる。

    送付された郵便物


    縦25cm・横9cmの市販の白色封筒で、宛先は「東京都千代田区二番町14 日本テレビ放送網アナウンス部 安達祐実様」、差出人は「都内港区新橋1-9-6 旭通信社」となっていた。500円の切手が貼られ、12月19日付の芝郵便局の消印があることから、12月18日夜から19日の夕方に掛けて芝局区内のポストに投函されたと見られている。
    封筒から、はんだ付けの跡がある単3乾電池3本、直径1.7cm×長さ14cmの鉄パイプ、ニクロム線、赤白のリード線、厚さ数mm・一辺1cmの正方形板状の磁石などが発見され、火薬の量は20g前後と見られている。
    なお、差出人として記された大手広告代理店の旭通信社(現・アサツー ディ・ケイ)は、広告業務において日本テレビとの取引はあるが、本件とは無関係と見られている。

    同様の事件


    前年の1993年夏に、ニッポン放送に爆発物が送りつけられる事件が2件発生している。宛名はいずれも深夜番組オールナイトニッポンのパーソナリティで、7月29日には裕木奈江、8月3日には加藤いづみとなっており、封筒の中から単3乾電池や爆竹が発見されている。
    翌年の1995年5月16日、東京都庁舎で青島幸男都知事宛に送られた小包が爆発、開封した男性職員が重傷を負った(東京都庁小包爆弾事件)。本をくりぬいて爆発物が仕込まれてあり、起爆の仕組みは日本テレビのものとほぼ似ていた。この事件はオウム真理教によるものであった。
    これらの事件を契機に郵政省(当時)は、不審な郵便物にはX線検査を行うようになった。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1954年
    【#100】仁保事件
    仁保事件(にほじけん)とは、1954年10月26日に山口県吉敷郡大内村仁保(現在・山口市仁保下郷)で起きた一家6名が殺害された殺人事件と、それによって生じた冤罪のこと。

    概要


    事件発生 [編集]
    事件は、1954年10月26日の午前0時頃に発生した。
    事件現場は、国鉄(現JR)山口線仁保駅の北東に2キロほど行った山あいの中腹に位置する農家の一つで、一家の主で農業を営む男性(当時49歳)と、その妻(42歳)、母親(77歳)、三男(15歳)、四男(13歳)、五男(11歳)の6名が襖で隔てられた3つの部屋で蒲団に入って就寝していたところを犯人に襲撃された。
    この一家は地元では裕福な農家の一人で近隣に8反もの農地と山林を所有しており、女性関係も派手だったという。
    6名は頭部や顔面を鈍器で殴打されたり、頸部と胸部を鋭利な刃物で刺されたりされ、蒲団の上で血染めになって死亡していた。後に、捜査当局は頭部を鍬で割り、頚動脈を切り心臓を刺すという執拗な殺害方法であると断定した。
    事件が発覚したのは、同日早朝の午前7時頃。いつもと違ってこの農家の雨戸が開いていない点を不審に思った隣家の主婦が不審に思い家の中を覗き見たところ6名の遺体を発見、警察へ通報した。
    難航する捜査から容疑者の逮捕まで [編集]
    当時、事件に関して県警は以下のような鑑識結果を得ており、毎日新聞が11月14日に報じている。
    事件は単独犯である。
    凶器で被害者の頭部を強く殴打していることから、犯人は返り血を浴びていない。
    母親が寝ていた部屋から発見された1.5メートルほどの縄は、外部から持ち込まれたモノである。
    事件は午前0時頃に起こった。
    足跡から察するにかなりの大男である。
    毒物を用いての犯行ではない。
    現場で発見された土は、犯人が付近の水田から持ち込んだものである。
    犯人は現場から物を盗んだ形跡はない。
    事件発覚当初、山口県警察は怨恨説と物盗り説の両方を想定して捜査を進めた。
    その上で、事件現場の近隣の前科者約160名を容疑者としてリストアップし、一人一人虱潰しに捜査を行なった。このリストには後に本事件の犯人として後に冤罪犯とされた男性も含まれていたが、当初は事件の発生した1年半前から郷里を出奔していたことからリストから外されていた。
    しかし、そうした捜査陣の努力とは裏腹に捜査は予想以上に難航した。
    県警は怨恨説から事件宅の隣家の主人を逮捕。しかし、証拠不十分のため23日の勾留期限で釈放した。
    業を煮やした県警はリストを徹底的に洗い直し、新たな容疑者として事件当時37歳の男性が浮上してきた。しかし、説得力のある証拠が出てきた訳ではなく、リストからの消去法で選ばれただけであった。
    県警は山口県を出奔する前に関与したとされる窃盗未遂事件で全国に指名手配した。この事件は男性の友人と二人で商店に侵入したものの結局は何も盗まなかったというものであった。窃盗未遂事件での全国指名手配は当時としても極めて異例である。
    これにより、男性は1955年10月19日に大阪府大阪市天王寺区の天王寺駅にて住居侵入の容疑者として逮捕された。翌日、10月20日に大阪から山口警察署へと移送された。
    取調べから起訴まで [編集]
    大阪から山口県警へ移送された男性は1955年10月31日に仁保事件とは別の窃盗事件で起訴され(容疑は住居侵入及び窃盗未遂)、12月10日にはもう一つの別件であるマンホールの蓋の窃盗の罪状で起訴された。この時男性は贔屓にしていた弁護士による弁護を求めたが、警察が取り合わなかったことから本件での起訴まで弁護士がつくことがなかった。そのため、男性は孤立無援の状態で警察の取調べを受けることとなった。
    そして、11月2日に山口県警での仁保事件に関する取調べがスタートした。
    しかし、前述のように確固たる証拠のない状態での取調べであったことから、男性はアリバイを申し立てて犯行への関与を否定。調書によれば初めて否認したのは11月9日(ただし、調書がとられたのは翌日の11月10日)となっている。
    その後、11月22日の調書に犯行の自供が記録されているが、自供そのものは録音テープ(後述)によれば11月11日になされている。つまり、初めての自供から調書に記録が残るまで11日も経過しており、その間男性の供述は常に迷走していた。自供が最終的な形となったのは検察官による取調べが行なわれる1956年3月22日のことである。
    翌年、1956年2月1日に山口拘置所に移管。同年の3月23日に男性を連れての現場検証。1956年3月30日にようやく起訴の運びとなった。
    録音テープの存在
    この事件では日本の警察では珍しく取調べの様子が録音テープに記録が残っている。後述するようにこのテープはのちのち重要になるのでここで詳しく触れておく。
    これは、仁保事件の3年前に同じ山口県で起こった八海事件(後に冤罪事件となる)で被告の自供が法廷での争点となった点を踏まえたものであった。
    このテープは全部で33巻にも及ぶ。しかし、これは取り調べの全容を網羅したものではなく、あくまでその一部を記録したものに過ぎない。結果としてテープは法廷で検察側によって被告の自供を補強する役割しか果たさなかった。
    テープには警察での取調べの様子が克明に記録されているが、そこには警察による被告に対する執拗な取調べの様子が窺える。

    裁判の経過


    1956年 -
    3月30日 - 男性を山口地方裁判所に起訴。
    5月2日 - 山口地裁での第1回の公判。公判では取調べとはうってかわって犯行を全面的に否定。
    1962年 -
    6月15日 - 山口地裁で死刑判決が下る。地裁は警察の取調べでの拷問の事実は否定したものの被告の自供には無理があるとした。しかし、検察に対する自供の任意性は認めた。被告は広島高等裁判所に控訴。
    1968年 -
    2月14日 - 広島高裁は控訴を棄却し、第一審の死刑判決を支持。又、検察のみならず警察の取調べでの自供も任意性があると判断した。
    1970年 -
    7月31日 - 最高裁判所は第二審の判決を重大な事実誤認があるとして、判決を破棄し広島高裁へ差し戻し。自供の任意性への判断は保留したが、自供の変遷に対して少なからず信用できない点があるとした。なお、弁護側は最高裁では(1)事件現場には最低でも3人分の足跡があった(2)創傷を分析すると鍬、出刃包丁以外の凶器がある、という2点から男性の無罪を主張した。
    9月22日 - 被告の保釈が決定。
    1972年 -
    12月14日 - 広島高裁が殺人での無罪の判決を下す(別件のマンホール窃盗で懲役6ヶ月)。
    12月27日 - 検察が上告を断念。事件発生から18年、被告の逮捕から17年を経て、男性の殺人の無罪が確定。

    補足


    事件現場は現在では草木に覆われており、凄惨な事件の痕跡を残すものは何もないという。
    仁保事件に題を得た「自白」というドキュメンタリードラマを朝日放送が1972年11月11日に放送を予定していたが、中立を欠いており、肖像権の侵害に当たるとして、前日に放送が急遽中止になった。又、同じく朝日放送が12月24日に冤罪の嫌疑を受けた男性に密着取材をした「二四時間」を放送予定だったが、これも中止となった。
    この事件には刑事訴訟法の専門家で冤罪問題に詳しい、若き日の東京都立大学(当時)の研究室に所属していた小田中聰樹(現在は東北大学法学部の名誉教授)も救援運動に協力した。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1939年
    【#99】南京総領事館毒酒事件
    南京総領事館毒酒事件(なんきんそうりょうじかんどくしゅじけん)とは、1939年(昭和14年)6月10日に日本の在外公館である南京総領事館で発生した殺人事件。

    概要


    1939年6月10日、南京総領事館では清水留三郎外務政務次官歓迎祝賀会が開かれ、清水政務次官の他に日本軍の要人や中華民国維新政府の要人も出席していた。
    一同が乾杯して老酒を飲んだところ、急に苦しくなって昏倒したり、嘔吐したりした。招待客については生命に別状はなかったが、総領事館の職員2人が中毒死した。
    領事館警察の署長は、幸いにも老酒を飲んでいなかった[1]ので、直ちに部下の警察官に命じて、中毒者の応急処置をしたり、緊急配備を敷いた。
    捜査の結果、老酒の中に猛毒性のヒ素が検出され、事件発生2時間前から中国人の給仕1人が姿を消していることが明らかになった。
    その後、その中国人給仕から手紙が届いた。そこには「自分が犯人で、日本軍に恨みをもっていたこと。長年勤めていた領事館の方々には大変申し訳なかったこと。手紙が届く頃には香港経由で奥地に逃走している。」旨が記されていた。
    背後関係があったのかどうか、またこの手紙の真偽についても捜査が行われたが、結局未解決のまま終戦に至った。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1959年
    【#98】ナショナル航空967便墜落事故
    ナショナル航空967便墜落事故(National Airlines Flight 967)とは、メキシコ湾上空でアメリカ合衆国の民間旅客機が消息を絶った航空事故である。機体の大部分が回収されなかった為、事故原因は判明しなかったが、実際は保険金目当ての航空テロであったとする説がある。ただし、捜査当局が立件することが出来なかったことから未解決である。

    概要


    1959年11月15日。ナショナル航空967便は現地時間の午後11時32分にフロリダ州のタンパ国際空港を離陸した。967便は夜行便でニューオリンズ経由でロサンゼルスに向う飛行計画であった。レシプロ旅客機は巡航高度14000フィート(4300m)を飛行してニューオリンズに向かっていた。967便からの通信では天候条件に問題ないとしていたが、これが最後の通信となった。
    翌日16日午前0時55分ごろ、967便はニューオリンズの東南東約190Kmのメキシコ湾(北緯29度13分、西経88度40分)で管制レーダーから消えた。その後捜索されたが、海面に漂っていた搭乗者10人の遺体と機内装備品の残骸を発見したものの、海底に沈んでいるはずの機体主要部を発見することができなかった。そのため乗員乗客42人全員が犠牲になった。

    爆破疑惑


    この事故では早い時点で、機内に仕掛けられた爆発物による航空テロの可能性が指摘されていた。実際に機体は飛行中にバラバラになっていたと見られること、そして遺体の中には焼け焦げたものがあったためである。しかしながら、前述のように破壊活動があったと実証できるだけの物的証拠を見つけられなかった。
    この航空テロの被疑者として強く疑われたのが、967便に搭乗していたはずの自然療養医であった。彼が事故の2ヵ月後にアリゾナ州で生存していることが判明したためである。一説によれば彼は保険金詐欺のために別人を搭乗させ、爆破装置も機内に持ち込ませて、証拠が回収するのが困難な洋上で決行したものである。しかし物的証拠は得られず、事故原因は不明とされ立件されることはなかった。
    テロ実行犯だとの疑惑のある自然療養医であるが、保険金は彼の妻に支払われた。なお、彼は1969年5月2日にテキサス州で死亡したため、事件の真相は永遠に判らなくなった。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1988年
    【#97】名古屋妊婦切り裂き殺人事件
    名古屋妊婦切り裂き殺人事件(なごやにんぷきりさきさつじんじけん)は、1988年愛知県名古屋市で発生した殺人事件。

    概要


    1988年3月18日、愛知県名古屋市中川区のアパートに会社員(当時31歳)の男性が帰宅。室内で、妻である臨月の妊婦(当時27歳)が殺され、赤ちゃんが泣き叫んでいるのを発見した。
    妻は両手を縛り上げられており、首に電気コードを巻かれ、絞殺されていた。死体は、薄い鋭利な刃物で、みぞおちから下腹部にかけて縦38センチにわたって切り裂かれていた。彼女の足元には、赤ん坊が、へその緒をつけたまま泣き叫んでいた。犯人は妊婦を絞殺後、胎児を生きたまま取り出してへその緒を刃物で切断し、子宮にコードを切り離したプッシュホン式の電話の受話器と、キャラクター人形のついたキーホルダーを入れた後、妻の財布を奪って逃走した。
    取り出された胎児は、足など3箇所を刃物で切りつけられていたが、病院で約1時間の手術を受け一命を取り留めた。
    なお、絞殺の凶器は別の物であり、首に電気コタツのコードが巻かれたのは死後とされている(コンセントが刺さっていた状態で発見された)。
    有効な手がかりがないまま2003年3月18日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。世間の好奇の目にさらされ続けた夫と子供は1999年に日本国外に移住している。

    概捜査要


    夫への容疑
    警察は最初、被疑者を夫のみに絞っていた。理由は、
    帰宅後に、家の異変に気づきながらも妻の存在を確かめず、妻を捜す前にスーツから着替えていたこと。
    報道陣の前で、「妻はワインが好きだったので、ワインを注がせてください。」と言いながら、グラスに赤ワインを注ぎ、霊前に供えた(落ち着き払っており、この行為はパフォーマンスと考えられた)こと。
    などからである。
    しかし、妻の死亡推定時刻である午後3時前後には、まだ会社で勤務していたため、アリバイが成立した。
    サイドビジネスと最後の目撃者
    次に、夫婦がサイドビジネスとして家庭でアムウェイの商品を販売していたことから、警察は「サイドビジネスがらみの怨恨殺人」と睨んだ。しかし、具体的な手がかりは得られなかった。
    妊婦に出会った最後の人物は、妊婦から商品を受け取った女性である。彼女は、当日の午後2時ごろ車に乗り、手土産に苺を持ち、注文商品の受け取りに妊婦宅を訪問した。
    妊婦は女性を部屋に入れ、2人で苺を食べながら世間話をした後、商品を女性に渡して金を受け取っている。
    金を入れた財布は、犯人に奪われている(他の金品は一切奪われていない)。
    午後3時ごろ、妊婦は階下にある駐車場まで女性を送って行った。この時には「施錠してなかった」と、後に女性は証言している。
    妊婦の死亡時刻が午後3時前後であることから、「2人が部屋を出て行った直後に犯人が侵入した」とみられている。コタツの上には、苺が入っていた空のガラス食器が置かれたままだった。
    不審人物
    階下の居住者が、「午後3時10分から20分までの間に、不審な男がアパートをうろついていた」と証言。
    ドアのノブがガチャガチャ回っている音が聞こえた後、チャイムが鳴ったので出てみると、身長165センチほどの30代らしきスーツを着た男性が、「ナカムラさんを知りませんか?」と聞いてきた。居住者は「知らない」と言ってすぐにドアを閉めた。男はナカムラさんを探しているわけではないものと思われる。
    この男の目撃証言は他にもあり、近くの駅から、アパートやマンションを訪ねまわっている姿が何人もの人間に目撃されていた。
    後にアパートと近所の住人から、不審人物の証言を得たほか、事件当日にアパート付近を通った通行人400人以上の人間をしらみつぶしに確認した。しかし、「不審人物の行方は分からなかった」と警察は発表している。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1999年
    【#96】】名古屋市西区主婦殺害事件
    名古屋市西区主婦殺害事件(なごやしにしくしゅふさつがいじけん)とは、1999年11月にに愛知県名古屋市で発生した殺人事件。愛知県警による正式名称は西区稲生町5丁目地内における主婦被害殺人事件。2010年4月現在で未解決。

    概要


    1999年11月13日午後2時半ごろ、名古屋市西区稲生町のアパート内で主婦(当時32歳)が、首を刃物で刺されて死んでいるのが発見された。
    公訴時効は法改正(2005年)前のため2014年となる。

    犯人


    足跡や血痕などから、犯人の特徴は以下の通り。
    年齢は40歳~55歳くらいの女
    血液型はB型、左右のいずれかの手にけがをしたとみられる。
    犯人はしばらく周辺の様子を伺った後、現場から500mほど離れた稲生公園近くまで走って逃げたらしい。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1998年
    【#95】長野青酸ウーロン茶殺人事件
    長野青酸ウーロン茶殺人事件(ながのせいさんウーロンちゃさつじんじけん)とは1998年8月に長野県須坂市で発生した、猛毒青酸カリ入りのウーロン茶を飲んだ塗装業の男性が死亡した事件。犯人は検挙されておらず2010年4月現在で未解決。

    概要


    第1の事件
    1998年8月31日午前7時30分頃、塗装業の男性Aさん(当時58歳)が朝食の時、冷蔵庫から出したばかりの缶入りのウーロン茶を一気に飲み干した後、再び食事を取っていると、突然男性が「うーん、苦しい」と言って食べたものを全て吐き出した。救急車で運ばれたものの、病院に着いた時には心肺停止の状態だった。午前9時12分に死亡が確認された。
    病院側は、病名を「急性心不全」としたものの、心不全の原因がはっきりしないため警察に検視を依頼した。一応、検視を行ったものの、別段の異常が見つからなかったために、そのまま「心不全」とした。
    第2の事件
    9月1日、Aさんも利用していたというスーパーにて発生。店長が変形した缶を見つけ、売り物にならないと判断し、自らが飲んだ。一口飲んで味と異臭に気付き、さっそく不審物として警察に提出した。
    調べた結果、提出された缶の底には接着剤で埋めた跡があった。中身を科警研に調査依頼したところ「青酸化合物」が発見された。
    9月3日、この事件を知ったAさんの家族が警察に届けるとともに、Aさんが飲んだウーロン茶の缶も提出した。調べた結果、店長が提出した缶同様に裏底に接着剤の跡があり、青酸化合物が発見された。そこで、科警研は病院に残されていたAさんの血液を調べたところ、青酸の反応が出たことを確認した。
    長野県警は「無差別殺人」事件として大掛かりな捜査を開始したが、有力な手掛かりは掴めていない。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1995年
    【#94】長野県岡谷市看護助手殺害事件
    長野県岡谷市看護助手殺害事件(ながのけんおかやしかんごじょしゅさつがいじけん)とは1995年2月に長野県岡谷市に住む看護助手の女性(当時51歳)が自宅で絞殺体で発見された事件。
    2010年2月に殺人罪の公訴時効(15年)を迎えた(未解決事件)。

    概要


    1995年2月10日 9時50分頃、長野県岡谷市南宮にある被害者の自宅に勤め先の同僚が無断欠勤を心配して訪ねたところ、自宅の1階の居間の押入れで被害者が亡くなっているのを発見し、事件が発覚した。遺体のあった部屋の電気コードはなくなっていたものの、通帳や現金は残されていた。
    被害者は事件発覚の前日(2月9日)の午前中、「午後2時半からの知人の葬式に参列する。」と理由で勤め先の病院を早退したが、知人の葬式には参列しておらず、被害者が使う車も自宅前に止められたままだった。[1]その後の長野県警捜査本部の捜査によると、被害者は帰宅直後の午後1時半に殺害されたものと見られている。[2]
    カネ目当てで自宅に侵入したところに被害者と鉢合わせになったか、顔見知りの犯行と推測しているものの、被害者の交友関係がはっきりとせず、当初から捜査は難航していた。[2]捜査本部はこれまで捜査員延べ約2万人を投入し、関係者や近所の人に聞き込みをするも、有力な手がかりを得ることが出来ず、2010年2月9日に殺人罪の公訴時効(15年)を迎えた。[3]
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1990年
    【#93】長崎屋火災
    長崎屋火災(ながさきやかさい)は、1990年兵庫県尼崎市のスーパーマーケット、長崎屋で発生した火災。「尼崎スーパー火災」、「長崎屋尼崎店火災」などとも呼称される。

    概要


    1990年3月18日午後0時30分頃、神田中通4丁目(中央四番街)にある長崎屋尼崎店で、4階インテリア売場に展示されていたカーテンから火の手が上がっているのを同階寝具売り場にいた女性が発見する。他の店員らと共に消火器や屋内消火栓設備による初期消火を試みるもいずれも猛火と猛煙の前に断念。
    この頃5階事務室より119番通報がなされ、およそ10分前後で消防隊が現着するが、既に4階は全て炎に包まれていたという。 4階及び3階にいた客は従業員らの誘導で無事避難を完了するが、上階の5階にいた客や従業員22名が逃げ遅れ取り残されてしまう。防火扉の閉鎖がなされず、猛煙は容赦なく上階へ拡散していった。
    逃げ遅れた者のうち、階段での避難に成功した1名と事務室や従業員食堂の窓から4名が救助され、さらに窓から飛び降りた2名は重傷を負ったものの救助されるが、死者15名、重軽傷者6名を出す惨事となった。死者の15名は従業員食堂で煙に巻かれたことにより命を落としてしまった。

    要因


    惨事となったビル火災に共通する、複数の要因があげられている。
    階段や防火扉の前など、ビル内の避難通路に商品の入った段ボールを積み上げていた(バブル経済による在庫確保最優先が背景にあったと見られる)。
    普段から火災報知器の誤作動が多発していたため、従業員の初動対応が遅れ、初期消火に失敗した。
    大量の化学繊維が燃焼し一酸化炭素やシアン化水素などの有毒ガスが発生、犠牲者はすべて焼死ではなく中毒死によるものだった。
    出火したのは4階だったが、犠牲者全員が発見された5階は全く延焼を受けていなかった。火の手自体よりも有毒ガスの回りが極めて速かったことが多くの犠牲者を出す原因となった。
    なお、5階にあった放送室は密閉されていたため有毒ガスの影響を受けず、中にいた従業員も助かっている他、窓から飛び降りた人はすべて助かっている。

    その後


    尼崎店は火災発生後無期限休業し、そのまま営業再開することなく閉鎖され、翌年建物も解体された。その後は長らく更地となっていたが、2004年に跡地にマンションが建設されている。
    1993年、防火対策を怠ったとして、元店長ら2人に業務上過失致死傷罪で有罪の判決が下された。
    火の気のないカーテン売場から出火していたことなどから原因は不審火だが、有力な手がかりのないまま2005年に公訴時効を迎えた。
    この火災は10年後(2000年)の長崎屋倒産の遠因ともなった。
    また、尼崎中央商店街では毎年3月18日を防災の日として消防訓練を行うようになった。

    その他


    テレビ中継で、煙の吹き出す窓際で梯子車による救出を待っていた人が急に姿を消した(火災の煙中毒により立っていられなくなった為)。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1979年
    【#92】長岡京殺人事件
    長岡京殺人事件(ながおかきょうさつじんじけん)とは1979年5月23日に京都府長岡京市で発生した殺人事件。「京都長岡ワラビ採り殺人事件」とも呼ばれる。

    概要


    1979年5月23日、長岡京市内にあるスーパーでパートをしていた主婦二人が、仕事終了後、近くの山の竹林にワラビ採りに行ったまま消息不明となり、2日後の25日、山頂付近で遺体となって発見された。
    直接の死因は主婦A(当時43歳)が絞殺、主婦B(当時32歳)が刺殺。二人のリュックには、それぞれ空の弁当箱、採ったワラビ、財布が入ったままであった。検死の結果、死亡時刻はどちらも正午過ぎから二時半までと判明。
    どちらも金を奪われた形跡はなかったが、主婦Aの衣服のポケットから
    “ オワレている たすけて下さい この男の人わるい人 ”
    と鉛筆で走り書きをした、勤務先のスーパーのレシート(日付は事件当日より2日前)が発見される。だが、どちらの荷物にも衣服のポケットにも、この鉛筆がなかった。後日の捜索で、殺害現場から少し離れたところに芯の先端だけが見つかっているが、鉛筆そのものは見つからなかった。
    主婦Aは全身30箇所以上も殴打され、肋骨が折れて、肝臓が破裂しており、主婦Bは全身50箇所以上も殴打され、包丁が体に突き刺さったままだった。そして、双方の主婦のアキレス腱が切断されていた。
    警視庁の鑑定結果によると、犯人の血液型はO型と判明している。
    犯行現場は、殺された主婦たちのように、ピクニックがてら山菜採りに地元の人が訪れているようなところだったが、犯行発生前から木や竹が生い茂り、昼間でも薄暗いところが多く、レイプ事件も発生していた。
    遺留品は主婦Bの遺体に突き刺さっていた包丁一本のみで指紋は検出されず、販売ルートも解明されずじまいだった。
    有力な手がかりのないまま、1994年5月24日に公訴時効が成立した。

    容疑者


    長岡京市内に住む少年Aが、犯行時間内に駆け足で下山するところを目撃されていて、重要参考人となるも、実は犯行当日、一日中、別の場所にいたことが判明した。彼が空手を習っていて、よく山にサイクリングにきていることを周知している人物からの目撃情報だった。
    主婦らが山に入った10分後、25歳から30歳の男性二人組が目撃されるも、身元判明できず。
    主婦たちが殺害される1週間前に、入山していた主婦に声をかけた中年男性も似顔絵を製作したが身元判明できず。

    もう一つの事件


    事件から約5年後の1984年5月16日、同市で主婦Cが首や背中をメッタ刺しにされ、布団にくるまれ、家ごと燃やされるという残忍な事件が発生した。警察がこの事件と長岡京殺人事件の関連性を調べていたことが判明して、次のような噂が出現した。

    「主婦Cはかつて最初の事件当日、主婦AやBとワラビ採りに出かけたが、先に一人で下山したので殺害から免れた。マスコミと警察は報道協定を結んで、主婦Cの安全のため彼女の存在を公表しなかった。
    後日、主婦Cは何らかのトラブルでワラビ採り殺人の真犯人に殺された」

    ところが第二の殺人事件の警察記者会見では、最初の殺人事件と主婦Cとの関係はまったく言及されず、マスコミ関係の人物から報道協定についての証言は一切得られず都市伝説のレベルである。
    この事件も同様に未解決となっている。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 1970年
    【#91】豊橋事件
    豊橋事件(とよはしじけん)とは1970年(昭和45年)に愛知県豊橋市で発生した、強姦放火殺人事件とそれに伴う冤罪事件。

    概要


    1970年(昭和45年)5月15日、豊橋市で起こった火災現場で、親子3名の他殺体が発見された。母親は何者かに強姦された上で殺害され、子供2人は放火されたために焼死していたという、残酷極まりない犯行であった。

    被疑者


    3ヵ月後の8月28日、被疑者として21歳(当時)の男性が逮捕され、9月には強姦致死・殺人放火・窃盗で起訴された。11月に行われた初公判では容疑を認めたが、翌年3月に行われた2回目公判からは否認に転じた。最初の時点では、「極刑が予想される恐怖から、態度を変えた」と思われていた。

    裁判


    被告人の男性の無罪の訴えに対し、私選弁護人3人も無罪の論陣を張った。
    1973年12月に行われた公判では、捜査時の刑事(当時は定年退職していた)を弁護側の証人として招聘することに成功した。元刑事は、「被告人が真犯人であるとの疑念は消えない」と証言したが、「捜査が物証に基づかないものであった」と批判した。
    検察側は、「被告人の無罪を証明する、明白な証拠」を持っていた(後述)が、公判では隠匿し、死刑を求刑していた。しかし、被告側が「捜査本部が冤罪を作り上げた過程」を証明したため、1974年6月12日に無罪判決が宣告され、そのまま確定した。
    以上のように、「犯人として逮捕された人物」が、新聞記者や現職の警官の活躍により冤罪事件であったことが裁判で認められ、一審で無罪判決が確定した。真犯人が逮捕されないまま1985年に公訴時効を迎え、未解決事件となっている。
    物証の隠蔽 [編集]
    無罪確定から5年後、物証が明るみに出た。「犯人のものと思われる、B型の精液が付いたサルマタ」が、現場から発見されていたのである。
    当初、捜査機関は「家族の夫のもの」と弁解していた。しかし、被害者の夫は非分泌型の血液型のため、被害者の夫の精液であれば血液型が判明するはずがなかった。被疑者の血液型はA型であったため、無罪の証明となった。
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    DATE: 2010/06/03(木)   CATEGORY: 2008年
    【#90】豊田市女子高生殺害事件
    豊田市女子高生殺害事件(とよたしじょしこうせいさつがいじけん)は2008年(平成20年)5月2日に愛知県豊田市生駒町切戸地内で女子高校生が殺害された強盗殺人事件。2010年4月現在で未解決事件となっている。

    事件発生


    5月2日
    18時半頃 - 刈谷市のA高校1年、団体職員の長女(15)は夕方までサッカー部マネージャーとして部活動をしていた。
    18時45分頃 - 長女は校門付近で友人と別れて、自転車に乗り一人で帰宅した。
    19時半 - 帰宅時間を過ぎても帰らないため家族が携帯電話に何度も電話したが応答はなく、周辺を探しまわったが見つからなかった。
    深夜0時頃 - 両親は警察へ捜索願を出した。
    5月3日
    未明 - 警察は携帯電話会社へ位置検索を依頼した。携帯電話会社は微弱電波を利用して場所を絞り込んだ。当初携帯の呼び出し音は鳴っていたが、途中から不通となった。両親や署員、知人らは夜通し長女の行方を捜した。
    午前5時半ごろ - 位置情報をもとに捜索していた家族の知人が自宅から1kmほど離れた豊田市生駒町切戸地内の農道で長女の遺体を発見し、通報した。

    現場の状況


    被害者の制服は泥で汚れ激しく争った跡があり下着は持ち去られていた。仰向けの遺体の首には黒いビニールテープ(工事で使われる伸縮性のあるテープで幅3.8センチ)が七重(右巻き)に巻かれていた。口には白いタオルを押し込まれ、目と鼻を殴られた痕跡があった。現場には倒れた自転車、脱げた靴と携帯電話が落ちていた。通学用カバンと財布は無かった。携帯電話は泥水が浸水したためか壊れていた。足跡は被害者以外は一種類しか発見されなかった。
    遺体発見から約30分後の6時ごろ、このカバンは現場から15キロ離れた岡崎市稲熊町地内の小呂川の土手で散歩中の主婦により発見された。中には教科書、腕時計、電子辞書などが入っていたが、青のジャージが失われていた。カバンの外側は泥で汚れていたという。
    愛知県警捜査一課と豊田警察署は、豊田署に「豊田市生駒町地内における女子高校生強盗殺人事件」特別捜査本部を設置し、捜査を始めた。

    司法解剖


    死因は司法解剖の結果、窒息死と判明した。犯行時刻は午後7時ころから午後8時とみられる。口をふさがれて殴られ、鼻血が泡状になって気道をふさいだため窒息した可能性があるとされた。被害者は乱暴された形跡はなかった。犯人の体液も検出されていない。

    事件後


    捜査本部には事件のあった5月に357件の情報が寄せられた。
    6月3日、警察は持ち去られたジャージーと同種のものの写真を公表した。その月の情報は164件が寄せられた。
    8月4日、捜査本部は現場付近の交差点で、情報提供を呼び掛けるビラを配布した。
    情報提供は9月には18件、10月には11件と減少していった。
    12月10日、警察庁の公的懸賞金制度を適用して有力情報には300万円(上限)の捜査特別報奨金が支払われることとなった。
    平成21年5月1日、豊田署捜査本部は1日、事件現場とカバン発見現場付近でチラシを配り、情報提供を呼び掛けた。また現場から犯人のものとみられるDNAの一部が検出されていたこと、犯人のものとみられる手袋痕が制服のブレザーのほか、着衣から複数見つかったことが捜査関係者の話で分かった。
    1年間で700件以上の情報が豊田署の捜査本部に寄せられたが、2010年4月の段階では容疑者の割り出しには至っていない。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 1946年
    【#89】富坂警察署襲撃事件
    富坂警察署襲撃事件(とみさかけいさつしょしゅうげきじけん)とは、1946年(昭和21年)1月3日に東京都小石川区(現・文京区)で発生した暴動事件である。

    事件の発端


    1945年12月30日、警視庁富坂警察署は管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として在日朝鮮人3人を逮捕した。 当時の富坂警察署は戦災で焼失しており、小石川国民学校の校舎を間借りしている状態であったため、3人の容疑者は警視庁本部と大塚警察署の留置場にそれぞれ留置されていた。
    翌年1946年1月2日、容疑者のひとりを富坂警察署へ護送して取り調べた後、署内の留置場に留置した。

    概要


    1946年1月3日正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。 連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。
    危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれてしまった。
    交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。 在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出した。
    その後在日朝鮮人たちは、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した。

    その後の顛末


    警視庁は、全力をあげて事件の捜査にあたったが、終戦直後の混乱もあって検挙には至らなかった。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 2005年
    【#88】栃木小1女児殺害事件
    栃木小1女児殺害事件(とちぎしょういちじょじさつがいじけん)は、2005年12月に、栃木県今市市(現・日光市)に住む小学1年生(7)の女児が行方不明となり、茨城県常陸大宮市の山林で刺殺体となって発見された事件。

    捜索状況


    2005年12月1日
    栃木県今市市(現・日光市)の市立大沢小学校に通う小学1年生の女児が、下校途中に行方不明となった。
    家族が駐在所に捜索願を提出した。捜索が開始されたが、発見に至らなかった。
    12月2日
    栃木県警が、公開捜査を開始。
    自宅から60kmも離れた茨城県常陸大宮市の山林で、遺体が発見される。遺棄現場周辺は人通りが少なく、人目につかない場所であった。
    死体発見以降
    胸を数カ所刺されていたことなどから、栃木県警は殺人と断定、県境を跨いだことから茨城県警との合同捜査本部が設置され、捜査が開始された。
    女児のランドセルや衣服などの遺留品が見当たらず、捜索が行われたが、見つかったという報道はない。
    連れ去り現場・遺体遺棄現場周辺などでの聞き込みや、学校からの情報提供で、多くの不審者情報が寄せられたものの、有力な情報には乏しい。
    今市市から常陸大宮市へ至るルートにあたる国道293号や国道123号、日光宇都宮道路では、検問やコンビニエンスストア・ICの料金所の防犯カメラ・監視カメラの映像チェックなども行われたが、それらしい人物や車は撮影されていなかった。
    両県警は、フリーダイヤルを設置し、電話での情報提供を呼びかけている。また、配布されたポスター・チラシは両県内はじめ、多くの駅やショッピングセンターなどに貼られている。2006年8月1日より、犯人逮捕に結びつく情報に対し、200万円の懸賞金がかけられている。

    経過


    2005年12月1日
    女児が下校途中に行方不明。近くの駐在所に家族が捜索願。捜索開始。
    12月2日
    公開捜査開始。茨城県常陸大宮市の山林で遺体で発見される。両県警が合同捜査開始。
    12月3日
    女児が通っていた小学校で緊急の保護者会。児童は車での送り迎えへ。
    12月6日
    女児の告別式。
    12月7日
    両親が、初めて遺棄現場へ。
    今市市教育委員会が、公立小中学校への児童・生徒の携帯電話持ち込み解禁。
    12月8日
    女児の通っていた小学校で、集団登校が再開。
    国道293号や国道123号などで一斉検問。
    12月10日
    両県警が、情報提供を呼びかけるポスターとチラシ一万枚を作成。首都圏内はじめ、関東地方から東北地方にかけての広い範囲に配布。
    12月11日
    両県警が初めての合同捜査会議。
    2006年1月28日
    沓掛哲男国家公安委員長が、連れ去り現場を視察。
    8月1日
    犯人逮捕に結びつく情報に対し、200万円の懸賞金がかけられる。
    11月2日
    週刊新潮が、「警察が8月頃に秋葉原に潜入捜査を行い、フィギュア愛好家のリストを作成しようとした」ことを報道。

    事件による影響


    先に発生した広島小1女児殺害事件とともに、子どもの安全への関心がより一層高まり、子ども自身や通学路の安全確保などへさまざまな影響があった。特に広島市の事件の犯人が逮捕された直後に同様の事件が発生したことの衝撃は大きく、事件が発生した栃木県では県教育委員会が全県民に対し緊急アピールを行ったほか、防犯ブザーの再点検、通学路の見回りも強化された。茨城県では、インターネット上で、不審者情報を掲載する県警と県教委による掲示板がスタートし、県内の小・中・高から多くの情報が寄せられた。文部科学省は、「通学路への防犯カメラ設置を検討」した。

    報道


    事件発生から半年が経過した2006年5月末に、捜査担当者がマスメディアに対して「猟奇的なアダルトゲームやフィギュア愛好者による犯行の可能性が高い」と発言したことに対し、サブカルチャー愛好者から「確たる根拠も無く特定趣味者を犯罪者予備軍扱いするな」として批判が相次いだ。これは本事件を含め、平成時代に発生した女児の誘拐・殺害事件において、しばしば同様の報道が行われていたことも少なからず影響している。また、このような隔たった観点から作り出された犯人像に基づく初動捜査が、事件の解決を遅らせているのではないかと言う指摘もある。
    週刊新潮2006年11月9日号が報じたところによると、この事件の情報提供に懸賞金が掛けられたのと時を同じくして、警察は東京都千代田区外神田周辺のいわゆる秋葉原電気街に、数人の捜査員に「アキバ系」の扮装をさせて潜入捜査を行い、人形愛好家のリストの入手を試みたが、成果が出なかったとのことである。週刊新潮は「捜査関係者の談話」として、「犯人が被害女児の遺体を隠そうとせずに遺棄していたことから、犯人がフィギュア愛好家ではないかという見方が出た」ということを報じた。また北芝健は、『報道ステーション』のこの事件の特集にて「犯人はニートかフリーター」と発言している。
    田宮榮一はこの事件の犯人像を「犯人は20代から30代、もしくは40代から50代」と発言している。かなりアバウトな予測であり、わざわざ発言しなくてもよいとの批判がある。
    なお、2007年初頭には「DNAなどから犯人は男性」であるという報道がなされたが、情報を求めるポスターでは、それ以前から犯人を「冷酷で残忍な男」と断定していた(その根拠については不明である)。しかしその後、2009年になってこのDNAは当時の捜査関係者のものであることが判明したため、犯人が男性であると断定しうる根拠がなくなったためか、新しく作られたチラシから「男」の文字は除去されている[1]。
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    DATE: 2010/06/02(水)   CATEGORY: 2004年
    【#87】鳥栖市会社員殺害事件
    鳥栖市会社員殺害事件(とすしかいしゃいんさつがいじけん)は、2004年2月に佐賀県鳥栖市で発生した事件。犯人は検挙されておらず、2010年4月現在で未解決。

    概要


    2004年2月9日午前10時頃、佐賀県鳥栖市飯田町の九州自動車道沿いの市道で側溝に脱輪した軽自動車の助手席でこの軽自動車を所有する福岡県三井郡大刀洗町在住の会社員の男性(当時24歳)血を流して倒れているのを、被害者を探していた母親が発見した。
    被害者は8日正午ごろ、家族には何も言わずに軽乗用車で外出。同日午後、被害者と会ったという知人もいる。同日は帰宅せず、9日朝に被害者が勤務している福岡県久留米市内の会社から「無断欠勤している」と自宅に電話があり、被害者の母親が捜しているうちに発見したという。
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