あんくり
    Uncleared Crimes=未解決事件
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    DATE: 2010/05/28(金)   CATEGORY: 1949年
    【#57】下山事件
    下山事件(しもやまじけん)とは、連合国の占領下にあった1949年(昭和24年)7月5日朝、日本国有鉄道初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
    事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、警察は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件とよばれる。

    概要


    1949年6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は、7月5日朝、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示。三越に到着したものの開店前だったため、一旦、東京駅前に戻って千代田銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた下山は、「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。
    普段、下山は午前9時前には国鉄本庁に出勤し、毎朝秘書が玄関に出迎えていた。失踪当日は、国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。翌7月6日午前0時30分過ぎに国鉄常磐線・北千住駅~綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見された。
    失踪後の足取り [編集]
    失踪後、下山総裁らしき人物は、まず三越店内で、次に営団地下鉄(現・東京地下鉄)銀座線の浅草行き列車内で目撃された。三越店内では、数名の男たちを伴っていたとの目撃証言もある。
    午後1時40分過ぎに、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広旅館」に滞在。午後6時頃から8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた[1]。

    ・生体轢断か死後轢断か
    下山総裁は、東武伊勢崎線ガード下の国鉄常磐線下り方面(水戸方面)線路上で、付近を零時20分頃に通過した下り貨物列車第869列車(D51 651号牽引)により轢断されたことが判明[2]。遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された下山総裁の遺体に認められた傷に「生活反応」が認められない事から、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の桑島直樹講師)。
    また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体及び轢断現場では血液が殆ど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部等の特定部位にのみ、内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられた事が予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。
    一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、既に現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応が僅かなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。
    更に慶應義塾大学の中舘久平教授が生体轢断を主張(ただし中館教授は下山総裁の遺体を実見していない)。自殺の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺の根拠となる「死後轢断」とするかで見解は対立。1949年(昭和24年)8月30日には古畑教授、中舘教授、小宮喬介(元名古屋医科大学教授)の三人の法医学者が衆議院法務委員会に参考人招致され、国会、法医学界を巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し古畑は、「解剖執刀者桑島博士は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた[3]。
    朝日新聞記者・矢田喜美雄 [編集]
    朝日新聞記者矢田喜美雄と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、下山総裁のワイシャツや下着、靴下に大量に油(通称「下山油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった(当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある)ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に極めて不自然な事実のあることが次々と浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の監禁・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。
    加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室(CIL)でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近に僅かな血痕を認めたとの情報を入手。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施[4]。轢断地点から上り方面(上野方面)の枕木上に、僅かな血痕を発見した。
    その後、警視庁鑑識課を加えた上で改めてルミノール検証が行なわれ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れたが、さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された[5]。
    迷宮入り [編集]
    他殺とも自殺とも結論を出せないまま、1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年(昭和25年)には、捜査員が突然転任されるなどして大幅に規模を縮小、事実上捜査は打ち切られた。
    1949年(昭和24年)12月15日に、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に「文藝春秋」と「改造」誌上に掲載された。自殺と結論付ける内容となっているが、矢田喜美雄や松本清張などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。
    1964年7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。

    事件の時代背景と推理


    1949年(昭和24年)、中国大陸では国共内戦における中国共産党軍の勝利が決定的となり、朝鮮半島でも北緯38度線を境に共産政権と親米政権が一触即発の緊張下で対峙していた。このような国際情勢の中、日本占領を行うアメリカ軍を中心とした連合国軍は、対日政策をそれまでの民主化から反共の防波堤として位置付ける方向へ転換した。まずは高インフレにあえぐ経済の立て直しを急ぎ、いわゆるドッジ・ラインに基づく緊縮財政策を実施する。同年6月1日には行政機関職員定員法を施行し、全公務員で約28万人、同日発足した日本国有鉄道(国鉄)に対しては約10万人近い空前絶後の人員整理を迫った。
    同年1月23日に実施された戦後3回目の第24回衆院総選挙では、吉田茂の民主自由党が単独過半数264議席を獲得するも、日本共産党も4議席から35議席へと躍進。共産党系の産別会議(全日本産業別労働組合会議)や国鉄労働組合もその余勢を駆って人員整理に対し頑強な抵抗を示唆、吉田内閣の打倒と人民政府樹立を公然と叫び、世情は騒然とした。下山総裁は人員整理の当事者として労組との交渉の矢面に立ち、事件前日の7月4日には、3万人の従業員に対して第一次整理通告(=解雇通告)が行われた。
    他殺説 [編集]
    松本清張は『日本の黒い霧』を発表。アメリカ軍のCIC(Counter Intelligence Corps―防諜部隊)が事件に関わったと推理した。また下山事件が時効を迎えると、松本をはじめとする有志が「下山事件研究会」を発足し、資料の収集と関係者からの聞き取りを行った。同研究会では進駐軍の関与した他殺の可能性を指摘した。研究会の成果は、みすず書房から『資料・下山事件』として出版されている。
    朝日新聞記者の矢田喜美雄は、1973年(昭和48年)に、長年の取材の成果を『謀殺下山事件』にまとめ、取材の過程でアメリカ軍内の防諜機関に命じられて死体を運んだとする男に行き着いたとして、その人物とのやりとりを記載している。
    1999年『週刊朝日』誌上で「下山事件-50年後の真相」が連載。その後、取材を共同で進めていた諸永裕司著『葬られた夏』、森達也著『下山事件(シモヤマ・ケース)』、柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』が相次いで出版。いずれも元陸軍軍属が設立した組織と亜細亜産業関係者による他殺と結論付けている。また下山の友人、知人等は「彼の性分からしてあれほどの首切りを前に自殺するというのであれば遺書の一つは残すはずである。」として他殺説を支持する者が多かった。
    他殺説の主張 [編集]
    下山はことあるごとに「鉄道の仕事に就けて幸せだ」と言っており、大好きな鉄道で命を断つ訳が無い。
    実直な下山が、遺書も残さずに死ぬ訳が無い(国鉄の同僚の島秀雄・加賀山らの説、安部譲二(父が知己)の説)。
    轢断面やその近辺の出血といった痕跡が無いのは、轢かれる前にすでに死んでいた事を意味する(東大・古畑説)。
    下山が事件前に立ち寄ったとされる旅館の主人は元特高警察官であり、証言は疑わしい。
    大量解雇を予定通り実行させようと下山に強要したGHQが、下山を拷問の末誤って殺してしまい、それを逆手に取って犯行を労組の仕業に仕立て上げたという説。轢いた列車の前の便は米軍専用列車であり、現場をまたぐ東武線も米軍が自由に使える状況にあった。
    自殺説 [編集]
    事件発生直後から毎日新聞は自殺を主張。同紙記者平正一は取材記録を纏めた『生体れき断』1964年を出版。大規模な人員整理を進める責任者の立場に置かれたことによる、初老期鬱憂(うつゆう)症による発作的自殺と推理した。
    1976年には、佐藤一が自殺説の集大成と言える『下山事件全研究』を出版。佐藤は松川事件の被告として逮捕・起訴され、14年間の法廷闘争の末に無罪判決を勝ち取った人物であり、下山事件も連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)あるいは日本政府による陰謀=他殺と当初は考え、「下山事件研究会」の事務を引き受けていた。しかし調査を進める過程で次第に他殺説に疑問を抱き、発作的自殺説を主張するようになる。他殺の根拠とされた各種の物証に関して、地道な調査に基づいて反論を加えた。
    自殺説の主張 [編集]
    総裁になる以前の、運輸次官の段階から下山は辞めたいとこぼしていた。
    事件前日に下山はあちこちの要人に面会したり面会を要請し、しかしそれらの先々で用件を言うでも無く「嘆願や脅迫が自宅に来る」とこぼして涙ぐんだりするのみだった。他にも前日から当日朝(GHQより迫られた、解雇発表の期限)までの下山の行動に、抑鬱を思わせるものが多々ある(几帳面につけていた手帳が6月28日で途切れている、弁当を食べずに持ち歩いて交通会館の無人の部屋で一人食べるなど)。
    鉄道自殺など一瞬で生命を絶たれる事案の場合、轢断面に出血が無い事もある。胸部は離断していないにもかかわらず内部の臓器がメチャメチャに粉砕されており、これは轢過よりも立った状態での激突が疑わしい(北大・錫谷説)。
    結果的には、警察やマスコミによる自殺説の発表はGHQにより差し止められ、労組による他殺と言う風説が流布されて、後の総選挙での共産党の躍進が阻止され、日本の共産化が阻止されたのだから、事案そのものは自殺であったとしても、謀略があった事に変わりはない。
    ルミノール検査は現場からロープ小屋までしか行われていない。当時の列車のトイレは垂れ流しなので、線路ならどこでも女性の経血で血痕が出来るという説もある。またロープ小屋は細長い建物で大部分は壁が無く、犯行には不適である。

    その他


    下山国鉄総裁追憶碑
    事件後、下山総裁の轢断地点に近い東武伊勢崎線ガード下、国鉄常磐線下り方向の土手の脇に建立された。その後、常磐線改良工事や営団地下鉄千代田線敷設に伴う工事により場所を移動。現在は轢断地点より約150m東、西綾瀬1丁目付近のJR常磐線ガード下の道路西側脇にある。筆跡は第二代国鉄総裁となった加賀山之雄のもの。現在碑の置かれている場所は、五反野方面から南流する水路とそれに並行する小道が、東京拘置所(旧小菅刑務所)方向へ向かう途中で常磐線を横切る地点で、かつての弥五郎新田踏切(通称五反野踏切)に当たる。下山総裁の轢死体片は、東武伊勢崎線ガード下とこの踏切までの間に散乱していた。現在、水路は「五反野親水緑道」として整備されている。
    D51 651
    下山総裁を轢いたD51 651機関車は、1943年10月26日に死者110名、負傷者107名を出した常磐線土浦駅列車衝突事故を起こした車両でもある。
    東京都足立区立博物館所蔵下山事件関連資料
    警視庁の合同捜査会議の内部資料と考えられるガリ版刷り文書類。柴田哲孝著『完全版 下山事件-最後の証言-』にも紹介されている。
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